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風情といえば、足助の花火大会

 

足助の花火が好きです

 

去年初めて行って感動した足助の花火大会。

今年は3人で行くことにしました。

 

今年は、去年の反省を踏まえて少し早めに家を出ることに。(去年は、近いしそこまで混んでないでしょうと言う理由で直前に家を出たら、渋滞中に花火が始まってしまった!)

花火大会は、どこに行ってもいつも感動するけれど、去年の足助の花火が一番感動したかもしれないです。

当然、花火の数はおいでん祭りにはかなわないし、花火の大きさは熊野の花火にはかなわないのだけれど。

足助の雰囲気のある街並みごしに上がる花火、巴川と一緒に鑑賞できる花火はなんだかすごくいい。通り沿いで行われているお祭りも、古くからのお店の軒先でなんだか風情がある。

今年は張り切って、人のいない花火の真下の川沿いで見ました。

人はいなくて快適だったけど、風情という点ではもう少し離れて、風景と一緒に観た方が綺麗だったかもしれません。

 

つむつむ君の花火デビュー

 

足助の花火は、つむつむ君の花火デビューでした。

それまで眠い眠いだったつむつむ君も、花火が始まると空を見上げて興奮した様子。最後までぐずらずに見ていました。

ただし、刺激が大きすぎたのか夜寝るときは久々にものすごい泣きました。初めての花火にちょっとびっくりしたのかも。

来年は、また違った反応が見れるかもしれないですね。来年の楽しみが、また一つできました。

 

足助の花火大会の混雑状況

 

去年は余裕をかまして開始30分前くらいに着くように家を出たのですが、追分の交差点を超えたあたりはかなり渋滞していました。一番大きく入りやすい駐車場である、香嵐渓の駐車場。その駐車場に入るためには、名古屋・豊田・岡崎方面から行くと信号を右折しないといけないので、右折待ちだったことも混む要因かなと。

そして、駐車場がいっぱいで入れないにもかかわらず、一本道なので引き返すことも回避することもできずに立ち往生している車がたくさんいました。

今年は、5時半くらいに着くように出たら、ほとんど渋滞はしておらず、駐車場にもまだ余裕がある感じでした。

ちょっと早めに行って、街中でお祭り気分を味わって、川沿いで眺めるのがおすすめです。

大きな花火大会は人もすごいし、ちょっと疲れちゃう。静かに楽しみたい、風情のある花火を楽しみたい、という人に足助の花火はおすすめです。

 

それにしても、花火っていいですよね。あの、ぼーっと上を眺めてなんにも考えないような時間が大好きです。

そして、職人さんたちが1年かけて作ってきた集大成なのだと思うと感慨深くなります。職人さんたちは、みんなの喜ぶ顔を見て花火を作っているに違いない。

この花火で恋が始まる人、片思いの相手に思いをはせる人、そして楽しみにしていた子どもたち。そんな一人一人のストーリーを思い浮かべて花火を作っているのかもしない。

花火職人さん、来年の花火も楽しみにしています。

 

【親切】がなくなる社会になればいいと思う

先日、タリーズに行ったときのこと

ランチを過ぎてお茶には早い時間だったということもあり、店内には2,3組のお客さんがいる程度の静かな店内。

座りやすく、ベビーカーも置きやすいソファの角の席でコーヒーを飲みながら、もうすぐ10ヶ月になる息子とのんびりしていた。

そのとき、赤ちゃんを抱っこ紐で抱っこしながら一人のママさんが入ってきた。

 

座るところはたくさんあるのだけれど、見渡すかぎりソファ席はあいておらず、すこし残念そうな顔のママさん。

私は抱っこしていたわけでもなく【広さ】の観点でその席にいただけだったから「よかったら、ここどうぞ!」と言って、すぐ近くの席に移動した。

そのママさんは「え〜!そんな!…ありがとうございます!」といって、気持ちよく受け取ってくれた。

抱っこ紐で抱っこするというのは、どのママさんも当たり前のようにしているけど、長時間(ましてや、毎日、一日中していたり)すると、相当肩と腰に負担がかかる。

そして赤ちゃんを連れていると、おむつやミルクなどの飲み物、おやつにおもちゃ。荷物も一人のときの何倍にもなり、ちょっとしたお買い物でもけっこうハードだ。

荷物を横においたり、手を横についたり出来るソファのほうがゆっくり出来る。

 

もし、子供を生むまでの自分だったら、そのママさんの残念そうな一瞬の表情に気付けなかったかもしれない。そう思うと、息子がいてくれたおかげで少し視野が広がったのかもしれない、とふと思った。有り難い限りだ。

そして、さんざんのんびりして席を立ったとき。さっきのママさんが「こんなにのんびりできたのは、本当に久しぶりです。ありがとうございました。。」と声をかけてくれた。

そこからすこしだけ世間話をして、なんだかすごく温かい気持ちで家まで帰ることが出来た。

その状況においてごく自然に動いただけなのにお礼まで言われてしまって、気持ちの良いい一日を過ごさせてもらって、こちらこそありがとうございます、という感じだった。

お父さんが大きな荷物を持つのは、親切?

