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【豊田市美術館】ミュージアムマーケット
豊田市美術館のミュージアムマーケットに行ってきました
名古屋でやっていたポートランドリビングに行こうと思っていたけど、駐車場があんまりなさそうで断念。つむつむ君が電車で移動できるようになったら、行きたいなと。
4月の28・29・30と開催される、豊田市美術館のミュージアムマーケットも気になっていたから、そちらに行っていました。
野外イベントって、やっぱり楽しいです。そして、美味しいものがたくさんある。あれもこれも、食べたくなってしまいます。
そして、何より嬉しいのが、子ども連れでも行きやすいところ。外食しようと思うと、赤ちゃん連れだと泣いてうるさくしちゃったらいけないな〜とか、授乳の時間とかぶらないように、ランチタイムとかぶらないように…とか、子どもも食べれるものがあるお店、とか。
いろいろと条件が出てきてしまうけど、お外だとその辺の気を使わずに美味しいものが食べられる。子連れにはありがたいです。
年に数回、豊田市美術館で開催されるミュージアムマーケット。豊田の人気の飲食店や、毎月第三土曜日に開催されるストリートパークマーケットに出店しているお店などが、テントで噴水の周りを囲んでます。
おしゃれな雑貨やアクセサリー、お皿やカップ、ハンドメイドのものなど、見ているだけでワクワクするようなマーケットです。
今回は、ミネマツヤさんのエスニックなお弁当を、木陰で頂きました。
お弁当を食べながら、なんでこんなに心地いいのかな〜と。途中で気づいたのは、おそらく演奏されている音楽のおかげかなと思いました。
バンドの方が演奏を止めると、なんだか味気ない。また演奏が始まると、足りなかったものがまた満たされていくみたいに心地良い空間になりました。
音楽の力ってすごいです。音楽がなくてももちろん楽しいんだけど、あったらより良い。場所にピッタリと合ったBGMは、居心地の底上げ力がハンパない。
今日まで、ミュージアムマーケットが開催されているので、お近くの方は是非。
豊田市美術館がこんないい場所だったとは
豊田市美術館は授乳室もおむつ替えスペースもあります。
【美術館】って、そもそも赤ちゃん連れで来るイメージではないし、むしろ【赤ちゃん連れは来ないで】という雰囲気なのかなと思ったら、授乳室やおむつ替えスペースがあり、感動しました。子どもが生まれるまで気付かなかったけど、授乳室って本当助かります。
そして、豊田市美術館といえばこの眺め。
2階の水のスペースがめちゃくちゃ素敵。また、イベントがない時もお散歩がてら行こうと思います。目の前には、小さな可愛いパン屋さんもできて、その近くにはおしゃれなカフェもあります。
すぐ近くのパン屋さん 【BreadLabo】
すぐ近くのカフェ 【each】
ここの辺で、のんびり過ごす休日もいいかもしれないですね。今日も良い1日になりますように。ナカジマノゾミでした。
【言葉】教えるよりも、浴びているという意識
喃語から、言葉へ
今日、初めてつむつむ君のはっきりとした言葉を聞きました。お腹もふくれて、お昼過ぎのグズグズしていた時。
「つむちゃんグズグズして、どうしたのー?」と話しかけたら、「ん’〜ね〜むい〜!(´Д` )」と。割とはっきり言ったのにびっくりして、「そうだったの〜!眠かったの〜!」と普通に返してしまいました。
今までは、泣き叫びながら「んまあ〜んまあ〜あ’」(ママを呼んでいるかのような。これはけっこう言う)と、朝のご機嫌な時に「パッパ」(といったような気がする)
本当にそう言っているのかは定かではありませんが、なんとなく状況に合っているので、しゃべったということにしています。
言葉って、本当に大切だ
言葉って生まれた時から日常的に浴びています。(僕を見て、何か言っているな〜)(ママとパパ喧嘩しているな〜)(僕のこと、うるさい言って言っているな〜)(みんなが受け入れてくれているな〜)
そういうぼんやりとした意味って、赤ちゃんって絶対分かっているんじゃないかなと思います。
言葉だけじゃなく、その時の表情や仕草から、その状況を読み取っている。赤ちゃんって、大人よりも何倍も感受性が強いらしいのです。
毎日、浴びるように言葉を吸収している。
だから、大人が言葉を【教える】のではなく、日常に本人に伝えるという方が効果があるような気がします。
言葉は、教育的な意味以上の価値がある
ここで言っているのは、言葉遣いや礼儀的な言葉のことではなくて、思考の言葉のこと。
例えば親が「〇〇のせいで」という口癖だった場合と「〇〇のおかげで」という口癖だった場合って、全然違う考え方になる。
「〇〇のせいで」と言っていたら外側に原因を求めるようになるし、「〇〇のおかげで」と言っていたら外側の有難いを見つけられるようになる。
「出来たね」と言えば、出来たことを数えられるようになるかもしれないし、「出来ないね」と言っていたら、出来ないことをやってみようと思わないかもしれない。
そして、その言葉が行動を作り、思考を創り、現実を造る。
