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porepore、ゆっくり行こう

天白のコーヒースタンドporepore

昨日は、天白の原駅前に3月末にオープンされたコーヒースタンドポレポレさんに行ってきました。

鶴舞線の原駅のすぐ裏、ライオンズマンションの1階にオープンされた、ちっちゃいちっちゃいコーヒーショップ。少し裏通りなのが、いい感じ。

オーナーのみゆきさんは、もともとcafebusnonで朝にドリップコーヒーを買って行ってくれるお客さんだった。

その時から優しくて素敵な人だな~と思っていたのだけれど、昨日のみゆきさんはその時以上に柔らかく優しい表情をしていた。

もともと、安定した仕事についていたみゆきさんから【仕事を辞めてコーヒーの仕事をする】と連絡をもらった時には、かなりびっくりした。自分の仕事が誰かの人生に影響したのかもしれない、と思うと嬉しかった。

【あなたを見て、好きな仕事をすることにした】【移動販売をすることにした】【仕事を辞めることにした】そんな話をいくつか聞くたびに、嬉しい反面、ドキドキもした。

その人たちは、その後、楽しくやっているだろうか。後悔していないだろうか。

自分が責任を取れるわけではない。「やりたいなら、やったほうがいい」と言うことは、無責任なのではないか。そんなことを考えると、自分の主張をしすぎない方がいいのか、、?と思うこともあった。

そんな時に、みゆきさんが自分のお店をオープンされたということを知った。そして、すぐに行くことにした。

そして、一目見て【来てよかった】と心から思った。みゆきさんの「仕事を辞めて、踏み出してよかった」という言葉が沁みた。何より、表情が物語っていた。

人との関わりで己を知る

そもそも、人見知りで、注目されるのが嫌いで、目立ったこともしたくなくて、中学生の時に「主婦になりたい」と答えていた私が、なぜ一人で移動販売(しかも駅前)をしていたのか?

それを聞かれるたびに「人見知りの克服のためですかね?」とごまかしていたのだけれど、今、自分の本心がわかったような気がする。

それは、多くの人と関わることで【自分という人間】を模索していたのだ。

目の前の人にかける言葉、思ったこと、感じたこと。それらは、自分の気分や状況、今考えていること、不安なこと、嫌いなことや好きなこと、何を大切にしたいのか?を知る手がかりなのだ。

受け答えること、反応すること、伝えることは、鏡のように自分に返ってくる。

「それはイケナイことでしょ!」と誰かに腹が立った時は、【自分は我慢しているのにあの人はズルい!】という潜在意識があるのかもしれない。それに気付けば、我慢していることや自分の本当の望みを知ることができる。

【人に希望を与えられる人でありたい】と思っていた本心は、そんな自分(誰かにとっての希望になれる自分)を認めてあげたい(現状は認めてあげれていない)だったかもしれないし、それはもう、答えのないクイズのようなものなのだ。

そして、そんなことを悶々と考えるのが変態的に好きなのだ。

人の背中を自然に押せる時

そう考えてみると、自分が何かに夢中になっている時には、自然に人の背中を押せるような気がする。「きっとできるよ!」という言葉は、相手のことだけではなく自分のことも奮い立たせているのだ。

逆に「やりたいこと、やったらいいじゃん」と全力で言えない時には、自分が現状に疑問を持っている時であったり、スッキリしていない時なのかもしれない。自分に自信がない時には、相手に自信をもたせてあげる資格がないような気がしてしまうのかもしれない。

誰かに言葉をかける時には、その裏側にある自分の本心を探るチャンスだ。

自分が発する言葉が、自分の人生をつくる。

これから、私はどんな言葉で人生を作っていくのだろう。楽しみである。

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poreporeさんがonimagaさんで紹介されていて、とってもわかりやすいので貼っておきます♪

 

やっと冬眠から目覚めた人たち

しばらくブログを書いていない間に、20日も経ってしまいました。あちゃ~

ここ数日、すごく暖かくなってきました。これこれ、これだよね、春って。何をするにも心地いい。洗濯物をお外に干すときに幸福感。やっぱり、好きだなあ、、春♡

こんなに暖かいと、ついお出掛けしたくなってしまいます。ちょっと前の出不精とは正反対の、毎日どこかしらの公園やお散歩や動物園に、ちっちゃい相棒と出掛けています。

ちっちゃい相棒は、もうすぐ1歳6ヶ月。だんだんと走れるようになってきました。段差のあるところを登ったり、降りたり。坂道を駆け下りてみたり、力を振り絞って登ってみたり。小石を食べて、吐き出したり。近所の猫ちゃんに煮干しをあげてみたり。元気で何より。

お外で作業するのも気持ちがいいから、DIYも捗る捗る。やっと、家のいろいろな所を片付けたり、庭造りの計画もはじめました。ナカジマ家、やっと冬眠から目覚めました。

4月になって変わったことといえば、つむつむの大好きなEテレの「いないいないばぁ」と「おかあさんといっしょ」のお兄さんお姉さんの卒業で歌が変わりました。前の歌が大好きだったから、新しい歌どうかなあ?と思って見ていたけれど、ちゃんと適応して新しい歌でもじーっと見てマネして踊っています。

