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【地震】大切なものを守るために

関西、大阪の方、大丈夫でしょうか。
 

昨日は、ニュースからもSNSからも、大阪の地震の安否確認の声が沢山聞こえました。

 

しばらくは大きな揺れが起こるかもということなので、お気を付けください。そして、大阪以外でもいつでも地震の可能性はあるので気をつけなくてはと思います。

昨日の朝8時頃は、自宅でつむつむくんと二人でまだベッドの中でした。旦那さんは仕事で空けていたので、二人きり。

余震が長かったものの「いつもの地震かな…」と、つむつむの頭をかばいながら、すやすや眠る彼の顔をみながら、おさまるのをじっと待っていました。

ちょうど2,3日前の夜に震度3の揺れがあり、その時にすこし怖くなって「地震の時に赤ちゃんを守るにはどうしたらいいか」ということをインターネットで調べていたばっかりだったので、ますますドキドキしました。
 

地震の時に、とにかく赤ちゃんを守るために必要なもの

 
こういう時のインターネットの情報は本当に役に立ちますね。ちょうど目に止まったのが阪神淡路大震災のときに赤ちゃんと一緒に避難した人のブログでした。

そこには、とにかく赤ちゃんを自分から離さないようにするために、抱っこ紐が何よりも必要と書いてありました。

赤ちゃんの頭を守ること、そして、両手をあけれるようにしておくこと。おむつやミルクも大切だけど、それは避難してからの話で、とにかく一番先に命を守るためには抱っこ紐を近くに置いておこう、心に留めたばかりでした。

そして、自分を守ることも本当に大切なこと。

私しか、大切なものを守ることが出来ないとしたら、私は絶対に死んではいけない訳です。私の大切なものを守るために、私は私を守らなければいけない。

旦那さんは、非常時には人を助けに行くための大切な任務があります。なので、子どもは私が守る。私がしっかりしないといけない。
 

大阪の地震で亡くなった命

 
大阪の地震で、登校中の女の子が壁の下敷きになって亡くなってしまったというニュースが流れていました。

今は、自分も親になり、親の気持ちで捉えてしまうので、、、本当に心苦しいです。さっき「行ってきます」と言った我が子に何かあったら、、、そう考えると、言葉を失います。

ほかにも亡くなった方が何名かいらっしゃいました。ご冥福をお祈りします。

怪我をされた方、避難所にいる方、、最小限の被害で抑えられますように。

緊急避難先を決めたり、非常袋としてリュックを用意しておいたり、日頃からシュミレーションしておかなくてはということを改めて感じた一日でした。

みなさんの大切な人や、大切な人の家族が無事でありますように。

2018年06月19日 | Posted in ブログNo Comments » 

 

自由とは、ルールがないことではない

 

ついに、ベビーサークルを買ってしまいました

 

 

ベビーサークルとは、赤ちゃんの安全を確保するオリのようなもの。出来れば買いたくないな~と思っていましたが、土間も階段も薪ストーブも隔たりなくリビングに面しているため、すべてを行けないようにするのであれば、広めに彼を囲ったほうが早いのでは?という話になり。

大きめサイズのべビーサークルを置くことにしました。

つむつむくん、このベビーサークルのおかげでつかまり立ちをするように。「出してくれ〜うほうほ!」っと言っているようです。一緒に中であそぶ分には楽しそうなのですが、家事をするために離れると、とたんに柵の端によってきて出して出して〜と呼んできます。うーむ、心苦しい。
 

枠を決められてしまって、不自由を感じている人はどれほどいるのだろう

 
自由っていうと、枠がない(ルールがない)ということを思い浮かべるかもしれませんが、私が自営業してみて思ったのは、自由こそルールがしっかりあるということです。

自由って、ルールがないことではなく、ルールを自分で決めれるということ。そして、自分でルールを決めれる代わりに、すべての責任を自分で取るということ。

今考えれば、未成年のときに親が決めたルールを守るのは当然のことだったような気がします。自分で責任をとれる立場ではなかったのだから。(こうやって、昔言われたことを理解していくのが人生なのかもしれないですね)
 

移動販売って、自由なの?