言葉と人生は密接な関係にあると言っても過言ではない。
大人になったら、自分で修正していけるし、気付くことも出来る。でも、赤ちゃんのうちや子どものうちは周りの大人が気をつけていくことが大切なはず。
オリンピック選手や、野球選手の発した言葉を見てみると、力強い言葉を使っていることが多い。自信、前向き、自己肯定感、10代の若い時からそいういう言葉を使っているということは、親や周りが厳しい中にも折れない心をつくる言葉を選び、接していたのではないかと思う。
言葉が行動を作り、思考を創り、現実を造る。
だからこそ、普段浴びせている言葉に意識を向けなければならない。
そして、自分の発した言葉を一番聞くのは自分の耳。子供のためだけではなく、自分のためにも言葉を見直す必要がある。
子どもが生まれて、改めてそんなことを思っています。今日も、一緒に言葉を楽しもう。ナカジマノゾミでした。
【初めての】子どもを預けてみるの巻
3ヶ月ぶりに美容院に行ってきました
またまた、バッサリといってきました。
今回は、いつもと違うところ。【キッズルームがあって、保育士さんがいる美容院】という条件で検索したら、豊田にも結構ありました。
生まれて初めて、知らない人に預けられるつむつむ君。(たった2時間だけど)どうなるかな〜とちょっとワクワクしてました。
そして、案の定。
二時間半泣きっぱなし。笑
笑えないけど、笑える。笑
人見知りが始まったのもあり、もう一人預けられていた赤ちゃんと大合唱していました。
体力あるな〜って、美容師さんも笑っちゃってました。
子どもがいることは、申し訳ないこと?
先日、こんなトピックスを見かけました。
【子どもが生まれてから、いろんな人に謝らなければいけない機会が増えました。子どもが何か悪いことをした時は謝るのが当然ですが、さすがに疲れてきました。子どもがいることって、そんなに申し訳ないことなのでしょうか?】
お母さんって、大変なんだなあ…と他人事のように読んでいましたが、今日はまさに(謝るってこんな感じか〜)と体感した最初の日でした。
リラックスしに来ている他のお客さんに申し訳ないし、ずっと抱っこしてあやしてくれている保育士さんに申し訳ないし、美容師さんも気が散ってしまって申し訳ないし…
確かに、世のお母さんは肩身が狭いのかもしれないなあ、と。
でも【子どもがいることは、申し訳ないこと】というのはちょっと違う。子どもがいることで、社会に華が咲くこともあります。
例えば、ちょっとしたお買い物をしていても、通りすがったおばあちゃんが話しかけてくれたりします。きっと、私一人だったら生まれなかった会話が生まれることもあります。笑顔が咲くこともあります。
レジの人が、優しい時間を作ってくれることもあります。通りすがった子どもが「赤ちゃんかわいいね〜」と言って穏やかな空気が流れることもあります。
謝る機会も多いし、迷惑をかけることもあるけど、それだけじゃない。
子どもは、未来そのもの
子どもを育てるということは、未来を育てるということなのかもしれない。
迷惑もかけてしまうこともあるけど、もっともっと大きな目で見れば、どの子どもだって未来を担っていく存在なのである。お母さんが卑屈にならなくてもいい、優しい社会があってもいいはずだ。
私のお母さんは、弟がグレて悪さをした時、本当に辛かったと言っていた。おそらく、学校にもお友達にも、謝りっぱなしだったはずだ。
でも「あの時、迷惑をかけてしまった」という気持ちは、彼の中でその後良い影響を及ぼしているのではないかと思う。
その分、奥さんに優しくできるかもしれない。お母さんが困った時に、今度は自分が助けてあげたいという気持ちが大きくなるかもしれない。自分の子どもが誰かに迷惑をかけてしまった時に、ぐっとこらえて頭を下げられるかもしれない。
もちろん、それを期待して恩を売るわけではない。でも結果的に意味は、ある。
そして大切なのは、申し訳ないと思うのは子どものしてしまった【行為】であって、子どもの【存在自体】ではない、ということ。否定されたり批判される行為はあっても、否定されるべき存在は、この世にいないはずだ。それは大人も一緒。
これからきっと、私もたくさん周囲に謝る時が来る。でも、それ以上にたくさん笑顔が生まれる機会にも出会える。子どもは、未来だから。
今日もありがとうございました。ゴールデンウィークの人も、そうでない人も、いい週末になりますように。中島希でした。
大切なのは、どんなレンズを選ぶのか
カメラ講座をしてもらいました
この前、写真の得意な方に、超初心者向けのカメラ講座をしてもらいました。
カメラを買ったはいいものの、確実に使いこなせていないので、まずは知識から。カメラの基本的な調整の仕方をサラーっと教えてもらいました。
光と、構図と、ボケ。
ん〜カメラって、忙しい。 頭の中でぐるぐる用語が飛び交っていました。
そして、私のいつものcanonのカメラにいろんなレンズをつけさせてもらいました。単焦点に、広角レンズに、ものすごい望遠レンズ、そしてマクロ。なかなかいろんなレンズを触るチャンスってないから、大興奮!