子どもの適応力って、すごい。無くなってしまったものを嘆くのではなく、いま目の前にあるものに一直線。そして、それを楽しむ、のみ。

そういえば、新年号も発表されましたね。5月から始まる新年号【令和】に慣れれるかなあと思っていたけれど、その時になってしまえば大人だってきっと適応できるんだろうなあ。(何回読んでも、いまいち【令和】の意味の解釈が良くわからない。個人的には【平和に成る】みたいな誰でも分かるどストレートなやつが好き。)

何はともあれ、今年度もイベントやらアウトドアやら、いろいろと楽しみたいと思います。内容うすくてすみません。なぜなら春は毎年、脳内お花畑。ナカジマノゾミでした。

2019年04月11日 | Posted in ブログ, 子連れさんぽ, 暮らしと子育て2 Comments » 

 

大量の本の行方

本屋さんのはなし

12月から本屋さんでアルバイトをしている。かれこれ、もうすぐ4ヶ月になる。

初めはお店の掃除や本の整頓くらいしか出来なかったものの、だいぶできる作業が増えてきた。レジの操作、入荷した商品をチェックすること、コミックの中が読まれないように透明のカバーをかけること、防犯用のタグをいれること、注文してくれた人に入荷の案内電話をすること。

まだまだ分からないことが多いけれど、とりあえず1/3人前くらいにはなれたような気がする。

そんな本屋さんの仕事の中で、疑問が多いのが自動配本と返品の仕組みだ。

自動配本と返品

本屋さんには、書店が注文しなくても自動的に本の卸業者みたいなところから毎日新刊が送られてくる。勝手に大量の本を送ってきて、その分を伝票で請求してくるのだ。(普通のお店だったらありえないような仕組み)

本はどんどん送られてくるのだけれど、本屋さんのスペースにも限界がある。だから「売れる見込みのないもの」「売れなかったもの」「お店のテイストと合わないもの」などは、書店員が判断し、返品する。

すると、返品した分の代金が返金されるという仕組みになっている。

だから、バックルームには【今月の返品目標〇〇箱!】みたいな、不思議な張り紙があったりする。とにかく、たくさん返品しなければ、仕入金額が大変なことになってしまうのだ。

この時点で、いろいろと無駄も発生する。本を送る、戻す、という運賃。そして、検品したり、売れる状態にカバーをかけたりするアルバイトの人件費。

雑誌などの付録は、今では当たり前のように【良いもの】がついていたりするのだけれど、これは返品をする際に破棄することになっている。売れ残れば、大量に制作し大量に破棄することになる。

そして、そもそも返品した本。これがどこに行くのか気になって社員さんに聞いてみた。すると、卸業者さんに戻ったあとに、出版社さんに戻り、在庫などになるのではないか、とのことだった。

でも、そもそもお店で「売れそうにない、げんに売れなかった」と判断して返品しているのだから、全国の書店から同じように返品されてくれば、出版社がそんなにその本の在庫をもつ意味もない。つまり、在庫が多すぎれば裁断されて、処分されるのである。

本の種類が多すぎる

今は、雑誌も書籍も、種類がありすぎる。毎日新刊が200冊くらい出版されているらしい。その冊数が、少し減れば、、、と思うのだけれど、本が売れなくなり、どんどん新刊を出さないと出版社の売上数が減り、存続が危機的な状況だからやむおえずどんどん新刊をつくっている、という事らしい。

1店舗ならまだしも、全国規模ではどれくらいの資源をつかっているのだろう。考えると、ぞっとする。

今は、こういった自動配本や返品といったルートにのせない「リトルプレス」なども増えてきているけれど、まだまだ少数派だ。

本はやっぱり紙が好きなのだけれど、こういった資源の観点からみたり、本が届くまでの速さのことを考えると、電子書籍が活躍するのもわかるような気がしてしまう。

本屋さんの仕事は、もちろん楽しいのだけれど、すこし複雑な気持ちになる。

【本を出版する】というのは、目的ではなく手段だったはずだ。世に伝えたいことを伝えたり、人の生活をちょっと豊かにする手段。いつのまにかそれが生き残るための手段、になっているのかもしれない。

出版社さんが【生き残る為に本を出す】のではなく、【いい本を世に出したい】という本来の理由で本をつくれるような仕組みが出来たらいいなあ、、と思う。

本が売れない時代だからこそ、本来の目的を思い出さないといけないような気がする。本屋さんも、出版社も。ナカジマノゾミでした。

2019年03月22日 | Posted in ブログ, 本屋さんのこと4 Comments » 

 