 
移動販売というと「自由でいいね〜!今日はここへ行って、明日はあっちへ行って、って自由に決めれるんでしょ?」とよく言われたのですが。(そんな訳あるかい!)と心の中でいつもツッコんでいました。

確かに店舗よりは自由度は高い。でも、今日はあっちへ行こう!明日はこっちへ行こう!なんていうノリではないですよ。当たり前だけれど。

自分の中でルールを決めて、何ヶ月も前から予定組んで公表して宣伝して。出店させてくださいって頭下げてアポ取って、場所代etcのお金払って、時には値上げ要求にも応じて(笑)

依頼された仕事なんかは、責任ももちろんある。「今日は体調が悪いので休みます、ごめんなさい」なんていうのは絶対NGなわけで、当日キャンセルなんてありえない。先方が広告をうっている場合には多大な迷惑をかけることになる。這ってでも行けよ、と。(そこまで求められていないかもしれませんが。)

だから、そうならないように徹底的に体調管理することが大切だったりする。

規制も枠もルールもなんにも無い!フリーダム!ふぉー!っていうのは、意外と楽しくないのだと思います。
 

ルールのないスポーツは楽しくない

 
例えば、野球しようと思ってみんなで集まっても、ルールが何にもなかったら何をやっていいのか分からないですよね。バットとボールという道具だけでは試合にならない。そこにルールがあるから面白くなる。ルールの中で何が出来るのか、どうやって攻略するのか、どうやって勝つのか。そんなことを考えるのが楽しいのではないかな、と。

もし今、自由がない!と思っている人がいたら、誰かが責任を取ってくれるという守られた状況であるということに感謝すること。そして、その限られたルールの中でいかに楽しくやるかということ。

そんな事に気づいてほしいなあと思います。

つむつむ君、きっとそのうち柵を攻略して出てくるんだろうなあ。その攻略が楽しくて何度もやるんだろうなあ、と予想しています。いつになるかな〜楽しみです。ナカジマノゾミでした。

 

「育てる」のではなく「育つ」を見守る

 

今日で、つむつむ君8か月になりました

 

まだ上手くは前に進めないけれど、お尻を上げて立ち上がろうとしてみたり、おすわりがしっかりと出来るようになりました。

 

あとは、離乳食の好みがわかってきたことと、お昼寝の時間がだいぶ短くなってきました。朝の1時間と午後の1時間。あとはずーっと起きて「あうあう」ゆったり、ブーっと唇で音を出して遊んでます。いや〜元気元気。元気で何より。
 

育てるのではなく、育っている

 
生まれる前は「子どもは育てるもの」と思っていたんですが、ここにきて、そうでもないのかもしれないと思い始めました。

そのきっかけになったのは、「子どもの脳科学」や赤ちゃん学の本を読んだことがきっかけでもあります。

その本には「早期教育などで子どもに無理に教育するよりも、子どもの育つ能力を信じてみませんか」というような内容でした。

育てなきゃ、育てなきゃ、と思っていたのに、全然育てれてないのでは?と思っていた私にとってはホッとするような内容でした。

なんせ、この8か月、育てているという感覚がほとんどないんです。
 

「子育て」って育てる側が主導だと思っていた

 
「子育て」というと、なんだか育てる側が主導であるようなイメージでした。「私が育てるぞ!」とか「育てなきゃ!」とか。でも、あくまでも育つのは子どもであって、親はそのフィールドを作ってあげることしかできないんだなと感じるようになりました。

「育つ」ための環境は作ってあげられるけど、実際に「育つ」のは彼自身。

そして、その育つ能力を信じて一緒に生きるということが「育てる」ということなのかなと。

今のところは「育てている」という感覚はあまり感じておらず「共に生きている」「一緒に暮らす仲間がひとり増えた」という感覚です。(来年の今頃はどうなっているかな〜)

 

そういえば、去年の今頃こんなブログを書いていたんだなあ、私。やっぱり人間は忘れっぽいいいものだから、ちょこちょこ大切なことを思い出すきっかけが必要なのかもしれない。

「育つ」のをサポートする、という視点


 

つむつむ君のチャームポイント

 
つむつむ君は、何と言っても表情がたまらなく可愛いのです。にーっとする顔や、口をへの字に突き出すところ、悲しい時に眉毛をハの字にして「エェェェェ〜」というところ。眠そうなとろんとするところ、泣いた後のうるうるの目で見つめてくるところ。

