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本屋生活、はじまり

 

教えてもらう、仕事

先日、最後に書かせていただいたのですが、さっそく本屋さんのバイト(パート?)が始まりました。とはいえ、まだ慣れるために1日3時間ほど。夕方、ちょろっと行って帰ってくるというなんともふんわりとした感じです。

でも、一応それに備えて夕食を早めに作ったり、掃除をしてみたり、なぜか前よりも家事がはかどってる気がします。今まで全くなかった枠が出現したことで(ふんわりだけれども)時間という見えないモノを認識し始めたのかもしれないです。

それにしても【仕事を教えてもらう】というのが、久しぶりすぎてかなり新鮮です。(しかも若い女の子に♡)

何にも仕事という仕事を出来ていないのに(掃除と、本の整頓くらい)時給が発生しているという、申し訳なさ。新人あるある。しかも、本の整頓って、楽しい以外の何でもない。今まで見てこなかったようなジャンルの棚も見れたりして、何だかすごく発見がある。

何にも出来ないということは自分でも100も承知なので、そういう時の心構えは本当に初歩的なこと。誠実に、一生懸命やる。笑顔を忘れない。それだけ。

 

1日の終わりに

 

この、本の整頓という作業を教えてもらう時のこと。「飛び出ているスリップを押し込む」だったり、「帯がよれていないか確認して」などの言葉と共に「ぱっと見はきれいに並んでいそうな箇所も、一応本に触ってあげて」と。

本棚を見てみると、明らかに何にもの人に触れられた形跡のある本と、そうで無い本がある。一日中、誰にも触れられなかった本だからって、存在しなくていいというわけじゃない。ちゃんと役目がある。

整頓とは、そんな本に「今日もいちにち、ありがとう」と言う気持ちを伝えることなのかもしれない。そうすると、心なしか奥の方で寂しげな表情をしていた本も、にっこりと微笑んでくれるような気がする。

社員さんのやさしい一言に、本ばかりでなく私もときめいた。

 

意外と多い、お問い合わせ

 

本屋さんって、お客さんと接するのはレジくらいかなと思っていたのだけれど、意外と場所を聞かれることや在庫を聞かれることもあるようだ。

2日目には「〇〇の資格の本はありますか?」と聞かれ、初日に店内を一通り案内してもらったのを思い出しながらお客さんを案内した。「お、覚えててよかった~!」と、テストで山を張った学生のような気持ちだった。

そのお客さんは、探していた本があったようで、喜んでくれた。

他にも、おばあちゃんと一緒にお目当の文房具を探したり、プレゼントする絵本を一緒に選んだり。やっぱり、こういうお客さんと接している時間は楽しい。今のところ、知識がない分、自信を持って伝えられないのが惜しいところだ。これは、本やお店のことをもっと早く知りたいというモチベーションに繋がる。早く、自信を持って案内できるようになりたい。もっと楽しくなるに違いない。

頼りなさしかない新人の私だからこそ、今のところは『聞きたいことが聞きやすいような店員さんの雰囲気を醸し出す』ことに徹している。まあ、答えられないことが大半なのだけれど。それでも「聞きたいけど、忙しそうだし、こんなこと聞きにくいな~」と言う人が話しかけやすいような店員になれれば、ベテランさんへ繋ぐ質問の窓口にはなれる。

やはり、人と接するという仕事の瞬間が大好きだ。

まだ、レジができるわけでもなく、ビシッとしたご案内ができるわけでもないけれど。寂しそうにしている本があったら、1日の終わりに労いの言葉をかけてあげることは出来る。

また、来週も早く本屋さんに行きたい。私にとって、本屋さんはテーマパークだ。

ナカジマノゾミでした。

2018年12月08日 | Posted in ブログ, 働くシアワセ, 本屋さんのこと1 Comment » 

 