【Less is more】in Kamakura

鎌倉旅行に行ってきました

毎年、誕生日の周辺で旅行に連れて行ってもらっています。昨年は、富士山の麓でトレーラーキャンプ。その前はモルディブ。その前は、星のや富士のグランピング。

ありがたいことに、毎年計画してくれます。毎回楽しませてもらっています。今回の鎌倉も、子連れながらいろいろと動き回ってきました。

鎌倉は観光地。そんなにエコなイメージはなかったのですが、今回の旅行で【環境に力を入れている街】なのかもしれない、、ということを知りました。

なんとなく、どのお店も必要以上に梱包しない。コンビニの店員さんも積極的に「テープでいいか」と聞いてくれる。泊まったホテルは、高級ホテルではないからかもしれないけれど、不必要なものは置かないシンプルなサービス。

全体的にスッキリとしている。

パタゴニアに惚れる

パタゴニアでは、購入した衣服をショップ袋に入れずに、そのまま渡してくれました。これには私も旦那さんも、店舗を出た瞬間「惚れる~!ますますパタゴニア好きになる!」と絶賛。環境や地球のことを第一に考えた企業理念を徹底した姿勢がかっこいい。

今までも、なんとなく「このままでいいのかな?」と、疑問だった丁寧な梱包。一度、透明のビニールに入れてから、ショップ袋に入れてくれることもあったりして。ちょっと【良いお店】だと、なおさら丁寧に丁寧にしてくれる。

でも、それって【お客さんの為という名のお店のため】だったりする。

丁寧に梱包すれば、お店のイメージを守ることが出来る。買った人がショップバックを持ち歩いてくれれば、宣伝にもなる。クレームは減るし、顧客満足度は上がるかもしれない。商品を丁寧に扱ってくれるのは、自分を丁寧に扱ってくれているようで嬉しいような気もしてしまう。

もちろん、贈答には喜ばれる。それは渡す側にとっても、嬉しいこと。

だけれど、、自分用に購入するときには(そんなに丁寧じゃなくてもいいのに)と思う場合がけっこうある。

分母は大きく

【迷ったら、大きな方に貢献できる方を選べ】という言葉を聞いたことがある。どういう意味かと言うと、例えばA案とB案の二択の選択に迫られたとき、どっちがより大きな分母になるのかを考え、そっちを優先しろという意味だ。

個人にとってベストな選択なのか、家族にとってベストな選択なのか、会社にとってベストな選択なのか、地域にとってベストな選択なのか、国にとってベストな選択なのか、地球にとってベストな選択なのか。これらは、後方に行くほど、大きな分母で物事をみている、ということである。

例えば、【会社】にとっては利益が出る仕事だったとしても、【地球】という分母で見た場合、地球にとっても利益(貢献)しているのだろうか?と考える、ということだ。

家族にとっては【良いこと】でも、地域住民が【迷惑なこと】はするべきではないし、我が国にとって有益なことでも、その他大勢の国にとって害のあることはベストな選択ではない。

その中でも、私達が考えなくてはいけない最も大きな分母が【地球環境】だ。

お店にとっては、会社にとっては、国にとっては利のある選択だとしても、地球環境にとって利のある選択でなければ、選んではいけない。一番大きな分母が破滅するということは、結局、お店も会社も個人も破滅するということなのだ。

なぜ鎌倉にエコが浸透しているのか

どのお店も、なんとなくエコな意識が強いような気がして調べてみると、こんなニュースが出てきた。

昨年の夏、鎌倉の由比ヶ浜で打ち上げられたクジラの赤ちゃんの胃の中から、通常出てこないプラスチックが出てきた、というのだ。それを深刻な問題だと捉え、環境を守る条例を強化したのかもしれないし、実際にクジラを目の当たりにした地域住民が進んで条例を守っているのかもしれない。

正確な真相はわからないけれど、他の地域や、個人個人の生活でも見習わなければいけない、と今回の旅行で意識させてもらいました。

そんなこんなで、すごく、すごく、意義のある旅行でした。楽しんで、学んで、感じて。いっぱい食べて、いっぱい飲む!うむ、最高!ナカジマノゾミでした。

2019年03月15日 | Posted in ブログ, 子連れさんぽ, 暮らしと子育て2 Comments » 

 

20歳のわたしと30歳の私

 どうやら、誕生日というやつが来るらしい

あと数時間で30歳になる。

30歳になるということは、20代が終わるということだ。濃く、激動の、それでいて心地よさに包まれた20代はもう終わりだ。

この10年で一体何が変わったのだろう、と思い返してみる。そうすると、変わってないものなど殆どないということに気付く。【ほぼ全て】が変わった。見た目も、中身も、名前も、環境も。

ここ10年の1番の収穫は【己を知る】ということだろう。

20歳の私は、まだまだ自分のことを知らなさすぎた。

自分のことを知った20代

自分はどんな時に幸せを感じるのか。どんなものが好きなのか。どんな時にストレスを感じるのか。どんな時に体に影響が出るのか。何を1番大切にしたいのか。どんな人が好きで、どんな人が苦手なのか。どんな人生を送りたいのか。