 

お父さんが大きな荷物を持って、お母さんが赤ちゃんを抱っこして、お兄ちゃんが軽い荷物を持って、一家でお出かけするとしたら。

お父さんが大きな荷物を持つことは、きっと【親切】ではない。お父さんは力があるから、大きい荷物をもってくれる。それは【親切】ではないけど、みんなはお父さんに対して「いつもありがとう」という気持ちになる。

もしくは、それが当然のようになっているかもしれないけど、お父さんは決してお母さんや子どもに「俺は親切にいつも持ってやっている」とは思わないだろう。

それがごく自然に自分の役割として、認識しているのではないだろうか。そして力の面では頼っていたとしても、繊細な作業の面ではその役割はお母さんになるかもしれないし、子どもの役割だってなにかしらあるはずだ。

そんな風に社会をみてみたらどうだろう、とふと思う時がある。

そうなると【親切】という言葉自体が必要なくなるかもしれない。

体力のある人が、お年寄りや体調の優れない人に席をゆずる。急いでいない人が、急いでいる人にレジの順番をゆずる。手が空いている人が、面倒をみる。元気のあるひとが、声をかける。気分のいい人が、ニコニコして場をなごませる。

そんな風に、それをごく当たり前の役割として担っていけたら。そこに親切という概念はなくなり「してやったのに!」「頼んでいない!」という低レベルな論争もなくなる。

それには、大きな意味で社会をまるごと家族のように思うような気持ちが必要だ。そこにありがとうという気持ちがあるのは、前提で、ということでもある。そして、自分にできる役割はなんだろう?と、各々がいつも考えていないと成立しないだろう。

性別も地域も国境も越えて、大きな社会の【今、その場でできる自分の役割】として状況を見渡すことが出来たら。押し付けでもなく。渋々でもなく。

そんな日常が、いつかくるのかもしれない。そんな日が、いつか来るといい。

 

いつの日か【親切】という言葉がなくなりますように。

ナカジマノゾミでした。

 

直感を鈍らせない

少し前に、本屋さんが教えてくれた話を思い返していた。

おもしろい話だったので、自分だけで消化するのはもったいない気がしたので改めてブログにあげておくことにする。

自分が忘れないように記録に留めておく、という意味もある。


 

日々、生と死を意識せざるおえないCAさんの話

 

CAさんは、日々の仕事の中で生死を意識する職業だ。というよりは、人よりも事故に合う可能性が高いような気がする。だって、日々、空の上にいるのだから。

もし、万が一という場合には乗客を出来るだけ安全に誘導したり、冷静な対応が求められる。パニックになっている場を落ち着かせるのも大切だ。

あるCAさんは、フライトに出る前に国籍や性別の記したシート座席の用紙を見たときに【もしも何かが起きたときのイメージを沸かせている】という。

そして、実際に乗客が乗ってきた際には、ひと目見たり挨拶を交わしただけで【何かあったときに協力してくれそうな人】【力が強そうで頼れそうな人】【冷静に誘導を手伝ってくれそうな人】【パニックになりそうだから要注意な人】【全体のことよりも自分を優先しそうな人】などなど、その人の雰囲気や仕草、視線や行動や気配から直感的に察知しているそうだ。

そこに性別や国籍や体格などを組み合わせて、万が一の緊急時の役割分担を頭の中で構成しているという。

何かあってから考える、では遅いのだ。目星をつけておいて、何かあったときには即行動に移す。一瞬の判断が、生死をわけるといっても過言ではない。

 

日常生活に活用できるのではないだろうか

 