冬の湯気と漂う音

冬の朝のコーヒー

朝、起きて、コーヒーを入れる。

たったそれだけの動作なのだけれど、夏と冬で大きく違うことがある。

それは、湯気の存在だ。

夏には、すぐに消え去ってしまっていた湯気が、ここの所かなり存在感を増してきた。気温が下がるほどに、湯気はくっきりと輪郭を現す。

沸かしたケトルから、マグカップ2つと、コーヒーサーバーにお湯をうつすとき、そのくっきりと浮かび上がった湯気を見て(あぁ、今年も冬がやってきたんだなあ)と、改めて実感するのだ。

コーヒーは、沸かしたてのお湯では温度が高すぎる。

沸かしたケトルから、ドリップ用のポットにお湯をうつすと、その時点で5度から10度くらい温度が下がると言われている。私が好きな低めの温度で抽出するには、沸かしたお湯を一度コーヒーサーバーにうつし、それをさらにドリップ用のポットにうつすと、ちょうどよくなる。

ただし、夏と冬では温度の下がり方が異なる。

お湯のリレーをしていく段階で、ガラス、陶器、琺瑯、そのものの温度が下がっていることもあり、同じ作業をしていても冬のほうがやや低い温度に仕上がる。

低い温度で抽出したコーヒーは、高い温度で抽出したコーヒーよりも、角が立ちにくく、丸くなる。

冬のコーヒーが優しいのは、そのためだろう。

名古屋駅3丁目のコーヒートラック

先日、MAGNI’S COFFEE TRUCK に行ってきた。平日はいつも同じ場所に常駐している、移動しない移動カフェだ。土日のみ、イベント出店などで各地を回っている。

いつもの場所に、いつもいる。

移動カフェでも、そんな安心感をその地に生きる人に与えることが出来る。

屋外ならではの開放感も、寒い中で飲むコーヒーも、最高。

丁寧に淹れてくれるコーヒーから立ち昇る湯気が、たまらない。もはや、湯気フェチだったのかもしれない、と思うほど永遠に見ていられるような気がする。

 

「うぃっす」「うぃーす」

コーヒーを飲んでいたら、常連さんと思わしき人がやってきた。こんな風にお客さんと店主が挨拶できるお店は、特殊かもしれない。「いらっしゃいませ」でもなく「こんにちわ」でもなく、どこまでもゆるく、いつも通りの「うぃっす」

お店とお客さんが、おなじ高さに立っている、というのは双方にとってかなり心地よい関係だ。お客さんを持ち上げるでもなく、自分がへりくだるでもない。お客さんを持ち上げるというのは、ある意味丁寧でお上品なのだけれど、堅苦しい。そんなお店ばかりでなくても良い。

それに、実は、お客さんは、それをそんなに望んでいないのかもしれない。お客さんをお客さんという認識で扱っている限り、お店とお客さんの距離は縮まらない。

マグニスコーヒーのドリップコーヒーは、やっぱり優しい味がした。

豊田の駅前から漂う、音

もっともっと街中や、公園、お外で過ごせるような環境や場所があったらいいなあと、常々思う。子どもをもってみて、より一層そんな気持ちが強くなった。

そんな事を考えながら、豊田の駅前を散歩していたら、どこからともなくジャズの演奏が聞こえてきた。その日は土曜日だった。お昼下がりということもあり結構人がいたのだけれど、みんな音の方に吸い込まれるように歩いていた。その先を見てみると…ビルの前でサックスとギターで演奏している人がいた。

そして、そのビルの中には、最近コーヒースタンドが出来ていた。

※土日は「B&C SPACE」

 平日は「OHAYO COFFEE」

何もなかった場所に、音楽とコーヒーがあることで、そこは何もない場所ではなくなっていた。シャキッとした冬の空気が、華やかに穏やかになっていた。

息子のつむつむくんは、初めて見る生演奏に片手を上げて、ベビーカーを蹴り上げて、ノッていた。赤ちゃんにだって、きっとこの心地よさが伝わったはずだ。

ふんわりと立ち昇る湯気や、どこからか聞こえてくる音楽。今年の冬も、いい冬になりそうだ。

ナカジマノゾミでした。

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そういえば、本屋さんのアルバイトの採用連絡をいただき、昨日から始まりました。そのことについては、また次回。