同じ場所から同じものを見ても、こんなに見え方が違うのかと衝撃でした。
自分の目で見るときも、一緒
自分の目で世界を見るときも、どんなレンズで見るのかによって全然違う世界が見える。
温かい世界なのか、厳しい世界なのか、優しい世界なのか、悲しい世界なのか。一緒の出来事を見ても、感じ方は人の数だけある。そして、そのどれもが『現実』として存在している。
どんなレンズで見るのか。それによって、全然違う世界になる。
自分が見たい世界を見るには、自分の見たい世界が見えるレンズをつければいい。
大切なのは、どんなレンズも簡単に付け替えることが出来るということを知っておくこと。どんなレンズも選べることを知っておくこと。
世界はひとつ。でも、君の世界は無限大。
それを知っていれば『起こった出来事』が大切なのではなく、『起こった出来事』に対する意味付けが大切だということが実感できる。
失敗しちゃったから、もうしたくないと思うのか
失敗しちゃったから、またやってみようと思うのか
失敗しちゃったから、この方法ではないということを知るのか
失敗しちゃったけど、みんなが助けてくれたということを知るのか
どんなレンズをつけているかによって、大きく現実は変わる。それだけのこと。
自分は今、どんなレンズをつけているのか。それを知って、コントロール出来れば、世界の扱い方が上手になるかもしれない。
そんなことを思ったカメラ講習でした。原理を知ることと、実践すること。どっちも少しずつ理解していけたらいいなあと思います。
あ〜。どのレンズでみても、つむつむ君可愛いなあ。毛の一本一本まで、まつげの先まで、瞳の奥まで可愛い。親バカというレンズは、簡単には外せないようです。ナカジマノゾミでした。
小さな違和感が大きなストレスに
小さなストレスをごまかさない
昨日、歯医者さんに行ってきました。
実は、妊娠後期に歯の詰め物(小学生の時の虫歯の治療跡)が取れてしまって、なかなか歯医者さんに行けず、そのままになってしまっていました。
なかなか行けず、とは言いましたが、本当はもっと早く行けたような気もします。そんなに支障がないかなと思ってしまったが故に、先延ばしにしていました。
痛いわけでもない、進行しているわけでもなさそうだから、まだいいか、、なかなか子ども預けられないし…と、歯医者さんに行かない言い訳をしていました。
でも、自分でも気付かないうちにちょっとずつストレスになっていたようです。なんせ、食後に楊枝が欠かせない。鶏肉とか食べた日には、もう大変。めっちゃ歯に挟まる!
やらなきゃいけないことが心の中に引っかかっているストレス
(これ、やらなきゃ)(時間があるときにやらなきゃ)と先延ばしにしていることって、結構あります。自分に都合の良い言い訳を作って、やらなかったり。
でも、それって知らないうちに小さなストレスになっているんだなあ、と改めて気付きました。
【やらなきゃいけないけど、やれない】ではなくて【やりたくないから、やらない】と、自分で割り切っていればいいのですが、心のどこか引っかかっている小さなストレスは、気付かないうちにイライラの原因になってしまいます。
今回もまさにそれ。一度行ってしまえば一発ですっきり。本当、行ってよかった!