そして、この話を教えてくれた本屋さんは、この話を日常生活にももっと活用してもいいのではないか、という話をしてくれた。

たとえば、電車に乗る時。何も考えずに座るのではなく、突然暴れだしそうな人がいそうな車両は避ける、とか。

車を運転している時、後ろに嫌な感じの運転をする人がいたら早めに道を譲っておく、とか。

天気予報に任せっきりにするのではなく、空の様子がいつもと違わないか、雲の動きはどんな感じか察しておく、とか。

体温計で熱がなくても、子どもがなんとなくいつもと違わないか感じる、とか。

情報や文章、注意書きやニュースだけでなく、体感としてあれ?と感じられる自分の状態をつくっておく、ということは結構大切なのではないか、と、

確かに100%事故を防ぐことは出来ないかもしれないけど、事件に巻き込まれる可能性はすこし減らせるような気がする。【ちょっと危険そうな人】に近づかないというのは、動物的だが人間関係のなかでもすごく有意義な気がする。

そのためには、直感を普段から働かせておく必要がある

いきなりひと目見た人を察しろ、といわれても、普段直感を使っていない人にはなかなか難しい。

相手の目線や動きや気配を、肌で感じる必要がある。

接客業は、これを感じるのには最適ともいえる。【この人は、どういうお客さんか】【自分のお店には何を求めてやってきたのか】【いま、どういう状況か】そんなことを会話をせずとも肌で感じ、要求を先回りしたサービスをすることで喜んでもらうことが出来る。

日常生活のなかだったら、職場の人や家族、立ち寄ったお店、乗った電車やバス、前後の車の運転手など、勝手に想像することもできる。職人と呼ばれるひとは、これを商品や仕事の中で感じている人もいるかもしれない。

そうして普段から直感をみがいておくことは、侍が刀を研いでいるようなイメージだ。敵が襲ってくてから刀を研いだのでは遅いのである。日々、刀を研ぎ、もしもの時をイメージして背筋を伸ばして目を閉じて気配を感じておく必要がある。

 

動物における直感力

 

そういえば、地震や津波のときに動物の死骸が発見されない、という話を聞いたことがある。津波のくる何日か前から、その場所を離れるような動物の動きや、丘の上に避難するような不思議な動きが観測されている。

地球から、いつもと違う【何か】を察した動物は、その場所を離れたり、仲間に危険を知らせているらしい。

人間は言語など知性の発達によって、直感という分野が減退してしまった。察知したり、異変に気づいたりするのが遅すぎる人がとてつもなく多い。

ぼけーっと受動的に生きていると、目に見えないものに対して鈍感になってしまうのだ。

この話を聞いたときに、今、まさにぼけーっと生きていた私はかなりドキッとした。

仕事をしているときには、日々もっと敏感だったような気がした。目の前の人の様子から、コーヒーの様子から、天気の様子にたいしても、もっともっと察するものがあった。

この話は、今の自分に対してはかなりグサっとくる話だった。

守りたいもがあるのであれば

 

守りたいものがあるのであれば、直感を研ぎ澄ましておくことは大切なことである。

何かの異変に気づいた時、気付いてからでは遅い。

【もしかしたら、こうかもしれない】と、冷静に仮説を立てておくことは、過剰に心配したり不安になることとは少し違う。むやみやたらに情報にふりまわされて心配するのではなく、自分のを基準にして感じられる身体と心をつくっておく。けっこう大切なことなのかもしれない。

そんなことを、いつもと違う空を眺めながら思いだした日。今日は少し、刀を研ぐイメージで包丁を研いでみようかな。ナカジマノゾミでした。

 

【躾】身を美しく、とは

 

子どもに注意すること

8ヶ月になることから、つかまり立ちしだしたつむつむくん。最近では、なんとなく言葉も理解しているようで、私達の掛ける言葉に相応のリアクションをすることも増えました。

たとえば「すごい!出来たね~!」といえば、嬉しそうに「わ~あ~」と言って拍手したり、怒られた時には、顔を歪ませて不服そうに「えぇ~(´;へ;`)」と言ったりします。

成長という名のいたずらが始まったつむつむくん。まだ正確には意味は分からないかもしれないけど、命の危険があることや、お友達に嫌な思いをさせてしまうことに関しては、今のうちから【なぜそれをしてはダメなのか】という理由をつけて注意するようにしています。これは、私自身の「叱る練習」でもあります。

 

なぜ理由をつけて注意するのか

 

子育てを勉強したわけではないし、経験したわけではないのですが、理由をつけて注意するのには【いずれ、自分で良し悪しを考えられるように】という意図があります。

「それは、ダメ」「コラ!」だけでは、子どもにとっては「なぜいけないのか」が分からない。

それに、時と場合によって、良し悪しは変わってきます。もう少し大きくなったときに、自分の頭で考えられる人になって欲しい。それは私の願いの一つでもあります。

 

躾の語源は、しつけ糸から

 