まー、可愛い。完璧じゃないけど、完璧じゃないからこそ可愛いのかもしれません。むちむちの足も、プリッとしたお尻も、まだ薄い髪の毛も。すべてがチャームポイント。

今日は、いつもより少し意識して1日を過ごそうと思います。今日もいい1日になりますように。ナカジマノゾミでした。

 

コーヒーで自分の体調を捉える

 

2週間ほど、旦那さんの調子があまり良くありません

 

 

ウィルスによる風邪ではなさそうなので私や息子にはうつっていないのですが、高熱が出たりして、見ている方も心配になります。

こういう時は、コーヒーを飲んでいるのを観察すると、体調が良くなさそうだな〜というのを感じます。

体調がいいときなら絶対残さない大好きなコーヒー。カップの中に残ったままになっている時は、だいたい体調がすぐれないとき。(私が妊娠していると知らない初期に、ビールが1本飲めなくなっていたのと似ている。)
 

自分の体調の見分け方

 

移動カフェをしているときに、オープンする前、毎朝必ずコーヒーを1杯飲んでいました。

私にとっては「コーヒのチェック」のつもりだったのですが、それを見ていた常連の昔喫茶店をやっていたおじちゃんが「今日の体調どうだ?」と聞いてきました。

いつものコーヒーを飲んだら「今日の自分」がわかるでしょ?と。

あぁ。なるほどー。と納得したのを覚えています。私からコーヒーを問うのではなく、コーヒーが私に問いかける。

私がコーヒーをチェックする、そして、コーヒーも私をチェックする。

そんな感じ。

自分の体調には敏感でありたいものです。あれ?と気づける「いつもの」を持っていると早く対処が出来る。それは、不安になるためではなく、調整するために必要なこと。

今は、洗濯物を洗い終わって外に干すときに「自分の今日」を感じます。

「干すぞ〜♪」というワクワクする感じの時と、なんとなくやる気が出ない時。そんな時は「洗濯物、もう洗い終わっちゃったのか。」という感じ。

体調というよりは、精神的なテンションと言えるかもしれないのだけど、あんまりいいコンディションじゃないかもと思った日には、人に応答するときにキツイ声や言い方にならないか一呼吸置いてみる。

特に子供や旦那さんという家族、自分のコンディションが直に出ちゃう人に対しては心掛けています。
 

他人の体調の予測

 

逆に言えば、相手がキツめの声だったりいつもより当たりが強いようだったら、ムッとするよりも相手のコンディションを気にかける方が大切なのかなとも思います。

そして、それは他人に対しても一緒。もし「感じの悪い人」がいたら、その人はちょっと急いでいたり体調がすぐれなかったりするだけかもしれません。そういう想像力を持っておくことは、自分が穏やかでいられるコツなのだと思います。

今日のつむつむ君は、いつもより、ちょっとご機嫌斜めです。そんな日があるのも、生きている証拠。変化を受けいれ見守りたいと思います。ナカジマノゾミでした。

2018年06月11日 | Posted in ブログ, 生きるシアワセNo Comments » 

 

「成長」は目的ではなく結果

 

「成長したいです」ってなんやねん

 

数日前から、ぽちぽちと【元気の出る辞書】を更新しています。と言っても、かなりのスローペース。一つ一つの言葉に向き合うと、頭も使うし時間もかかります。

でも、めちゃくちゃ楽しい。やっぱり、私は言葉が好きみたいです。

昨日、ふと【成長】という言葉と向き合っている時に、これまで腑に落ちなかったことがすっきりしました。

 

成長は目的ではなく、結果

よく、面接の時に「御社に入って、成長したいです!」とか「もっと成長したい!」という言葉を聞きます。でも、ずっと不思議な感じがしていました。

特に仕事に対しては、雇ってください!成長したいので!というのはかなりの違和感でした。いや、真面目でやる気も感じられるのだけど…「お金ください、学ばせてください!」って、むっちゃ図々しい話。

企業はボランティアではないのだし。

SNSによく書いてある「成長したい、成長したい」も、なんだか違和感があって。

その違和感はなんだろうと考えていたら【成長って、目的にするものではないんじゃないか?】というところにたどり着きました。

何かをがむしゃらにやった時の結果が【成長した】ということであって、【成長したいから、〇〇する】というのは、ちょっと違う。【成長して〇〇したい】という成長の向こう側に目的があって、そのための手段としているのであれば、それは納得できる。