 

断片的なものの社会学

最近は、図書館で本を借りまくっている。月に3回ほど通い、ごっそりと借りてくる。ジャンルはさまざまだが、エッセイが多い。軽くて笑っちゃうようなものや、真面目なもの、本にまつわる本が多い。何かを得てやろう!と思っていたときより、読む時間自体を楽しんでいるような感じだ。

だから、全然記憶に残らないものもあるのだけれど、ときおり思考を立ち止まらせたくなる本に出会うことがある。流れていくような本もいいけれど、何度も読み込みたくなる本もいい。これは、そんな立ち止まってしまうような本だった。

【断片的なものの社会学】

 

 

筆者は、路上生活者や同性愛者、風俗嬢や摂食障害、戦争経験者などのマイノリティの人々にインタビューして社会学を研究している岸政彦さん。

インタビューをしていくうちに、どうしようもない出来事にしばしば直面する。「良い」でも「悪い」でもない、なんの意味もない出来事たち。そんな「どうしたらいいかわからない事」で、人生は出来ている。

分かりやすいエピソードは、これだ。

岸さんが大学生の時に飼っていた犬が、岸さんの外出しているうちに、死んだ。全身に癌が広がっていて、自分で動くことも食べることも出来ないような状態だった。ずっと看病していたのだけれど、ある日30分ほど外出してるうちに、静かに息を引き取った。

岸さんが犬の死に際を見てやれなかった事を気にやんでいると、ある人が言った。「あなたに死に際を見せたくなかったから、出かけている間に先に逝ったんだよ。」

そのことに対し、岸さんは怒った。犬は、そういうことを考えない。1人で死んだことに意味なんて無い。ただ、1人で死んだだけだ、と。犬を擬人化したような考え方は、自分が一緒にいてやれなかったことを正当化し、犬の最期の孤独を無にしてしまうのではないか、と。

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このエピソードを読んで、思い当たる事があった。【すべての出来事の意味を考える人と、すべての出来事から意味を見出す人】が、それぞれ世の中には存在している。そういうことを考えていた事があった。

【すべての出来事の意味を考える人】は、なにかが起こったときに「〇〇だったから、△△だったのかもしれない」と考える。この犬の例で言えば、岸さんをなぐさめようとしてくれた、「ある人」の言葉のような考え方だ。

怪我をした時、病気になった時「乗り越えられるからこそ、神様が与えた試練」という言葉はこれに当たる。自分たち人間より、大きな何かの存在があり、その何かの采配でそうなった。必然だった、という考え方だ。起こった出来事に対し、受動的な印象を受ける。

【出来事から意味を見出す人】は、似ているようだけど真逆だ。起こった出来事は偶然だった。でも、それをそのまま受け止めて、だからこそ「こうしていこう」という指針を自分で決める。起こった出来事に対して、能動的に働きかけている感じだ。

たとえば、たまたま歩道を歩いていたら、車が突っ込んできて事故に遭遇し、腕を骨折してしまったとする。

前者は「もし、そのまま事故に合わなかったら、もっと大きな事件に巻き込まれていたかもしれない!それをご先祖様が、止めてくれたのかもしれない!」と言いそうなイメージ。

後者は「たまたま歩いていたら、事故にあって腕を折ってしまった。けれど、そのおかげで腕が不自由な人の気持ちを知ることが出来た。これからは、もっと親切に接しよう!」と。

どちらも、ポジティブといえばポジティブなのかもしれない。前者の考え方は、起こった出来事を受け止められないから、そこに意味を探そうとする。出来事を受け止めるために、意味を探す。愛すべき人間の弱さかもしれない。後者は、淡々と受け止めた後に行動を起こすために、意味付けをする。人間の力強さを垣間見ることが出来る。

少し前に「ポジティブ思考」という言葉が流行ったけれど、こういう些細な違いから「ポジティティブ風な思考」がSNSなどの画面を埋めていることがあった。その言葉を発している人が本当に前向きに出来事をとらえているのかは、言葉の端々をみればすぐに伝わる。ポジティブ思考にならなきゃ!と考えているとすれば、その時点ですでにネガティブ思考だ。