躾とは、身を美しくと書きますが、その語源は着物などを縫うときの工程のひとつ「仕付け」からきているそうです。

しつけ糸は、縫いやすいように仮におおまかに縫っておくものですが、仕上げて着るときには抜いてしまいます。

最終的には、しつけ糸は不要になります。ずっとつけたままにしておくことはしません。

躾も同じで、いつまでも親の決めた【いい悪い、という型】にはめておくのではなく、最終的には誰かが決めた型が必要ではなくなるように、いずれ外しても大丈夫なように。自分で考えて判断できることを目的にしているのではないか、と思います。

 

身を美しく、とは日本人らしい漢字の作り方だなあと感心します。【美しい味】と書いて【美味しい】と読む、いうCMにもハっとしましたが、身が美しいと書くセンスも素敵。

 

 

理由をつけて注意するようにしてから

 

理由をつけて注意するようにしてから、どんな言葉を選べばいいのかを考えるようになりました。

例えば、遊んでいるときにはボールを持っては離す(投げる)というのは、褒められるのに、ご飯中にスプーンを落とすと怒られる。子どもにとって、スプーンを落とすのは悪気があってやっていることではない。

だとしたら。「コラ!」という言葉だけでこれを伝えるのは、混乱するのではないか?と思います。

今はなぜダメなのか、今はなぜいいのか。

目的は【今、その行動を止めさせる】のではなく【どうして今、それをするべきではないのかを理解してもらう】にある。

そして、今のうちから言葉できちんと伝えるということを意識してから、イラッとして「もう!ダメって言ってるのに!」と感情的に言葉を出すのではなく、一呼吸おいて冷静に伝えることが出来るような気がしています。これに関しては、自分にとってイライラが減るという効果がありそうです。

とはいえ、いつ何時も冷静に伝えるというのは、なかなか難しいのかもしれません。ついつい「ムカッ!イラッ!コラーーーッ!」としてしまうことも、今後も多々あると思います。(特にイヤイヤ期は、大変そうなイメージ)

 

それでも、これから何年間かは、親の言葉選びがかなり重要になってくるのではないかと思っているので、自分なりの方法で息子との毎日を過ごしていけたらいいなあと思います。

今日から8月ですね。今日も穏やかな1日になりますように。ナカジマノゾミでした。

2018年08月01日 | Posted in ブログ, 子連れさんぽ, 暮らしと子育てNo Comments » 

 

ベビーからキッズへ ここ一ヶ月の劇的成長

久しぶりに、美容院に行ってきました

 

この前は全体をばさーっと切ったけど、今回は襟足を短くして丸みのある感じに。

いつも行っていた美容院は、さすがに子どもは連れていけないので、保育園が併設されている日進のココリノヘアーに初めて行ってきました。

ここ、ママにとってはすごく有り難い美容院です。保育園が併設されているのですが、美容室とは壁を隔てているので、泣いていたとしても気にならず、だからといって、もし何かあれば近くにはいるので安心は出来ます。

cocolinohairとは

隣に私立の保育園が併設されている美容院です。そのため、カットやカラー中は保育園に預けておくことができます。保育士さんの数も多く、ランチタイムに重なるときは給食を出してくれたり、おやつの時間はおやつも一緒に食べることが出来ます。(要予約)

ちなみに保育料は美容院を利用する場合は無料です。

旦那さんや実家に子どもを預けてもいいのですが、私の場合、美容院は思い立った時に行きたい派なので、「明日行きたい!明後日行きたい!」と急に思いついたりします。しかも、もし誰かに預けるのであれば、美容院じゃなくて子どもと一緒には行けない趣味性の高い場所に行きたい。(飲みに行ったり、子どもお断りのカフェに行ったり、静かにしなくてはいけない場所に行ったり。せっかく預けれるのであれば、より有効に使いたい。)

急に旦那さんや実家に預けるのが難しい、という人には本当に有り難い場所でした。

おとなになったつむつむ君

前回の美容院では、キッズスペースがあって保育士さんがつきっきりで見ていてくれたのですが、2時間以上泣き叫んでいたつむつむ君。店内にギャーの叫び声を撒き散らしていたつむつむ君。

(今回も、泣くんだろうな〜。まあ、見えないから気にならないし、いいか)と思っていたのですが、なんと離れるときも迎えに行ったときもまったく泣かずに居られたみたいでした。