 

赤ちゃんの成長を間近で見ていて思うこと

 

生後7か月のつむつむ君。毎日ものすごいスピードで成長しています。

昨日まで出来なかったことが、今日は出来るようになっている。そんなことの繰り返しです。でも彼は「成長したい」とはきっと思っていません。

目の前にあるおもちゃに、必死に手を伸ばしていた結果、昨日より動くことが出来ました。。

私に、何かを必死に伝えたいと思っていた結果、声を出すことが出来ました。

成長は、目的ではなく、結果。

成長したい、と思う気持ちはとても素晴らしい。

でも、夢中で何かに必死になっていたら、それは絶対に「成長している」から、安心して夢中になったらいい。

*************

ここまで書いているうちに気付いてしまったのだけれど、【成功】も目的ではなく結果なのかもしれない。

「成功したい」と、成功を人生の目的にする人に、なんだか違和感があった。端的に言ってしまえば「成功を目的に生きている人」が嫌いなのだ。(わりとはっきり言ってみる)

成功は目的ではなく「何かに挑戦した結果」が「成功」なのではないだろうか。

 

今日も必死に前にある、積み木に手を伸ばすつむつむ君を見ながら。ナカジマノゾミでした。

2018年06月06日 | Posted in ブログ, 暮らしと子育て, 生きるシアワセNo Comments » 

 

「やりたい」にフタをしない

 

5月30日のイルファーロのイベントでひさしぶりに、コーヒーを淹れさせていただきました

お越しいただいた方、本当にありがとうございました。りょうくんのピッツァお披露目イベントは大賑わいで、とっても楽しい時間でした。

沢山の人に会えて、たくさんの人の笑顔を受け取って、幸せな時間になりました。

そして、移動カフェを始めたきっかけを思い出すような気持ちでした。

 

与えたいと思うことと、受け取ること

 

私が移動カフェを始めたきっかけは、誰かにとっての笑顔のきっかけになりたかったから、です。

誰かの居場所になりたくて、誰かの日常の一部になりたくて、誰かにとっての元気の出る時間を提供したくて、移動カフェをはじめました。

でも、やっていくうちに、そのすべてを自分が受け取っているということに気付きました。

誰かのためにと思っていた居場所は、いつのまにか私の居場所になっていました。

誰かの日常になれるといいなと思っていたコーヒーは、いつのまにか自分の日常になっていました。

誰かに元気を…思っていたのに、いつのまにかみんなが自分を元気にしてくれていました。笑顔のきっかけを与えてもらっていました。

与えたいこと、と思っていたことは、イコール受け取ることでした。

私にとっての元気の源は、人と接する事でした。そんなことを改めて感じた一日でした。

 

子どもも含めて仕事をするということ

 

5時から9時まで、つむつむ君はごきげんでいてくれました。それも、たくさんの方が抱っこして可愛がってくれたおかげでした。

家に帰って、二人になってから一気に涙が溢れてきてしまったつむつむ君をみると、数時間だけどめちゃくちゃ彼なりに頑張ってくれていたんだなあというのを感じました。

それを見て、より愛おしく感じました。それと同時に、たくましくなったなあと…と。

「今日は付き合ってくれて本当にありがとう」と目を見て言うとニーッと笑ってくれたので、思わず泣きそうになりぎゅーっと抱きしめてしまいました。

出店の声をかけてもらった時に「やりたい!でも、ちょっと無理じゃないかな。」「抱っこしながらはさすがに難しいんじゃないかな。」「途中で大泣きしちゃったら、どうしよう。」「当日体調が悪くなったら、迷惑かけちゃうかもしれないし…」「そもそも夕方は普段でさえ機嫌が悪いし…」

辞めたほうがいいんじゃないかな。そんな気持ちでした。

でも、「やりたい!」と思ったことなのに、フタをしちゃうのはどうなの?やってもいないのに無理って決めるのはどうなの?やってもいないのに出来ないって決めるのはどうなの?という、ある方との会話を思い出して、えいやー!っと、参加させてもらうことにしました。