話が大きくズレてしまった。
つまり、前者と後者はどちらが良い、という話ではない。この本の筆者の岸さんは、出来事を淡々と受け止めて、それをむりやり解釈するわけでもなく、意味づけするわけでもなく、ただそのまま「どうしたらいいかわからない出来事」として、そっとしておく。

励ますわけでもなく、同情するわけでもない。それが、一番の優しさだということを知っているのだ。

この本を読んで、私も「どうしたらいいかわからない」気持ちになった。だから、この気持ちはあえてそっとしておくことにした。胸の中の絶妙な感情が広がっていく。初めて出会ったタイプの本だった。

2018年11月26日 | Posted in おすすめの本, ブログ, 価値観を考える本5 Comments » 

 

なぜ、本屋さんで働きたいのか

前回は、嬉しさのあまり浮かれた記事を書いてしまった。ので、今回はちゃんと書きます。

 

本屋さんの記憶

読書家、というわけではないのだけれど、本が好きだ。

いつからだろう?小学生か中学生の時に、家にあった桐野夏生さんの「OUT」という小説を何度も何度も繰り返し読んでいた。「OUT」は、バラバラ殺人を決行する主婦たちの話だ。お風呂場で死体を解体するという、ショッキングな内容の話だったのだけれど、怖いもの見たさで何度も読んでいた。してはいけないような事をしているような、背徳感があったのかもしれない。それが、【本】に対する一番古い記憶だ。

【本屋さん】に対する記憶といえば、小学生の時に駅前にあった本屋さんの記憶だ。学校から帰ってくると自転車に乗って、立ち読みをしに行く。1人のときもあれば、友達と一緒だった日もあった。ほとんどいつも立ち読みだけ。今考えれば、あんな小さい店で数時間も立ち読みして、何も買わずに店を出るなんてことが良く出来たなあと思う。

当時、駅前には2つの本屋さんがあった。どっちも、個人の小さなお店で、交差点を挟んで反対側に位置していた。ひとつはタバコ屋さんがくっついているおばあちゃんの本屋さん。私がいつも行く方は、もうひとつのおじちゃんの本屋さん。なんでそっちのお店に行っていたのかというと、漫画が多かったのと、明るくて立ち読みしやすくて、居心地が良かった。外からの光がよく入る白い店内ということもあったけれど、蛍光灯の色味がかなり白かった記憶がある。

おばあちゃんの方は、立ち読みしているとハタキをかけられそうな空気を感じていたのに対し、おじちゃんはそんな空気を出さずにいつもレジでなにか仕事をしていた。とにかく、居心地が良かった。

上京して、実家を離れて、何年か経ってから駅前を通った時。おばあちゃんの本屋さんはあったのに、おじちゃんの本屋さんは無くなっていた。立ち読みばっかりしている子どもが多かったから‥と思うと、心が痛い。駅前再開発の関係で無くなってしまったのだ、と信じている。

 

本に、救われる

 

読まなくては!と思ったこともないし、記録をつけているわけではないのだけれど、人生の節目、節目ではよく本を読んでいる気がする。

なにか選択を迫られているときや、漠然ともやもやしているとき。違和感を感じることがあったときや、強烈に引っかかるワードを得た時。

それから、背中を押して欲しいときに、自ら望んでいるような内容が書かれているような本を選び「やっぱり、そうだよね!」と、自分の都合のいいように解釈したりすることもある。それはもはや、誘導尋問のようなものだ。

自分の考えと似ていると思った著者の本を選んでしまうのも、自分を肯定したいからという理由が根底にあるような気がする。自分が思っていることを、作家さんや先生と呼ばれるような人も考えている、というのは妙に心強い。

【自分が考えていることは、あながち間違っていないのかもしれない】そう思えることは、自己肯定感を格段に高めてくれた。

自分で自分の事を認めた上で、自分とは違うタイプの人の本を読むと、これはまた新鮮で面白かったりする。

コーヒーのことを勉強しながら、茶道の本を読んだりするのも面白い。似ている部分や、それが誕生した国の背景からの違いを知ることで、より深く腑に落ちたりする。

時には、涙をながしながら。時には、苦しいほど心を握りつぶされながら。本の中の言葉に、助けられてきた。

 