ご飯の前はちゃかり「食べたいアピール」をして、食べたらご機嫌だったようです。おまけにお昼寝もできて、迎えいにったときには「あ、来たの?」という感じ。

こっちが拍子抜けしてしまいました。前回より3ヶ月くらい経ったので、少し人見知りが良くなったのかもしれません。

たった2時間のことなのに、預けている間の様子も丁寧に紙に書いてくれて、すごく良かったです。

それにしても…まったく泣かなかったのを見ると、なんだか少し大人になってしまったような気がしました。

おまけに、帰り道は、昨日まで出来なかった手づかみ食べが出来るようになっていました。

意外と難しい、手づかみ食べ

大人になると、何かを手で食べることが難しいと思う機会がありません。

でも、赤ちゃんにとってはなかなか難しいようです。

まず、指先で掴む、そして口まで運ぶ。そこから口を開けて、指を中に入れる。いいタイミングで指を食べ物から離す。口から出てしまった部分を押し込む。

いつも食べ物から指を離すタイミングがわからずに、指ごと食べていました。そして、食べ物だけを口に置いてくることが出来ずに、指と一緒に口から出してしまっていました。

それが、この日から急にしっかりと出来るようになっていました。

昨日までできなかったつかみ食べが、今日、急に出来ている。毎日接している私もびっくりしました。

もうひとつビックリしたことが。

この前まで朝起きたときには「あ〜う〜」とベッドの上からママを呼ぶだけだったのに、最近は自分でベッドを降りてハイハイでリビングまでやってきて、ニコニコの笑顔で突進してくるようになりました。(ベッドと言っても、安全のためマットレスのみですが)

ここ一ヶ月は本当に成長を感じることばかりです。ベビーからキッズに、着実に近づいているような感じです。

「子供の成長は早いよ〜!」という先輩方々の言葉の通り、あっという間にここまで過ぎてしまいました。

どこかの知らないおばあちゃんが言っていた「1歳まで。とにかくとにかく愛情を与えること。そしたら子育ては半分終わったようなものよ。」という言葉を胸に、ベビーの期間を楽しみたいと思います。

台風の進路、どうなるのかな。大きな被害がありませんように。ナカジマノゾミでした。

 

今日もだれかの誕生日

ここのところ、ブログを書くペースがすっかり遅くなっています。

 

かわいすぎる生き物に、毎日触りたくてしょうがないので、1日必要最低限の家事以外はつむつむ君と遊ぶことに費やしています。

お昼寝中に何かしようと思っても、一緒に寝るのが心地よすぎて一緒に寝てしまう。夜の寝かしつけもしかり。

めっちゃ平和。ふわ〜っとした気持ちで1日が過ぎていきます。いい意味でも、悪い意味でも。

 

母の誕生日に思うこと

 

そうそう、先日は母の誕生日でした。

特に何もしていないけど、こっそり実家につむつむ君の写真を置いてきました。(嬉しいかどうかは分からないけど。笑)

子供を生む前までは、誕生日って「その人にとっての特別な日」という認識だったけど、いざ自分が子供を生んで見ると家族の誕生日って「自分にとっても、関係の深い日」のような気がしています。

母の生まれた日。それは、私が存在できていることにも深く関わっていて、当然息子が存在できていることにも深く関わっている。

おばあちゃんが母を生んでくれたこと、それは自分を生み出してくれたことでもある。

そのもっともっと遡って、先祖の誰が欠けても自分は存在していなかったのかもしれない、と思うとすごく特別なことのように感じる。

自分に対して何かをしてくれたとか、してくれなかったとか、どういう存在だったとか、そういうのを抜きにして。

「存在」そのものに対して、感謝の気持ちが湧いてくる。生まれてくれて、ありがとう。

生まれてくれて、ありがとう、は、子どもにだけでなく、両親や義理の親、祖母や祖父に対しても同様に思うようになった。

そして親だけでなく、姉弟に対しても。兄や姉が生まれながらに重い病気を抱えていたら、親は私を生もうと思わなかったかもしれない。今の私が私であることと、姉弟が健康であることは無関係ではないはずだ。

 

今日も誰かにとっての誕生日

 

1年という365日、毎日、誰かにとっての誕生日だ。それは他人であるかもしれないし、友達であるかもしれない。

その人が居ても居なくても、自分には関係のないこと、と思えるかもしれない。

 

でも、きっとそうではない。すべてはつながっている。

自分が存在しなくても、ぱっと見は世界は変わらないだろう。でも、自分いなければ、今の自分にとっての半径5メートル(家族や友達)の世界は、きっと変わる。

ということは、その家族や友達それぞれの、そのまた半径5メートルの人の世界も、また変わる。そして、その次の5メートルの人の世界も。

それを繰り返していけば、自分が居てもいなくても世界は変わらない、なんていうことはなくて。

どんな小さな変化だったとしても、自分が存在する世界と自分が存在しない世界は、少しだけ違うはずなのだ。

そう思うと、今自分がこの環境に生きているということ、今この環境に幸せを感じられるということは、家族だけでなく、すべての人の存在のおかげとも言えるのではないだろうか。