結果、やってみて良かった。出来ないって決めつけなくて良かった。「やりたい」という気持ちをを大事にしてあげて良かった。あー、もう、本当に良かった。

子どもがいながら仕事するということが、どういうことなのかも少しだけ知ることが出来ました。これは、今後への収穫になりました。

イルファーロさんに、本当にいい機会をいただきました。ありがとうございました。りょうくん、本当にお疲れ様でした。来ていただいた方、本当にありがとうございました。

あ~~~~楽しかった♪

 

【赤ちゃんの寝かしつけ】一日の中で至福の時間

 

生後7ヶ月半のつむつむ君

 

夜の睡眠もだいぶ安定してきて、離乳食もよく食べるようになってきました。体重は8キロちょいと、なかなかの成長ぶりです。

ちょっと前はぐずぐず声にイライラしやすかった私も、生活の中の「やらなきゃ」の基準と、気持ちの持ちようを変えたらずいぶん気楽になりました。

前は、寝ている間にやりたいことや「やるべき」と思っていることが多くて、なかなかお昼寝しないつむつむ君に「んもう!!!」ってなったりしていたけど、「一緒にお昼寝しよっか♪」という基準に変えたら、すごく調子がいい。

そうなると、もう可愛いしかない。今、この瞬間に一番大切なのって仕事でもブログでも夢でもなくて、この気持ちなのかもしれない。
 

眠気を我慢している時の可愛さが尋常じゃない

 

私が個人的に好きな赤ちゃんの行動ナンバー1は、眠気を我慢して、手で一生懸命に目をこすっている時。そして、顔を私にこすりつけてくる時。

母性本能をくすぐるって、こういう事。きゅんきゅんが止まらない。その瞬間を見れる、お昼寝のちょっと前と寝かしつけのときはたまらない。

ハンモックに横になって、お腹の上につむつむ君を乗せて、ゆらゆらゆらゆら…時間を気にせず一緒にお昼寝を出来るのは、至福。

こんなにくっついて寝てくれるのは、今だけかもしれない。そのうち「近い、暑い、くそばばあ」と言われるかもしれない。(ひぇ〜。)

今は、どれだけでも時間を気にせずにかまってあげられる。そう思うと、こういう日々も貴重だな…。そう思える余裕があるときの子育ては、至福でしかない。

自分の基準でここまで気持ちが変わることに驚きを隠せない。

この先また何度も、いらいらしたりもやもやしてりするのだろう。何度も何度も「んもう!!」って思うのだろう。でも、その度にちょっと立ち止まって休憩したらいいのかもしれない。

私を楽しむための手段として「子育てをしている私」を楽しんでみようと思う。

あ、そうそう。今日は、夕方からエスプレッソを淹れてきます。 
【豊田市ピッツア】5月30日はイルファーロへ

楽しみだなあ。今日のディナーに迷っている人はぜひ。ナカジマノゾミでした。

2018年05月30日 | Posted in ブログ, 山暮らしのこと, 暮らしと子育てNo Comments » 

 

【グレイテストショーマン】レンタル開始

5月23日にレンタルが開始されたグレイテストショーマンを観ました。

この映画は、友達が3回映画館に足を運んだと書いていたのを見て、気になっていました。まだないだろうなあ〜と期待せずにTSUTAYAに行ったら数日前からレンタルが開始したとのこと。さっそく観てみました。

メッセージ性がすごい映画

グレイテストショーマン、評判通り、迫力とメッセージをバシバシ感じる映画。まだ見ていない人もいるかもしれないので、具体的には書くのは辞めておきますが、スカッとする映画でした。

「自分らしく生きていい」ということを強く伝えていました。特に印象的だったのは、髭面の歌姫が力強く歌う「THIS IS ME」という曲。

その曲の中でこんな歌詞が出てきます(和訳)

私は自分の欠点を恥じてきたわ。誰もありのままのお前のことなんか愛さない、と人々は言うの。でも、私たちには輝ける場所がある。居場所がある。見られることに恐れない。謝りもしない。これが私。私は愛される価値があることを知っている。私にふさわしくないものなんて何もないのよ。これが私。「THIS IS ME」

 

この歌を力強く歌う女性は、男性のような髭が生えています。だから、人から隠れて生きてきました。そうやって育てられてきました。でも、もう、隠れない。これが私。逃げも隠れもしない、謝ったりしない。だって、これが私なの。

このシーン、めちゃくちゃ鳥肌が経ちました。力強い歌声とダンス、かっこよかった〜!