何にも分かっていなかった。(今でもすべてが分かるわけではないけれど)

平々凡々に過ごした10代。傷つき、傷つけ、迷惑も心配もたくさんかけた20代前半。やりたいことをして、プライベートも充実し、順風満帆の20代後半。

「明日が来なければいいのに」と思った日もあった。運転中に橋を渡りながら「このまま、車ごと川に墜落したい」と願った日もあった。いろんな事があったけれど、その時の私に言いたいことは「生きていて良かったと思える日が、必ず来る」ということだ。それと「そんなに嫌ならとっとと逃げろ」と。

死ぬほど嫌だ、と思ったことですら、時間が経てば感謝したい出来事になる。

【過去は、理解するためにある】という言葉を聞いて、なんだか妙に納得してしまった。過去は、ジャッジするためにあるわけではない。後悔するためにあるわけでもない。ただ、今の自分が過去の出来事を観察し【あの時なぜそう思ったのか】【なぜそう動いたのか】【その結果どうなったのか】を理解し、学ぶためにある。

歴史を学んで未来に活かすように、過去から学んで未来の自分の人生に活かす。それだけのこと。

ほぼ全てが変わってしまった、と書いたけれど唯一変わっていないものがあった。家族と昔からの友達だ。それぞれみんな年を重ねたけれど、【大切な人たち】という関係はまるで変わらない。そこに新たな家族という宝物が増えた。これほど幸せなことはないだろう。

20歳のときの私と今の私、どちらかを選ぶとしたら絶対に【今の私】がいい。「若い!」と言われなくなっても、出産で体型が変わっても、お肌の曲がり角をとうに過ぎたとしても。年を重ねるごとに【今の私が一番好き】と言える人生で在りたいなあと思う。

40歳の私は、いったいどんな私なのだろう。ここからの10年、いったいどんな出来事が起こるのだろう。生きている限り、楽しみは続くのだ。

30歳もよろしくお願い致します。ナカジマノゾミでした。

 

コスパの追求はコスパが悪い?

コストパフォーマンス、通称コスパ

コスパという言葉がどうにも苦手だ。

例えば、飲食店であれば「金額の割に、美味しい」とか「金額の割に、いい食材をつかっている」とか、そういうことになるのだと思うのだけれど。そこには【同じ金額を払うなら、出来る限り多くを受け取りたい】という意味が潜んでいる。

もちろん【与えたい】よりも【受け取りたい】と思う感情は、ごく自然なものだ。

【損をしたくない】という感情は、誰しもが持っていて当たり前のものだ。

けれど、それを声を大にして言うのは本人の品格を下げているような気がしてならない。ある意味【コスパが悪い】のではないだろうか。

お店の視点から見た場合【コスパを求めてくるお客さん】が多くなるほど、精神的に疲弊してくるような気がする。なぜならば【もっといいものを!もっと安く!】という要求には、際限がないからだ。もちろん、経営努力や技術でどうにかなるかもしれない。でも、きっと、どこかにそのしわ寄せが来ている。

「もっといいものを与えてくれないのであれば、他のお店へ行こう」というお客さんばかりのお店の店員さんの顔は、輝いているのだろうか。

得をするお客さん

移動カフェをしている時に、なぜだか毎回、得をしてしまうお客さんがいた。その人は【より多くを得たい】とは考えておらず、いつも店のことや私のことを気にかけてくれる人だった。混んでいたら、他のお客さんに順番を譲ってくれた。初めてきたお客さんには積極的に話しかけて場をなごませてくれた。カフェラテを飲んで、とびっきりの笑顔で「美味しい~!幸せ~!」と言ってくれるような人だ。

私は、その人が大好きだったから、ついつい他の人からの差し入れがあると、こっそりと彼女におすそ分けしていた。「今日たまたま貰ったから、よかったら食べます?」と。すると毎回「なんてラッキーな日なんだろう!!!幸せ!!」と目を輝かせて言ってくれるのだ。それが可愛くて、私まで幸せな気持ちになっていた。

その人は、他のお客さんともあっという間に仲良くなり、直々にケーキを買ってきてもらったり、コーヒーを奢ってもらったりしていた。

そして、またとびっきりの笑顔で「私って、本当についてるんですよー!」と言っていた。

それを聞いていた私は【幸運って、自分でつくれるものなんだなあ】ということを、その時の彼女に教えられた。【ツイている人】というのは、ツキを自分で運んでいるのだ。それは「ツイてる、ツイてる…」と唱えることではない。運は、完全に偶然のものと、人為的なものがある。表面的には偶然に見えても、誰かの小さな小さな意思が加わっていることは結構ある。私がつい渡したくなってしまった差し入れがいい例だ。

「いい物件が見つかった」「いい仕事が舞い込んできた」「いい縁に恵まれている」というのは、ただの偶然ではないことが多い。(この人になら…)と、誰かの意図が絡んでいたりするのだ。

誰かの意思の加わった人為的な幸運が世の中の大部分ではないか?というのは、移動カフェという仕事をして学んだことだ。

そのツイている彼女は【自分の持っている能力を与える】を繰り返し、結果的に※人生のコストパフォーマンス※を上げている。そんな気がする。

そんな人を見ていただけに、【受け取りたい】というコスパ追求を繰り返したら、逆に※人生的にはコスパが悪い※ということになりえるのではないか、と思うようになった。

コスパを追求するということは【より、多くを受け取りたい】ということをいつも考えるということだ。【受け取りたい、損したくない】というベースを日々育てているということだ。

結婚はコスパが悪い?