そんなことを、目の前の可愛い小動物のような生物を眺めながら思うのである。

つながりを求める時代と言われていたけど、そもそもすべては繋がっていたのだ。それをようやく可視化出来た、ということに過ぎない。

見えるつながりは安心感をもたらす。

けど、見えなくても本当はつながっているし、自分の存在は世界のどこかに作用している。

今日もこうして、意味のないような文章を書きながら。それが世界のどこかの誰かに作用する可能性を想像しながら。ナカジマノゾミでした。

 

避暑地へ避難ということで軽井沢へ

今年の暑さは殺人的

今年の夏の旅行はどこに行こう。せっかくなら、涼しいところがいいのでは、ということで避暑地のイメージでもある軽井沢に行ってきました。

軽井沢といえば、なんとなく涼しそうで、美味しいものがありそうで、緑が多そう。そんなイメージだったので、子供の小さいうちの旅行先にはピッタリなはず。

そう思っていたのですが、今年の軽井沢は過去にないほど暑かったようで、向こうでも33、4度ありました。通常は25度を上回ることがないそうなので、どのお店の人も「今年は異常だ」と言っていました。

もう、きっと、日本にいる限りどこも暑いですね。避暑地という言葉自体が、無くなってしまうのかもしれません。

旅行の楽しみは諸々を気にせずに食べる美味しいご飯

旅を彩る重要なアイテムといえば、やっぱり食事。暑い中、冷たいものやビールや日本酒を食べ歩くのは、最高に楽しいです。

いつもは気にするカロリーや値段も、こういう時ばかりは一旦脇へよけて、食べたいものを食べよう!と色々と食してきました。

こういう時、テンションの上がる場面が似ている相手、というのは私の中で共に過ごす人として大切な条件です。「楽しい」を共有出来るというのは、なかなかいいです。

老舗のコーヒーソフトから、ドイツ仕込みのソーセージ、ジョンレノンの愛した(らしい)パンを使ったバーガー、蕎麦屋でちびちびとかわす日本酒。うむ、最高。

何気なく入った蕎麦屋の十割そばがおいしくて、さすが長野だなーと信州を感じてきました。

旧軽井沢銀座通りと呼ばれる通りの、少しそれたところにはおしゃれなアンティークショップや日本ではないような異国な空間も垣間見えました。

 

お散歩しているだけでも、すっごく楽しかったです。

中でも、軽井沢っぽいなーと思ったのがモーニングを食べた森の中にあるカフェ。建築家が手がけたという建物も良かったし、緑を全面に感じるテラスのソファーでのコーヒータイムはまさに至福。空調で涼しくするのもいいけど、緑の力を借りるというのはすごくいいですね。体感温度が全然違う。

おかげで庭に木を植えたい願望が芽生えてしまいました。木陰が出来るようになったら、そのままテラスでお昼寝できるようなクッションのソファーも譲れないよなあ。

夏には多くの人で賑わう軽井沢

夏には涼を求めて多くの人で賑わう軽井沢ですが、そこですらこの気温というのは、本当にびっくりです。私が「猛暑」と聞いて思い出すのは、小学生の社会科の教科書に出てきた一文。

「地球温暖化の影響によって、日本はいずれ亜熱帯地域になるでしょう。数十年後には、平均気温は上昇し、スコールが降るようになります。」

日本には四季があり、温暖な気候は過ごしやすく、季節ごとの美しさがある国と教えられてきたのに(とんでもないことになる!本当かな?)と、幼いながらに思ったものです。

そして、この季節になるたびに、あの教科書の言葉は本当だったんだ、と。他の教科書の言葉なんて一切覚えていないのに、小学生の私にはよほどのインパクトだったのかもしれないですね。

インドの熱波や各国の水害、氷山が溶けるというニュースを見るたびに、あの頃の「とんでもない未来」に、今すでに立っているということに気付かされるような気持ちです。

今年の夏は、水遊びが必須になりそうです。ナカジマノゾミでした。

 

目が離せない人の、手離す練習

 

息子のつむつむ君、先日9か月になりました

 