本屋さんで働いてみたい

 

本屋さんで働くということは、本屋さんの中にいられるということ。遊園地以上にエンターテイメントだと思っていた場所に、身を置けるというワクワク感。これはカフェの時にも感じていたけれど、純粋にその空気が好きなのだから、おそらく楽しい。

そして、新しい本や、知らなかった本を出会える可能性は格段に増える。売れ筋を知って、人が何に興味があるかの傾向もわかるかもしれない。本を手にとってタイトルを眺めるのだって、仕事しながら出来るなんて、ある意味すごい。(あ、でもテキパキやんないといけないんだよね、きっと)

なにより、一番は【本の裏側を知りたい】

年々、厳しい厳しいといわれている業界。現場の作業もなかなか大変そうな気がする。本は重いから、労力もかかる。そして、取次からの委託制度や返品制度というのも、実際にはどんな規模で行われているのか、毎日新刊はどれくらい出ているのか。返品された本は、どこに行くのか。

それから、わくわくする本屋さんの棚と普通の本屋さんの棚は、なぜぜんぜん違うのか。どうやって選んでいるのか、並べているのか。利益率が低い本という商品で利益を出していくアイディアなど、裏側から見てみたい。

衰退している業界かもしれないけれど、絶対に無くなってはいけない。それが本屋さんだ。

私にとって、コーヒーのお供は本なのだ。その本の事を知りたいと思うのは、ごくごく自然なことだ。ここまで書いて、面接落ちたら笑おう。それはもはや、ネタである。ナカジマノゾミでした。

 

あ、そうだ、バイトしよ

平和な悩みの行く末

「平和な悩みすぎて、ほっこりしちゃったよ。」

 

先日の記事を書いた翌日に、こんな感想をいただいた。

先日のブログ「私が、私を殺していく」

 

ほっこり!?ほっこりですか?!

私の頭を占領していた呻き声は、世間でいえば平和すぎる悩みだったようで、なんだか猛烈に恥ずかしくなった。自分とっては、頭の中であーだこーだモヤモヤしていることだけれど、他人からしたら、大したことなさすぎて微笑ましいとすら思われている。そういうことって、結構ある。

淡い恋心なんかが、それに当たるかもしれない。本人にとっては、いたって真剣だ。悶々と日々、頭を悩ませている。でも、他人からしたら(若いっていいわね♡)くらいにしか思われていない。

ほっこりというワード聞いてから、なんだか肩の力が抜けたような気がした。

 

そして、あることを閃いた。その瞬間、小躍りしたくなるほど、胸が高鳴った。

なんだ!なんだ!そうじゃんか!なんで気が付かなかったんだよう!私ってば、お馬鹿さん!

 

私のゆるゆるな日常

私は、家事に対して自分に課しているハードルが低い。たぶん、おそらく、けっこう低い。

2日に1回は【フリーデー】と称して、何にも家事をしなくてもいい日、ということにしている。気がノる家事はするけれど、気がノらない家事はしない、という日だ。

何にもしなくてもいい、とはいえ最低限の【つむつむの食事とお世話】はする。でも、洗濯は気分が乗らなければ翌日でもいいし、完璧に掃除なんてしなくても死にはしない。自分の食事を作るのが面倒くさければ、昨日の残りとか冷蔵庫にあるものを食べればいい。

つむつむと遊んで、お昼寝中には焙煎か読書をして、起きたら、またつむつむと遊ぶ。それだけの日。「やらなきゃ!」というストレスがたまらないし、私にとっては心地よい。

そして、そんなゆるゆるな日を2日に1回も設けているものだから、思ったよりもヒマ、なのだ。

 