初めて行った歯医者さんだったのですが、なんとキッズルームがあって治療中は幼稚園教諭の資格を持った歯科助手さんが見ておいてくれるとのこと。
私、半年間、何をしていたんだろう!できないと思い込んで勝手に小さなストレスを溜めていたに過ぎなかったとは。
旦那さんのせっかくの休みの日に預けたら悪いな~とか、2~3時間預けるのも見てるの大変かな~とか、申し訳ないという思いもあったけど、方法はいくらでもあるということを知りました。
調べてみたら、今は、美容院も園がくっついているところもあるようで。早速行きたくてうずうずしていた美容院にも行ってこようと思います。
固定概念を外して、自分の枠を取り払う
固定概念って、本当に恐ろしい。自分で自分を枠にはめて、勝手に苦しくなっていることって結構多いのかもしれない。世間の常識だと思っていること、自分の中では当たり前だと思っていること、そうやって育てられたこと、何か息苦しさを感じたらそういうことを疑ってみてもいいのかもしれない。
そもそも、自分の中で当たり前になっていることは、固定概念なのかどうかもわかりにくい。そうやって、枠はどんどん狭く厚くなっていくのかもしれない。
時には【当たり前のこと】を疑ってみたほうがいい、きっと。
子育てに関しては、私も決めつけていることが本当にたくさんありそうだから、枠を取っ払っていく必要がありそうだ。
ぴったりとはまった歯の詰め物は、なんとも爽快な気分。今日もいい1日が過ごせそうです。皆さんも良い1日を。中島希でした。
期待の大きさが仇となる時代
コーヒーカップの手書き風のラベル
少し前に、コーヒーショップに行った時にこと。
コーヒーカップに貼ってあるシールに、手書きの文字を印刷して「THANKYOU(うさぎのマーク)」と書いてあった。※手書きではないけれど、誰かの手書きを印刷したもの
いつもはカップにマジックで何か一言書いてあったりすることはあるものの、プリントされてきたのは初めてで、なんだかものすごい違和感を感じた。
そして、一緒にいた子に「この手書き風の一言添えた印刷ラベルって、珍しいね~。」といったところ、こんなことを教えてくれた。
「自分のカップにだけ手書きで何も書いていないことに、ショックを受けるお客さんがいるからじゃないかな?」
期待を持ってしまうこと
SNSが発達して、サービスする側が大変だと感じる部分。それは「自分だけ、他の人よりサービスを受けていないんじゃないか?」と思ってしまう人が出てくるということ。
例えばある人が「◯◯と言うお店に行ったら、こんなサービスをしてくれました!最高!」と、投稿したとする。それを見た人が、そのサービスを期待してそのお店に行ったのに、思っていたようなサービスがなかったとする。
すると、通常のサービスを受けたのにもかかわらず「私には特別なサービスをしてくれなかった!」というところだけがクローズアップされてしまう。
そうなると、サービスする側は、一定のサービス以上のサービスを提供しにくくなる。状況を見て、忙しい時、手が空いている時、その瞬間に自分ができる最高のパフォーマンスをすることがホスピタリティにつながる、ということがわかっているのに、なんとももどかしい。
そういえば、こんなニュースもあった。
ニュース;ファーストクラス乗ったのに、誕生日祝われなかった! 「泣いてしまいました」男性乗客、怒りの星1つ
誕生日にファーストクラスに搭乗したのに、客室乗務員はそのことに気づいてくれず、とうとう自分から伝えたところ、謝られてケーキとシャンパンが出てきた、というもの。そのことに男性の投稿者は悲しくなって、泣けてきてしまったという。
これには、ちょっと申し訳ないけど笑ってしまった。なんだか、可愛さすら感じてしまう。いやいや、それはプラスαの部分であるべきで、怒りのクレームというとちょっとずれているように感じる。
この投稿者が、この航空会社に大きな期待を抱きすぎていたからこそ、そうなってしまったのだ。航空会社は謝罪しているけど、これって謝罪することなのかな。
とはいえ、本人からしたら、かなりショックだったのであろう。サービスの内容がどうであれ【評価星一つ】には、変わらない。
期待することは、悪いことばかりではない
そのことで、お客さんが増えてくれるのも事実である。しかし、過度な期待が相手を落胆させてしまうなんて、皮肉なことだ。
サービスとホスピタリティの違い
サービスの部分と、ホスピタリティの部分を混同してしまうから、こういう事態になってしまうのだ。
サービスとは相手に頼まれたことをすること。つまり、商品の提供だったり、技術の提供、お願いされたことをすること。