あるコラムで読んだのだけれど、若者の結婚しない理由の一つとして【結婚はコスパが悪い】ということがあるらしい。うわお、ついに日本ここまで来ちゃたか!と、びっくりしてしまった。

確かに、結婚したり子どもを生んだらお金がかかるし、自由も減る。そして義務は増える。それは【できるだけ、損をしたくない】という気持ちからくるものかもしれない。でも、それ以上に受け取るものもいっぱいある、ということも知っておいたほうがいい。

そもそも、家族に対して「君は、コスパが悪い。」なんていう人はいないだろう。なぜなら、人は自分の愛するものに対してはコストパフォーマンスを求めないから。人は、自分の愛するものに対しては【受け取りたい】よりも【与えたい】が先行するからだ。

そしてそれは、お店に対しても当てはまる。本当に大好きなお店であれば、コスパが良かろうと悪かろうと、通いたい。【コスパがいいから好きなお店】と【コスパが悪くても好きなお店】は大きく違う。コスパが悪くても好きなお店であれば、コスパ以外の魅力がきっとあって、実はその部分がけっこう大切だったりするのだ。

そして、本当にお店の存続を願うお客であれば、そのお店に対してコスパは追求しないはずだ。きっと。

お店であれ、家族であれ、友人であれ、恋人であれ【与えたい】と思えるモノたちに囲まれる生活のほうが、※人生のコストパフォーマンス※は良いのかもしれない。愛するものがたくさんある、というのは幸せなことだ。

苦手と言いながら、何回コスパ言うてんねーん。ナカジマノゾミでした。

2019年02月24日 | Posted in ブログ, 生きるシアワセ6 Comments » 

 

彼の重要性について

バレンタインの日に思うこと

昨日はバレンタインでしたね。ここ数年のバレンタインは「プレゼント」というよりは、この時期しか食べられないめちゃくちゃ美味しいお菓子を「プレゼントという名目で一緒に食べようの日」になってきています。

毎年恒例の「ACHON」のザッハトルテに、ショコラサブレ。ザッハトルテは甘すぎずに絶妙で、まわりのチョコレートの食感が、もうなんと言えばいいのか。そして、この時期しか無いショコラのサブレが死ぬほど美味しい。初めて食べた時に「あ、天才」という言葉が浮かびました。

それに今年は、彼の好みの感じにロースターで焙煎させてもらった豆(焙煎体験も兼ねて)でコーヒーを淹れて。コスタリカのナチュラルの中深。焙煎後3日というちょうどいい感じで用意できて良かったです。

こうなってくると、バレンタインって最高だよなーとつくづく思います。なんせ美味しい上に、焙煎体験までしちゃったし。いつも「来年はチョコレート手作りしようかな~」と頭をよぎるものの、自分で作った対して美味しくもないお菓子を食べるなんて、バレンタインじゃなくてもいいか、と正気に戻ってしまうわけです。(なんせおかし作りが下手)

そんな美味しいバレンタインでしたが、ここの所、彼に対する気持ちに変化が出てきたように思います。

旦那さんに対する気持ちの変化

これまでも、大切な人であることに変わりはなかったのですが。ここ数ヶ月は【自分にとって、どういう存在か】ということが、だんだんと変化しています。

私たち夫婦はそもそも、干渉しすぎない関係で。一緒に楽しめることは一緒に、そうでないそれぞれの趣味は、それぞれに。お互いの輪が重なった部分を楽しく過ごそう、という感じでした。

でも、息子のつむつむ君が生まれてからは、その重なった部分に【子ども】というカテゴリが入り、その重なった部分のウェイトがとても大きくなりました。《一緒に楽しめること》が格段に大きくなりました。そして同時に《助け合いが必要なこと》も、とても大きくなりました。

特にここ数ヶ月はやんちゃになってきており、私の体調やTodoなどお構いなしに暴れまくっているのですが、彼がいるからどうにかなっています。

夫婦ふたりの時は「早く仕事から帰ってこないかな~」というよりは「今のうちに1人でしたいことをしておこう」と思っていたのですが、今は早く帰ってきて欲しくて、時計とにらめっこしています。「早く帰ってこないかな♡」というよりは「うおー!早く帰ってきてくれーー!!!!ヘルプミー!!!」という感じではありますが。笑