いや、ヒマというのは専業主婦への誤解を招くし、語弊があるかもしれない。

家事を一生懸命していたら、ヒマなんていうことはありえない。ヒマならば、家事を一生懸命しなさいよ!という話である。しかし、私の場合は、家事を最大限に手を抜いてリラックスした結果、ヒマだということになっているのだ。家事を一生懸命完璧にする、という選択肢はない。

だけれど、常になんにも考えなくても生きれる、頭の余白が多すぎて考え事が何一つない、という状態なのである。最高に幸せではあるのだけれど、緊張感が無さすぎるような気がしてしまう。

 

それに、恐怖を感じることもある。

恐怖、というのは自分自身に対しての、恐怖だ。お金に対する恐怖でもなければ、社会に対する恐怖でもない。このままぼーっと生きていたら、脳みそのシワが無くなるかもしれない、という恐怖だ。

そんなに考え事が欲しければ【家族のことや家事のことを一生懸命考える】という方法だってあるのだけれど、そういうわけでもない。趣味に対して、もっと積極的に向かうというのも一つの手ではあるのだけれど、それもいまいちピンとこない。

そもそも、私がいくら家族のことを一生懸命考えたところで、家族のメンバーそれぞれにしか自分の幸せは判断できないのだから、私はその基礎を作ることしか出来ない。だとしたら、それ以上私が考えても仕方がない気がしてしまう。【あなたの為にこんなにしている】は、押し付けでしかない。

あれこれ家族の心配をして神経をすり減らす、という繊細さも持ち合わせていない。

さらには、趣味を作って没頭することが苦手だということに、仕事を辞めてから気付いてしまった。

【自分を喜ばすことが趣味・相手を喜ばすことが仕事】という言葉を以前見たのだけれど、まさにその通りだと思う。私は自分を喜ばすこと(趣味)に、さほど感動を覚えないタイプらしい。趣味を作って取り組むことに真剣になれない。それよりも、相手が喜んでくれそうなことを考える(仕事)の方が楽しい。その喜びの方が、断然大きい。それをバリスタという仕事を通して知ってしまった。(趣味も極めれば誰かを喜ばすことができるのだけれど、それが前提ではない。)

 

子どもを預けたいわけじゃないけれど、一緒にいたいけれど、仕事もしたい。欲張りだけれど、どっちもしたい。

そんなこんなで悶々としていたのだけれど、解決の糸口が見つかった。私にとっては、なんで今まで気付かなかったのだろう!という大発見だ。

働ける!という発見

 

我が家の旦那さんの勤務は、朝行って夜帰ってくるような、いわゆる通常の勤務ではない。一回の勤務時間が長く、その分、次に仕事に行くまでの時間も普通より長い。

仕事がない日の夕方から夜の数時間であれば、無理なくつむつむを見ておいてもらえるのでは…。

そうして仮定してみると、週に2、3回働いたとしても、家族でまるまる過ごせる日が週に1、2日は取れる。そして、いつか働いてみたいと思っていた本屋さんという業種で、ちょうど夕方から夜の時間帯でバイトが募集されているではないか!

なんだよう!なんで気付かなかったんだよう!私ってば!

 

というわけで、早速来週、バイトの面接を受けることにしました。善は急げ。(この体が勝手に動いちゃう感じで、自分の本心が分かる)

やっほー!バイトなんていつぶりだろう。ものすごい未経験初心者だけど、本屋さんで働きたいなあ。受かるといいなあ~。

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ちなみに、旦那さんに「預けなくても働ける!世紀の大発見!」ばりに本屋さんで働きたいということを熱弁プレゼンしたところ「そんなに、働きたいんだね(苦笑)それなら、やってみたら?」と承諾してくれました。最高かよ!♡

ここ数日、ご機嫌が止まらない。ナカジマノゾミでした。

 

私が、私を殺していく

外食の時に考えること

昨日は、つむつむ君とパパと3人でお出掛けしていました。

ちょうどお昼時だったので、外食をすることに。子どもがいると当たり前なのかもしれないけど、外で食べるときには、だいたい迷います。

まず、大前提は、子どもと一緒に食べられそうなものがあるお店。そして、暴れて困る雰囲気ではないお店。少しガヤガヤしているくらいのお店。

 