ホスピタリティとは、お願いされていないけど相手が望んでいるであろうことを予測して提供すること。
全くの別物だ。サービスには義務があったとしても、ホスピタリティには義務がない。というよりは、義務がないからこそ、期待を超えた嬉しさが発生する。
受け手側が、サービスとホスピタリティの違いをわかっていなければ、話はややこしくなる。日本人は、平等や均衡を重んじることから、特にこの感覚が伝わりづらいのかもしれない。
ラテアートに対する意識
以前、移動カフェをしている時になんとなく苦手な言葉があった。
「ラテアートって、してもらえるんですか?」という言葉だ。もちろん、喜んでさせてもらいたい!と思っていた。期待してくれることは嬉しいし、そう言ってワクワクしてやってきてくれたお客さんはなんだか可愛い。
しかし、いつもなんだか違和感を感んじていた。
その理由が、今わかった気がする。
おそらく、私にとってはラテアートはホスピタリティの部分だったのだ。相手が望んでいることを察知して提供したい、という部分。
しかし、相手からの要求によってそれはサービスになる。そこの違いが自分な中でしっくりきていなかったのだ。
どちらが悪いわけでもない、双方の認識の違いである。
コーヒーショップのカップの意味
そもそも、手書きだから、自分にあてて書いてくれて嬉しいと感じた人がいた。しかし、それができない状況の時に当たってしまった人が悲しんでしまった。だから、手書き風の印刷をした。
これって、全く以て本末転倒。意味がない。
昔だったら、全く問題なかったことでも、ややこしくなってしまったものだ。
受け手側は、「自分だけ、してくれなかった」という被害者意識ではなくて、過度な期待をせず、たまたまラッキーに当たった時は喜べるくらいに気持ちを緩ませて生活することが必要だ。
本末転倒なサービスは、滑稽だ。
サービスとホスピタリティ、それを理解しておくことは粋に生きる第一歩。中島希でした。
【検索社会】検索して答えは見つかるの?
なんでもかんでも、検索してしまう時代
最近、自分自身においても感じていることがある。
今、まさに検索社会だと思う。【検索社会】という言葉が存在するのか、しないのかはわからないけど。
日常のかなで「なんだろう?」と思ったものや、「どうやるんだろう?」と思ったこと、ついついスマホやパソコンで検索してしまうのだ。
それだけならまだいい。
人の気持ちや、自分の心の中まで検索結果で得ようとしてしまうことがある。検索は便利だけど、これには少し恐怖に近いものを感じる。
検索社会の便利さ
これまでは、情報には多大な価値があった。知識として得たものや、独自の考え方は財産として自分の中に存在していて、それを他人に渡すのは話したり、本を出したり、セミナーをしたり、そんなことが必要だった。
「欲しい!」と思った情報を得るまで、タイムラグがあった。
今は、欲しい!と思った情報を得るためには、スマホを開いたら10秒もかからない。検索して、即、得ることができる。表面上の知識は、ほぼ全員が共有していると言ってもいいくらいだ。
ただし【知識として、知っている】のと【体験して感じる】のは、大きな違いだ。
検索社会の違和感
情報をすぐに得られる、というのは非常に便利だ。何かをやりたい!と思った時に、すぐに行動に移すことができる。例えば、毎日のご飯のレシピ。思いつかない時は冷蔵庫にあるものを入力して検索すれば料理の仕方が出てくる。
昨日の、天然酵母なんて、まさにそれ。10分前には知りもしなったことが、すぐ形にできる。興味のある人を見つけて会いに行くこともできる。かわいいお店を知ることもできる。
すごく素敵なことだ。
私自身は、お腹に赤ちゃんができた時から、検索魔になった気がする。そのほとんどが不安からくるものだ。例えば今日、胎動が少ないなあと不安になった時。『妊娠30週 胎動 少ない』などと検索し、その不安を打ち消そうとするのだ。
今は『生後6か月 はいはい いつ』とか。笑
誰かの情報と、今目の前にいる子。個人差があるのは承知した上で、検索してしまうのだ。これは、もはや癖と言ってもいいくらい。いつはいはいするのかなんて、検索したって仕方がない。画面を見るんじゃなくて、目の前の子どもをよく観察していた方がよっぽど分かる。
そんなことわかっているはずなのに、手が勝手に検索してしまうのだ。
ある事柄に詳しい人に、あえて直接質問した時には『自分で検索したら、出てくるよ』と言われたこともある。それは、確かにそうだ。でも、その時に私が質問した意図は『情報のやり取り』ではなくて、『その人本人との、コミュニケーションとしての質問』だったために、なんだか少し寂しい気持ちになった。
それで、その中に答えはあるの?