自分らしくあること

自分らしくあることって、なんでしょう。私は人から「あなたらしくない」と言われる度に、「あなたらしい」ってなんだろう?って思います。

私らしい、っていうのは私が決めること。

「それはあなたらしくない」っていう意見は、時に目の覚めるようなアドバイスでもあるけど「あなたの思っている私らしさ」と「私本来の私らしさ」はイコールだとは限らない。

 

エベレスト単独無酸素登頂に挑戦していた栗城さんの死

少し前のニュースで、栗城さんの訃報を知った。エベレスト単独無酸素登頂へ挑戦中だったそうだ。

そのニュースを聞いて私は「彼らしい最期だ」と思った。

本を一冊読んで、ニュースの中でしか知らない私ですらそう思ったのだ。でも、本当に「彼らしい選択」だったのだろうか。

周りからの「あなたらしい」は、背中を押してくれるのと同時に、時に人を追い詰める。もし彼が、挑戦よりも命のほうが大切、ということに気付いていたとしても「栗城さんへの期待」はその両肩に重くのしかかるのではないだろうか。

もちろん、まわりは追い詰めたとは思っていないかもしれない。栗城さんが心から自分で望んだ挑戦だったのかもしれない。生きていることと挑戦することはどちらが大切なのだろう。挑戦する勇気は、時に諦める勇気にフタをしてしまうのかもしれない。死んでしまってからこんなことを言っても、もう遅いのかもしれない。

 

栗城さんに勇気をもらったひとりとしては、彼の死は残念だ。とてもとても残念だ。もっと生きていてほしかった。話をきいてみたかった。

 

「私らしい」って誰かが決めれることじゃない

 
私しか「私らしさ」を知らないし、私だって「本来の私」を知らない可能性もある。

私が私らしくあるためには、日々問いかけて感じないといけない。ここのところ、そんな時間をとることも忘れていたような日々だったなあと、この映画を見て改めて気付きました。

人生のちょっとしたターニングポイントや、背中を押してほしい時、決断が必要な時にみたら「よし!やってやろう!」と、何か清々しい気分になれるような映画じゃないかなあ。

 

「THIS IS ME」のシーンが本当に良かったから、また観たいです。ぜひとも。

2018年05月28日 | Posted in おすすめの映画, ブログ, 生きるシアワセ2 Comments » 

 

大切な人を生んでくれた人に感謝を伝える日

 

5月といえば、旦那さんの誕生月

 

一緒に過ごす誕生日は何度めだろう。

盛大なお祝いをしてあげられるわけじゃないけど、いつも一緒にいてくれることへありがとうの気持ちを込めて、料理を作る。

いつもより、ちょっとだけ豪華な食事。いつもより、ちょっとだけ美味しいお酒。

ここ最近の興味の有りそうなものをリサーチして、贈るプレゼント。カメラから選んだ写真で作ってもらったフォトブック。息子との写真は笑顔が溢れている。

家族の誕生日って、ちょっと特別な気分だ。
 

彼は、私にめっぽう甘いと思う。でも、そこが良い。

 
この前は、彼の大切な車のドアをぶつけてしまった。そしてバレないかなあと思ったら、あっけなくバレてしまった。「のん、ドアぶつけたでしょ」「あ、バレちゃった…へへへ」といって済ませてくれた。うぅ。優しすぎる。(私の中の繊細ではない部分が、いろんなものを傷つけたり落としたり。こればっかりは昔から治らない。注意力が足りなさすぎるのだと思う。)

名もなき家事が苦手な私。(※名も無き家事とは、家事というほどのことでもないけど、地味にめんどくさい作業。洗剤の詰め替え、排水口の髪の毛掃除、ゴミ袋のつけ替え、トイレットペーパーの補充…etc.)いつも、細かい家事をしてくれてありがとう。