【夫婦は結婚と同時に成るものではなく、だんだんと成っていくもの】という言葉を聞いたことがありますが、その言葉をまさに実感しています。だんだんと【家族】になっていっているのが、自分でも感じられるほどです。

子どものことを同じ目線で話せる、唯一の存在。

「こんな事ができるようになったよ。」「昨日は、こんな様子だったよ。」寝顔を見ながら「なんて可愛いのだろう…」と。小さなことを心から喜んだり、大切なことを相談できる相手。

彼の存在は、私にとって日々、大きなものになっています。

いつも、本当にありがとう。

何が言いたかったのかというと、チョコレートは手作りじゃなくても愛情は詰まっていますよ、ということです。(来年度への伏線)ナカジマノゾミでした。ちゃんちゃん。

ケーキとお菓子は豊田市の「ACHON」さん

コーヒー焙煎は豊川市の「スペシャリティーコーヒー蒼」さん

どっちも本当におすすめです。おすすめしたくないほどに、おすすめです。

 

今日、今、するべきこと

突然の、訃報が届いた。

移動カフェのときに、4年間、毎日、朝一番に寄ってくれていた、お客さんが亡くなった。

一番最初にお店を開けた日から、毎日のように顔を出してくれていた人。

いつもポッケの中には飴が入っていて、毎日ひとつ、くれるのだ。冬は、飴の代わりにホッカイロをくれた。ときには、お昼ご飯を買ってきてくれた。「今日は、美味しいパン買ってきたよ~」と言って、サンドイッチを買ってきてくれた。「これ、好きでしょ」と、手羽先を帰りに持たせてくれることもあった。

旅行に行ってきたときには、ビールのお供を山のように買ってきてくれた。

定年されてからも、健康はとても気を遣って、筋トレとお散歩を欠かさなかった人。

70歳近くでもピンピンしていて、シャキッと背筋の伸びた人。

「nonが定休日の日は、お散歩の楽しみがなくて寂しいな~」と言ってくれる人。

テレビで見た、健康法をメモして教えてくれる人。

そのお客さんには、とても良くしてもらっていたのに、、、わだかまりが残ったままになっていた。

私が移動カフェを辞めるとき。別のお客さんが企画してくれた送別会に、呼ばれていない!とか、なんだかんだのいざこざがあり、なんとなく気まずいまま私は移動カフェを引退してしまっていた。

もしかしたら、気分を害してしまったかもしれないなあ。申し訳ないなあ…そう思いながら、その後もお見かけすることも、連絡をすることもないままになっていた。

もう2年近くお会いすることもなかったのだけれど、1ヶ月前、運転していたら、たまたま交差点でその方が歩いているのを見かけた。

いつもだったら、かつてのお客さんに街で会ったときは、思わず「◯◯さ~ん!!お久しぶりですー!」と、駆け寄ってしまうのが、私の常だ。

でも、その時は…

なんとなく気まずいままになってしまっていたのが引っかかっていて、窓を開けて挨拶することが出来なかった。

あの時に、声をかけていたら。こんなわだかまりを残すこともなかったかもしれない。

でも、もう、後悔しても遅い。

「いつか謝れる」「今度お礼を言おう」と思っても、また会える保証なんてないのだ。

Iさんが、そのことを改めて教えてくれたような気がする。

明日死ぬとしたら

最近、考えることがある。

もし、明日死ぬとしたら、私はなにをするだろう。何を手に入れても、死んでしまったら意味がない。美味しいものを食べたって、好きなところに旅行したって、お金を使い果たしたって、墓場には持っていけないのだ。

そう思った時に、するべきことはたった一つなのかもしれない。

愛する人に、愛していることを伝えること。

感謝している人に、ありがとうと伝えること。

謝らなきゃいけない人に、ごめんなさいと伝えること。

今だったら、1歳の息子の記憶には自分は残らないことになる。私という人間は、いなかったことになってしまう。だからせめて、私という人を思い出せなくても【僕のことをとても愛してくれた人がいた】という事実だけは、残したい。

残るほどに、伝えたい。

だとしたら。それは「死ぬ時にすること」ではなく。

今日、今すぐにするべきこと、なのかもしれない。

Iさんがいつも買ってきてくれたフィッシュサンド、大好きでした。手羽先の唐揚げも、大好きでした。毎日おはようと声をかけてくれるのが、大好きでした。

ごめんなさい。そして、ありがとう。

ご冥福をお祈りいたします。

 

生きる力ってなんですか?

生きる力ってなんですか?