欲しい情報のほとんどは、確かに検索結果の中にある。
でも、人間の気持ちや自分の心の中の声は、検索結果の中には無い。そのことを踏まえておかないと、自分を求めて彷徨うことになりかねない。
何がしたいのか、どうしたいのか、どこに向かうのか。それを検索するとしたら、画面じゃなくて自分の心の中を検索するべきだ。【どうしたいのか】が無いままに【どうしたらいいのか】の答えなんて出るはずがない。
【検索する】ということは、答えは自分の外側にある、と思っている状態。でも、本当に大切なことは自分の外側には無い。自分の内側に聞いてみるしか無いのだ。
答えは、探すものじゃない。いつも自分のなかにある。
検索では得られないもの
ここの所、自分で自分が何をしたいのか、心の声を聞くことをおろそかにしていたような気がする。この先何がしたいのか、私自身の本当の望みは何か。だから、モヤモヤもするし、なんだかしっくりこない日々が続いていた。
でも、これを書いていて感じたことは、私は多分【検索】では得られないものを提供したいと思っているのだということ。画面上で完結しないもの。リアルな生活の中で、人間の温度を感じられるもの。
インターネットも、ブログも利用させてもらうけど、それは手段にすぎない。目的と手段を自分の中で混同してはいけない。
答えは、探すものじゃない。いつも自分のなかにある。そのことをよく理解したはずだったのに、すぐに忘れてしまうから、やっぱり時々は自分会議をしなくてはいけない。
答えはいつも、自分のなかに。中島希でした。
【おうち菜園】今年も野菜の季節がやってきた
家庭菜園のしやすい季節がやってきました
冬に焚いた薪ストーブの灰を、ちょっとずつ土に混ぜていて、なんとなく去年よりは良さそうな土壌になってます。
今年は、ネギ、大葉、枝豆、ピーマン、ナス。
美味しくできるといいなあ〜。
何かを育てるのって、根気が良くないと出来ないし、忘れっぽいと放ったらかしになってしまって、すぐに枯れてしまいます。
私は、植物を育てるのが本当に苦手で、いつもとことん枯らせてしまいます。あの、枯れてしまった植物を見るときに申し訳ない感。自分への不甲斐ない感。何度味わったことか。
今年こそは!と、毎年のごとく意気込んでいます。
家庭菜園のいいところ
去年のおうち菜園は、ミニトマトがいっぱい出来ました。なんとなく、採りたては美味しいような気がしましたが、おそらくかなり贔屓めに見ていたからかな。
自分で育てたものって、なんとなく愛着が湧くし、大切に食べれるような気がします。
他には、ローズマリーが少し離れたところにのびのびと大きくなっています。これは、元の住んでいた方が残していってくれたやつ。料理では使いこなせないけど、たまーに、柔らかい新芽を摘んで適当にお皿に添えています。
庭から野菜を採ってきて、それを使って料理する。以前の私では考えられなかったけど、やってみるとなかなか楽しいものです。スローライフしてますワタシ!、って感じがいい。
今年からは、つむつむ君の食育や、何かを育てる事での優しさの形成にもつながれば良いな〜なんて思っていますが、親が本当に育てられないタイプなので、どうなることやら。
自然相手の仕事
移動カフェをしている時に、何人か農家さんのお客さんがいました。美味しいものや良いものを育てようと研究している人、環境やこれからの日本を見据えて農家に転職した人、親の後を継いだ人、自分で切り開いていった人。
そんな話を聞いていたら、自然相手の仕事って本当に凄いことだと思いました。
自分がどうこうしても、100パーセントにならないこともある。天気が味方してくれることもあるし、天気に泣くこともある。
特に自然災害なんて起これば、大きな被害も出てしまう。1年分の収穫がダメになってしまうこともある。
だからか、農家をしている人は、どっしりとしている人が多いように感じました。起こった出来事を嘆いてもしょうがないから、今、出来る最善の策でカバーする。その都度、臨機応変に。
出来ることは、すべてする。でも、人間の非力さがこれでもかと言うほど出てしまうのが農業なのかもしれないなと思いました。
天然酵母ってなんぞや
ところで、先日スコーンが大好きといった投稿をしたのですが、SURIPUのスコーンってなんでチーズっぽい味がするんだ?チーズ入りなのか?と思っていろんなレシピを調べてみると、天然酵母を使って作ったスコーンは発酵の関係でチーズのような風味がするのだそうで。