この頃出来るようになったことと言えば、つかまり立ちとティッシュ遊び。それからご飯をモリモリ食べることと、ぐっすりすぎるほど眠ること。

先月はハイハイが、なんとかやっと出来るか出来ないか…というところだったのに、今は隙さえあれば立ち上がって行きたい方向にジリジリと移動するという伝い歩きを覚えました。

ベビーベートの中では満足できず「出せ出せ〜!」と訴えています。

意思表示もかなりはっきりと分かるようになりました。

・抱っこしてほしい
・喉が渇いた
・お腹が空いた
・早く次の一口ちょうだい
・もっと食べたい

私のスプーンを持つ手を自分の口元に持ってきたり、食べているお皿をつかんで引き寄せようとしていたり、ティッシュを何枚もビリビリと破いて「ニヤリ」としてきたり。

だんだん赤ちゃんではなく子どもになってきたような感じです。こんなに早いとは、驚きです。
 

目が離せない、という言葉を実感

 
「動くようになると、目が離せないから大変だよ〜!」と、よく先輩ママには言われましたが、まさに今そんな感じです。

うっかり手の届くところに何か置いてしまえば大惨事。ご飯もお茶もひっくり返すし、畳んだ洗濯物はぐっちゃぐちゃ。リモコンは大好物でもぐもぐ、と。

土間にもすぐに降りてしまうし、気付くとティッシュ食べてるし、お友達の髪の毛を引っ張ったり、お友達の持っているものを横取りしていることもしばしば…

こりゃあ、、、ママって大変だ。笑
 

手放す、ということを習得中

 
もう一つ興味深いのが、手に持っているものを落とすような動きをすることです。

おもちゃも、リモコンも、つかみ食べように渡したウエハースも、わざと手を離してみる。また拾って、また離す。その繰り返しをして遊んでいます。

「何かを手に入れたいのであれば、今両手に持っているものを手放さなければならない」というのは、ある方が教えてくれた言葉です。

自信を手に入れたければ、劣等感や自虐を手放さなければ手に入れられない。

自由を手に入れたければ、安定安心を手放さなければいけない。

「何もかもすべて」は、手に入らない。

手放して、またつかんで。何度でも手放すことは出来るし、持ち直すこともできる。絶対に手放したくないも、と思っていたものも、手放してみたら案外すっきりするかもしれない。

つむつむ君を見てると、そんなことを感じました。9か月目、ますますやんちゃになりそうな予感です。今月も元気でいてくれますように。ナカジマノゾミでした。

2018年07月15日 | Posted in ブログ, 山暮らしのこと, 暮らしと子育て2 Comments » 

 

【幸田駅前書店】侍のように感性の刀を磨く

昨日は、幸田駅前の【幸田駅前書店】に行ってきました


 

旦那さんが息子の子守をかって出てくれたので(神!)リサーチ済みの行ってみたかった場所に行くことにしました。

前回の本屋さん【ON READING】に行った後、三河にも面白そうな本屋さんがあるのでは?と探して見つけたのが、この【幸田駅前書店】

私の住んでいる山の中からは、約1時間。名古屋に出るのとほぼ一緒。ちょっとだけ遠いけど、またわざわざ訪れたい本屋さんが増えました。

 

幸田駅前書店ってこんなお店

 

やっぱり大型書店とは全然違って、私的にはすごく面白くてワクワクしっぱなしでした。暮らしの手帖でおなじみの松浦弥太郎さんや、本屋さん関連の言葉が詰まった本の棚や、小説や感じのいい雑誌や。

本の棚は、個性的過ぎになるのを避けて、様々な年代のことも考えて…と教えてくれました。

本を見て、面白くて、さあ買って帰ろう~と思ったけど、店主さんが面白くてそのまま2時間くらい居座ってしまいました。

そんな中で【この頃、感性を研ぎ澄ませないまま、ボケっと生きている人が多すぎるのではないか?】という話をしてくれて、それがすごく印象的でした。日本に暮らしていると、なんとなく朝起きて、なんとなく電車に乗って、なんとなく買い物をして、なんとなく運転して、、、それでもなんとなく生きていけてしまいます。

与えられたものを、与えられたまま食べてしまう感じ。

でも、もっと人を見る感覚を研ぎ澄ましたり、直感で判断したり、日々侍のように刀を磨いておいた方がいいのでは?と。自分の命や大切な人の命を守りたいのであれば、なおさら。日々のちょっとした振る舞いや毎日の選択が人生を大きく変えるのでは?と。

なんでこんな話になったのかは分からないですが、とにかく店主さんがめっちゃ面白かったです。

そしてもう一つ印象に残ったのが【出会いの場を作っている】という言葉。まさに、そんな感じのお店でした。

 