偶然図書館で目にして、読んでみたところ、考えさせられるなあと思った本。

【生きる力ってなんですか?】

ざっくりとしたこの問いを、7人の識者が子どもにも分かる言葉で語っている。

内田樹さんは「システムの存在しない場に、自力でシステムを作り出す力」だと言う。

お金というシステムが無くなったとき、会社というシステムが無くなったとき、どうして良いか分からない答えのない危機的状況になったとき、ルールが通用しないときに、生き延びる方法を見出す人。

目の前にある有限の資源を使って、なんとか乗り切ろうとする力。

乙武洋匡さんは「自分の人生を自分で決めていく力」と定義している。

小学校の教師をしているとき、些細なことでも人に答えを求める生徒の多さに愕然としたそうだ。自分で物事を判断できず、すべて先生に聞く子は失敗をしないかもしれないけれど、社会に出たときにはどうなってしまうのだろう。

「あれはダメ、こうしなさい、こうあるべき」という指図する教育は、子ども自身が失敗して自分で考える機会を奪う。そうして、大人が子どもの生きる力を奪っているのでは、という言葉には、ドキッとする。

出来るだけ少ない打数で効率的に進む人生ではなく、むしろたくさん挑戦してたくさん失敗し、それを生きる力に変えていくことが大事ではないか、と。

他にも、「おかしいことをおかしいと言える力」や「自分のことだけでなく地球の命も考えられる力」、「大志を抱くことで維持できる力」など、それぞれの定義でわかりやすく書かれている。

生命力はそれぞれの生命にもともと備わっているけれど、夢や希望をなくしたときその生命力は弱くなり、大志を抱いたときにその力が最大限に発揮される、という言葉にはハッとさせられた。

確かに、自分の目指す方向に向いているときには日々の生活も鮮やかになり「生きている実感」が強まる。なんとか目の前の事態を乗り切ろうとするアイディアも勇気も湧いてくる。

「生きる力」と「希望」は無関係ではないようだ。

アンパンマンマーチは生きる力の湧いてくる歌

最近、我が家のテレビからはアンパンマンの歌が流れてくる。小さな家族のひとりが、自分でDVDを持ってきてセットして再生している。

そのDVDは冒頭にアンパンマンマーチが流れるのだけれど、それが頭にこびりついてしまい、私も旦那さんもちょくちょく口ずさんでしまうようになった。

忘れないで、夢を。こぼさないで、涙。だから、僕は行くんだどこまでもー。

その歌詞をふと思い返すと、アンパンマンマーチはまさに生きる力の湧いてくる歌である。

やなせたかしさんは、もしかしたらアンパンマンを通して「生きる力」の重要性を説いてくれていたのかもしれない。そう思うと、アンパンマンが長年にわたり人気の理由も見えてきそうな気がする。

生きる力って、なんだろう?いつか子どもにそんなことを聞かれるかもしれない。その時に、自分の中での答えを持っていられたらいいなあ、と思う。


生きる力ってなんですか?

 

【HSC】とても敏感な子どもへの接し方

ドキドキ症候群

昔から、フィギュアスケートや箱根駅伝、オリンピックが観られない。

フィギィアスケートは、演技前に流れる演技者のここまでに至ったストーリーの動画(怪我の克服や、ライバルとの関係など)に入り込みすぎてしまい、その時点で号泣。演技で転ばないかドキドキして心臓が追いつかず、観ていることが出来ない。

箱根駅伝では、ランナーが苦しそうな場面(足を捻っていたり、転んでしまったり)があると、そのランナーの心境や、その親の気持ち、抜かされていくのを苦肉の表情で見守る仲間、監督、そんな周りの人たちの気持ちを想像し、苦しくなって目を背けてしまう。

オリンピック、甲子園も同様だ。(ワールドカップもドキドキしてしまって観られなかったのだけれど、かっこいい選手が多いから観たいという気持ちが強い。だから、なるべく入り込みすぎないように、薄目にして観るようにしている)

アクション映画なんて、刺激が強すぎて、全然観たい気持ちにならない。平々凡々の日常を描いた、ほんわかとしたものが好みだ。

そうやって、ドキドキすることにかなり感情を揺さぶられることがあるのだけれど、嬉しいことに対しても、人一倍強く感じているのではないか、と思うこともある。【誰かの力になれた】とか【相手が喜んでくれた】ということが、その瞬間、自分の中でかなり大きなウェイトを占め、生きててよかったなあ…ってくらいに思えたりする。

以前、そういう自分の性質について調べていたところ、おそらく自分にはHSP(Highly Sensitive Person)という特徴があてはまりそうだな、という結論に至った。

詳しくは、以前のブログ→鈍感な世界に生きる 敏感な人たち

主な特徴は、深く物事を考えたり、過剰に刺激を受けやすかったり、他人の感情への共感力に長けていたり、ささいな刺激を感知する。少数派ではあるけれど、人口の20%はそういう性質を持っているという。

本を読んで、かなり救われたのを覚えている。

日々の生活の中で、ちょっとしたことが気になったりはするものの、HSPという言葉自体はかなり忘れていた。のだけれど、ここの所、またこのワードが再浮上してきた。

泣き虫くんがなぜ泣いているのか

我が家の息子は、よく泣く。本当に、よく泣く。1日に20回以上は泣く。

トイレの扉を閉めたらすぐに気づき、扉の前で永遠と泣く。抱っこから地面に降ろそうとすると、察してしがみついて泣く。バイトのために出かける支度をしていると、置いていかれることを察して泣いている。架空のおばけを想定して、おどろいた顔をしただけで泣く(これは、ビビるのが面白くてふざけてやっていた)口元を濡れたタオルで拭くとすごい勢いで泣く。目があったのに、来てくれなかったら悲しくて泣く。ママがお風呂に入っている間は絶叫。