庭にワサワサ生えているローズマリーから、天然酵母を作ってみようと、見よう見まねで瓶に漬けてみました。(こんな時、全く無知でもなんとなく形にはなるから、グーグル先生ってすごいなあと思います。)
こちらも、また育てる系のやつですね。失敗するか、成功するか、そもそも何が成功なのかもよくわかっていませんが、ちょっと実験的に。どうなるかな〜わくわく。
いつか、美味しいスコーンが自分で焼けたら、いいなあ。
育てるって、『明日』がちょっと楽しみになることなのかもしれないなあ。中島希でした。
【SURIPU】スコーンとアイスコーヒー
アイスコーヒーの美味しい季節
春日和が増えて、日中かなり暖かくなりました。こうなると欲しくなるのがアイスコーヒー。先日、どうしても鶴舞のパン屋さんに行きたくて、小一時間ドライブしていたら、運転しながらめちゃくちゃ喉渇いたんですよね。
コンビニ寄ろうかなあ〜どうしようかなあ〜…と思いながら。
そのパン屋さんは美味しいコーヒーのテイクアウトもしてくれるのを知っていたので、そのまま向かいました。つむつむ君もスヤスヤ寝ているし、起こすのも嫌だしね♪と。
ところが、途中から猛烈な喉の渇きになり…
もう、あれですよ。中学校の部活を思い出すレベル。あの夏の暑い日に、体育館で部活の休憩中に飲んだお茶、美味しかったなあ…。(ちなみにバスケ部です。シュートがぜんぜんはいらないバスケ部員、スリーポイントは真ん中からしか届かない。需要ほぼ無し。)
そんなこんなで、到着。
一刻も早く、飲みの物を!という状況で、つむつむ君むくむく起きてお腹空いたらしく、車の中で授乳。いつものようにふざけながら、「飲もっかな〜、やっぱり飲まな〜い、でもやっぱり飲みたい〜!ニヤニヤ」っていう顔しながら。…ママ喉乾きすぎて死にそうなんですけど_| ̄|○
で、ようやく店内へ!ここまで来たんだから!ここまで頑張ったんだから!!(勝手に)この渇きを潤すのはめちゃくちゃ美味しいアイスコーヒーがいい!今飲むのは、絶対にキンキンに冷えたブラックー!と、到着して作ってもらったアイスコーヒー。
まーーーーーーー美味しかった!本当に一瞬で飲んでしまいました。生き返るって、こういうことだ。
夏の暑い日の、キンキンに冷えた淹れたてのアイスコーヒーほど、至福な瞬間ってないよなあ。(ビールでも同じこと言ってた気もするけど)
室内でのんびり飲むには水出しもいいけど、こういう時はキリッと濃いめの急冷した淹れたてが最高!!!と豪語しています。そしてそんな時に飲むアイスコーヒーはびっくりするくらい冷やしてほしい。
あんまり冷やすと、香りや味が感じにくくなるのはよくわかるけど、飲んだ時の幸福感を優先したいタイプです。
アイスコーヒーを淹れる時は
アイスコーヒーを淹れる時は、通常、豆を細かめに挽くことや豆の量を増やすこと、豆の種類を深煎りにすることなどで氷で急冷しても薄くならないように調整します。
自分で入れる時は、私は相当豆の量を増やすタイプです。ホットの倍近い量を使います。
抽出する時は、淹れ始めた前半は、濃く甘みや旨みを豊富に含んだコーヒーが抽出されます。中盤から徐々に薄くなり、えぐみや苦味を含むようになります。
なので豆の量がいつものままだと、急冷して氷で薄まった時に、いつもと違う味に感じると思います。苦味が強かったり、えぐみが出てしまったり。
いつもよりちょっとだけ細かめに挽き、豆は多めがオススメです。
【SURIPU】のスコーンが好きすぎる
そうそう、なぜ鶴舞のパン屋さんに来たのかというと。昔っからスコーンが大好きで、どうしてもスーリープのスコーンが食べたくなってしまったから。
めっちゃ美味しいんですよ。パン屋さんだから、パンもめっっちゃ美味しいんだけど、ここのスコーンが本当に大好きです。
スコーンって、本当に好みが分かれる食べ物で、スタバみたいなふわっとしたパンみたいなのが好きな人もいれば、ゴツゴツした、どしっとしたものが好きな人もいる。私はゴツゴツして、ザクザクして、なのにほろほろするやつが好き。
水分持ってかれちゃう感じも、粉の素朴すぎる感じも、たまらなく好き。