人生には遊び心が大切だ

 

面白い人が、面白い場所を作って【面白い】を循環させている。それに乗っかってもいいし、乗っからなくてもいいし、たまに乗っかってみてもいいし、どう接してもいいのだけど。

自分が【面白い】と思ったことは、大切にした方がいいような気がする。他の誰かの判断じゃなく、自分の基準で。

真面目に生きるのも、一つの生き方。遊んで生きるのも、一つの生き方。最期に死ぬのは一緒だとしたら、めちゃくちゃふざけて、笑って、自分を遊び倒して死にたいなあ…と個人的には、思う。

本と私。本とお店。今日も出会いの日でした。いい時間を作ってくれた旦那さんに本当にありがとう、と言いたい1日。とりあえず、感性の刀を磨くところから始めたいと思います。ナカジマノゾミでした。

 

夜な夜な、我が家の畑を荒らす侵入者

 

ある朝、ちっちゃな自家菜園の畑がめちゃくちゃになっていた

 

自家菜園とはいえ、家の裏にネギとなすとピーマンとオクラを一つずつ、それからほうれん草と小松菜の種を植えただけのちっちゃな畑。
主に旦那さんが仕事が休みの日にお手入れをして、私と息子が水やりを担当している。

ある朝起きて様子を見に行くと、畑の周りの土がめちゃくちゃに荒らされていた。

よくよく見れば、畑だけでなくその付近の草もほじくり返され、ブルーベリーの木の根もむき出しになっている。

こんなことをするのは、あいつしかいない…

 夜中にイノシシが入ってくる家

荒らした犯人は、間違いなくイノシシ。イノシシ氏の仕業だ。

以前も畑が掘り返されている時があったが、その時の犯人はきっと猫。【太郎くん】と呼ばれる、この周辺の家に自由に出入りする気ままな猫の太郎くん。

その時は、ちょっと引っ掻いたけど、やーめた。くらいの掘り返し具合だった。

今回はといえば、芝のあたりもボコボコ。野菜の根は見えているし、ブルーベリーは倒れそう。そんな状況が何日か続いている。

割と本気で自家菜園の収穫を楽しみにしている旦那さんからすれば「イノシシ!F☆☆K‼︎」と言うところらしい。

確かに、自分の育てて手入れした野菜を守りたいという気持ちもわからなくはない。

ここまで、イノシシに対してキツめに書いてしまったが、私は決してイノシシを恨んでいるわけではない。むしろ、このイノシシ侵入事件は今後続行してもらってもいいとすら思っている。

 だって、イノシシが入ってくる家って面白くないですか

もちろん、私も自分の家で育てた野菜を食べるのは楽しみだ。水やりごとに大きくなっているのを見るとワクワクするし、うまく育たなかったら残念だな〜と思う。

でも、イノシシが入ってくる家って、それだけで面白い。自分で育てた野菜を食べるのは面白いけど、イノシシが侵入してくる家も、十分に面白い。

少なくとも、実家や友達の家にはそんな家はなかったし、そもそも野生のイノシシと共存する生活を送っている人は、おそらく少数派。

それに、ほら。こうして話のネタにもなってくれる。

農家で生計を立てている、という人だったら、「害獣め!」と言って怒るかもしれないけど、こちとら9割9分の野菜はスーパーから買わせていただいているという現状。

イノシシの侵入は今の所、私にとって面白ニュースでしかない。

息子が大きくなった時には「イノシシさんまた来るかな〜?」というくらい、自然と近い距離で暮らしていければいいと思っている。(イノシシを目の前にしたら、そんなこと言えませんけどね。迫力あって、結構怖いので、そーっと後ずさる。)

「悪いやつ」と決め付けるのではなく、イノシシの立場や相手の立場も想像してみる機会になりそうな気もする。

 害獣という言葉

害獣、害虫。害のある獣、害のある虫。その言葉を聞くと「人間は人間を、人間様だと思っている」のではないかと思うときがある。

人間様は、人間にとって害のあるもの、益のあるもの、ということを元に相手の存在を判断することが多々ある。

イノシシ様から見た人間は「害獣!F☆☆k!」なのだろうか。それとも食べ物を植えてくれるし、遊び場(畑)も作ってくれるし、わりと嫌ではない存在なのだろうか。イノシシもこちらのことを判断していたら面白いな。

共存、共生ってなんだろうな。山に暮らしていると、いろんなことを感じれて楽しいです。ナカジマノゾミでした。

 

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