ものが壊れてもそのまま使い続ける私。修理して、よりよく改善してくれてありがとう。靴も磨いてピカピカにしてくれてありがとう。

気づけば、いつも私の意見を優先して貰っているような気がする。あれがいい。これがいい。これはいらない、これはこっちが良い。付き合ってくれてありがとう。

つむつむ君が生まれてからは、よりたくさん助けてもらっている。お風呂も、お着替えも、離乳食も、おむつも。パパそっくりのつむつむ君。そのうち、一緒に男同士で遊びに行くのかなあ。楽しみであり、ちょっとさみしい。

これまで向かい合ってきた関係は、子どもが生まれて少し変わったかもしれない。同じ方向を向いて互いに協力し合う「同士」というものに近づいたような気もする。力を合わせて1人の人間の成長を見守ることは、信頼関係を築くいい機会でもある。
 

大切な人を生んでくれた人

 
私は、彼のお義母さんに会ったことがない。写真の中でしか、笑った顔を見ていない。

写真の中で見るお義母さんはとっても可愛い。可愛すぎてびっくりするくらい可愛い。お父さんとお義母さんの新婚旅行の時のビデオを見せてもらったことがある。

お義父さんも、お義母さんのこと大好きだったんだなあと感じられるテープだった。そして彼も、お義母さんのこと大好きだったに違いない。

もう、会うことは出来ないけど。彼を生んでくれて、ありがとう。

大切な人の誕生日は、大切な人を生んでくれた人に感謝を伝える日だ。一緒にお墓参りをして、つむつむ君の顔を見せに行こう。

大切な人の誕生日は、大切な人に生まれてきてくれてありがとうを伝える日だ。いつもなかなか言えないありがとうを、ちゃんと言おう。

直接伝えられるのは、幸せなことだ。今日は、いつもよりも素直になろう。

2018年05月25日 | Posted in ブログ, 暮らしと子育て, 生きるシアワセNo Comments » 

 

無償の愛を感じる時

ただ、幸せだなあ、と思う瞬間がある

目が合って、ふにゃ〜とやわらかく微笑むのを見ると、無償の愛は親から子どもへ与えられるものじゃなくて、むしろ親が子どもから受け取っているものではないかと思う。

柔らかい笑顔をみると、心がゆるむ。すべてを許してくれるような、ふにゃ〜とっした顔。

無償の愛について考えることがある。見返りを求めない愛。無償の愛は存在するのだろうか。

誰かのためには、自分のため

ある時「誰かのために」という言葉は、よくよく探っていくと存在しないことに気が付いた。誰かのために何かをしたいと願っていても、それはどこかで「自分のため」なのである。

「誰かのために、何かをしている私」という見返りを求めている。自分より他人を尊重する私。自分より家族を思う私。人に優しくしている私。

それが、悪いことという意味ではない。

自分のためにしている行動が、誰かのためにもなっているのであれば、誰にとってもいい。ボランティアや優しさ、誰にも迷惑にならずに世の中をちょっと温かく出来ることであれば、それは望ましいことである。
 

「子どものため」は本当に子どものためなのだろうか

 
「子どものために」という言葉は、たしかに子供の為を思う親の気持ちなのだろう。でも、それって本当に子どものためだけなのかな。

どこかで自分のためでもあるんじゃないのかな。それでいいし、それしか出来ないのが人間なのだと思う。でも、それを自覚しないと苦しくなってくるのではないだろうか。

親が子に与えられるのは、無償の愛だと思っていたけど、そうではないのかもしれない。親は子どもに何かを期待してしまう生き物だ。「子どもが自分らしく生きて欲しい」という願いすら、そうやって生きてくれたら「私の子育ては間違っていなかった」と思える材料になり得るからではないのだろうか。

 

親は、子どもから無償の愛を受け取っている

 
今目の前でふにゃ〜と笑っている彼を見ていると、ただ目の前の私を愛してくれているような気がしてくる。そこに「愛してもらわなければ生きられない」という本能が備わっていたとしても、無償の愛を子どもから受け取っているとしか思えない笑顔を向けてくれる。

「ままぁ〜ままぁ〜」と泣きながら呼ぶ子どもをみていると、愛おしさが込み上げてくる。

私にできることは、その彼の愛に応えることなのかもしれない。

人は、愛されるために生まれてきたのかと思っていたけど、愛するために生まれてきたのかもしれない。

雨の日の、静かな山の中から。ナカジマノゾミでした。


 

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