スコーンが目に入ったら絶対食べるくらい大好きだけど、ドンピシャなスコーンって、2回くらいした出会ったことがないかもしれないです。行ってみたいお店はあるんだけど、遠かったり通販なんてやってなかったり、営業時間に行けなかったり。もうこうなったら自分で作ってみよう!と、作っても全然私の求めているものにならない。笑
ふわっとしたのとか、サクッとしたのでは物足りなくて、もっともっと男前なスコーンが好きです。スコーン好きな人いたら、ぜひSURIPUさんの試してみてほしいです♪バリスタさんの美味しいコーヒーも一緒に買えます。
SURIPU
愛知県名古屋市中区千代田2-16-20 安井ビル101
052-263-3371
8:00~19:00(売り切れ次第閉店)
定休日:月曜日・火曜日
思い出したら、また食べたくなってきた!中島希でした。
【見える化して悪を無くす】よりも、大切なこと
ザ・サークルという映画を見ました。
SNSの普及により、便利になっていく世の中、つながりに重きをおいた社会。透明化(見える化)して、すべてをオープンにしすること。24時間、自分の生活を全世界にカメラ中継し配信することになってしまった主人公の女の子。現在のSNSをそのまま描いたような映画でした。
この映画が、おもしろかったとかおもしろくなかったというのは別にして、考えさせられる場面がありました。
見える化すれば、悪はなくなる…?
途中、巨大SNS会社のCEOの発言で「すべてが見える化すれば、この世から悪はなくなる」という旨の言葉があって、ハッとしたような気分でした。
どういう意味かというと【人は、誰かに見られているという意識があると、良いことをする。しかし、誰にも見られていないという意識があると、悪事をする。だから、この世界のすべて(個のプライバシーも)見える化すれば、悪はなくなるのではないか?】という事。
あぁ、それでか。SNSの発達によって、私の中で気持ち悪く感じていたムズムズ感が解消した言葉でした。
この、CEOの言っている意味はよくわかります。フェイスブックやインスタグラムの普及によって、おそらく【世の中にとって良いこと】って増えていると思います。誰かに見せる自分は【良い自分】がいいし、【いいね】と言われる行動をしたい。
でも、誤解を恐れずにはっきり言ってしまえば、なんだかちょっとそれって気持ち悪い。
【誰も否定できない良いこと】だからこそ、余計に。
はたして、人は見られていないと悪事をするのか
人は、本当に見られていなければ悪事をするのだろうか。
私は、そんなことはないと思う。人が見ていなくても、自分の目は、自分の行動をいつだって見ている。それは、誰かに批難されることはないかもしれないけど『自分で自分をがっかりさせる』それが積もり積もると、自分を信用できなくなり、自分を嫌いになる。
誰かに嫌われるより、自分で自分を落胆させるのが、人生にとって一番つらいこと。
それを知っている人ならば、誰かが見ていようと見ていまいと、行動は変わらない。自分で自分を好きになる行動をしようと思えば、自然に世の中は穏やかになるのではないだろうか。
それを知るのは【見える化して悪を無くす】よりも、大切なこと。
正義の刃について、思うこと
『正義の刃』とは、正義を振りかざして相手を追い詰めている光景を目にした時に、いつも頭に浮かぶ言葉です。この映画をみていたら、そんな言葉も思い出しました。
例えば、不倫をした芸能人をコテンパンに叩く時。
犯罪者を育てた親を、世間が見せしめのようにバッシングする時。
ポイ捨てした人を、追いかけて罵声を浴びせる時。
誰かの過ちを非難しながら、自分の正義を振りかざしている時。
戦争を始めた人も、それに応戦した人も、誰もが自分を正義だと疑わなかったはず。自分は正しい、相手が間違っている。つまり、誰もが自分の正しさを貫こうとした時。
自分は悪だ、と知っている人よりも、自分は正義だ、と思っている人のほうが残虐な行動をしてしまうこともある。世界で1番怖いのは、正義という刃なのではないだろうか。
正義ってなんなのだろう。悪って、なんなのだろう。どっからみた正義が、正義なのだろう。
自分も利用させてもらっている、SNS。でも家族や友人、本当に大切な人とはSNSというフィルター越しじゃなくて、言葉だけの「つながり」じゃなくて、人間として向き合いたいなと思った映画でした。