ドライヤーも掃除機も、未だに苦手だ。

そして、同時にビビリでもある。何回も遊んでいるチョロQで、毎回ビビッて首元にしがみついてくる。海に行ったときは、地獄の雄叫びをあげていた。波だけでなく砂浜もダメだった。ママが近くにいるという安全圏かを、いつも確認している。相手がどんな顔をしているのか、遊んでいてもチラチラ見ている。

今思えば、数ヶ月の赤ちゃんのときからこちらの表情を見ようとしていた。通常、生後2〜3か月では視力がほとんど無いと言われているのに、見えているのかな〜?くらいに思っていた。

はじめての子だから、よく分からず(こんなものか)くらいに思っていたけれど、それにしても怖がるときの泣き方がすごい。

リトミックに行っても、お友達の家に行っても、実家に行っても「え?1人だけ泣きすぎじゃない?」という疑問がいつも湧いていた。他の子と比べるのはあまり好ましくないと思いつつも、リトミックなんて1時間のうちに5,6回は泣いている。楽しくキャッキャやっていると思ったら、次の瞬間にはささいなことで泣いている。(そしてすぐに泣き止む)

特に、身体的なことでは無く心理的なことが多いように思う。

Highly Sensitive Child

そんなときに、バイト先の本屋さんで「HSC(Highly Sensitive Child・HSPの子どもバージョン)の子の育て方」というような本が並んでいて、ふと目に入った。

その瞬間、もしかしたら…この子も私に近い性質があったのでは?と、新たな可能性が浮上した。そういえば、お友達が転んで泣いていると、なぜか転んでいない息子も泣いていたりする。これって、箱根駅伝で私が感じる辛さと、同じかもしれない。

あまりによく泣くから「本当に泣き虫くんだね~!」と思っていたけれど、彼は、泣き虫で親の気を引きたいだけではないのかもしれない。小さな刺激も、彼にとっては大きく強かったのかもしれない。嫌だ、悲しい、と強く感じていたのかもしれない。大体の人が平気なことも、不安に感じていたのかもしれない。

そう思うと「そんなことで泣かないの!」「そんなの大丈夫だよ!」と言っていたことは、見当違いなことを言ってしまっていたのかも、という気持ちになる。

本人にとって【悲しいこと】であるならば、それは悲しいことなのだ。【そんなこと】ではないのだ。「君は、そう思うんだね」という所を肯定してあげなければ、存在を否定されているのと同じことだ。

それに気付いてから、彼がメソメソしていてもほとんどイラッとしなくなってきた。見方によっては【甘やかす】と捉えられることもあるかもしれないけれど、それよりも【受け止める】という意識が近い気がする。

自分のものさしで測っていたものを、相手のものさしが存在する(たとえ赤ちゃんでも)ということを、改めて教えられたような感じだ。

HSC(HSP)は、成長とともに治っていくようなものではない。生まれ持った性質として一生付き合うことになる。生きにくいと感じる人もいるけれど、幸せも人一倍感じやすい。生まれ持った性質を活かすのか、嘆くのか。親として出来ることは、性質を活かす考え方を気付かせてあげることではないか、と思う。

自分のことを知っておいて良かった。そうでなければ、本屋さんでHSCという言葉にピンとくるのが、もうすこし遅かったかもしない。もしかしたら、私の考え過ぎでHSCではないかもしれないけれど、可能性として、頭の片隅にこのことを入れておけたのは、かなりありがたい。

「もう!なんでそんなことで泣くの?」と言った類のストレスはほとんど無くなった。そして、そんな敏感な性質が愛おしいと思うようになった。

【メソメソとすぐ泣く子】と判断するのか。【他人の気持ちを汲み取れる子、ささいなことに気付ける子】として長所だと気付かせてあげるのか。今後、その育て方の違いは、とても大きいのではないだろうか。

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もし、自分は人よりも敏感な気がする、子どもが他の子と違う気がする、と思っている人がいたら、ぜひ。

※一般的なHSP診断はこちらから(大人用) 

※子どもが敏感かもしれないと思ったら(子ども用)

※こっちの診断は少し時間かかるけど面白かった

子どもが明らかに他の子よりもよく泣いたり、敏感な気がする、と思ったらこの本がとてもわかりやすくて参考になりました。

HSCの子育てハッピーアドバイス HSC=ひといちばい敏感な子

こっちは、大人向け。気が楽になる人がいたら、幸いです。

鈍感な世界に生きる 敏感な人たち

2019年01月16日 | Posted in おすすめの本, ブログ, 暮らしと子育て2 Comments » 

 

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