そして、そのお店の中から、半分こ出来そうなメニューを注文します。

メニューはどうやって決めるかというと、子どもの食べやすそうなものを考慮した上で、その日の子どもが着ている服を見て、ポロポロ食べこぼしても大胆なシミが出来ないメニューが候補にあがる訳です。(赤い服の日は、トマトソースでもいいけど、白い服の日はやめておこう、とか。ちなみに白い服の日は、ぶどうジュースも避けたいからりんごジュースか水にしよう、とか。脳内会議をしている)

それを、何ヶ月か当たり前のようにしていたから、気付かなかったけれどなんだか違和感があって。この違和感は、なんだろう?と考えているうちに【何が食べたいか、ではなく何を食べるべきか、で決めている自分】にハッとしました。

これは、私が私を殺している、ということではないのか、と。

自分の感性に耳をすますということ

私は、子どもが生まれるまで【選択する】ということを大事にしていた はず だった。

余分な条件を一切無視して、選択することを大切にしていた。

サービス券があるから、こっちにしよう。ポイントカードがあるから、このお店で買おう。身体によさそうだから、こっちにしよう。そういう理論的な条件を最大限に無視して、今自分が何を一番望んでいるか、に耳をすます。

簡単なようだけれど、ついつい人間は、ベストを考えて選択をしてしまう。それこそ【どうするべきか】【どうしたらいいか】で選択をしてしまう。

本当に大切なのは【どうしたいか】であるにもかかわらず。

日々、自分の感覚に耳を澄ましていないと、感覚は鈍る。その結果、大切な【どうしたいのか】がわからなくなってしまう。

今の私は、きっと感覚が鈍りまくっている。きっと多くのママも経験しているかもしれない。子どもの好きなのも、喜ぶもの、好きな場所。自分の感覚よりも、まず最優先に思い浮かぶのは喜んでいる子どもの顔だ。

私を殺している、なんて書いてしまったけれど、それは決して強要されていることでもないし、我慢しているという感覚でもない。むしろ、喜びだ。子どもの笑顔を優先して選択することは、ものすごく幸せなことなのだ。

一緒のメニューが食べられるようになったこと、たくさん食べられるようになったこと。たとえ、思っていたよりもたくさん食べてくれて、自分の分がなくなったとしても、それもまた幸せなのである。「あんなにちょっとしか食べられなかったのに、こんなにたくさん食べられるようになったのね!」という気持ちは、成長を見守る側として至福の時だ。

我慢や、押さえ込みばかりがベースになっていればどこかで爆発する時が来る。たまには自分の都合を優先させたい!とわがままを言う日が来てもおかしくない。

ただ、我慢ばかりでなく、幸せであるからこそ、ちょっとずつ自分で自分を殺していってることに気がつかない。幸せを感じることと、自分の感覚を鈍らせているということは、共存しうる。

気付いたら、自分の好きなものってなんだっけ?やりたいことってなんだっけ?と分からなくなったりする。

子どもが、子どもが、子どもが、問題

先日、ランチをしていたら、隣の席に二人組の女性が座った。聞くつもりはなかったのだけれど、話が耳に入ってきたから、こっそりと聞いていた。(おい!)

50代と思わしきその方々は、ランチ中、終始【他人】の話しをしていた。他人、とはいえ家族のことや子どものことだったから、正確には【自分ではない、何かのこと】だ。

子どもの大学が、子どもの彼女が、子どもの好きな芸能人が、子どもの成人式が。そして、あとは、テレビで見た情報など。

自分ではないものの話をして、何が楽しいのだろう?と、思いながら聞いていた。(⇦失礼)

そこに主体はいないわけで、会話の相手がその人でなくてもいいような気がするし、お互いに有意義な情報を得ているわけでもない。(とはいえ、誰かと喋りたい!という発散願望はかなえているのかも。だとしたら、とっても有意義。)

家族の話と子どもの話しか話題がない主婦には、絶対になりたくない!と思っていたけれど、いざ自分がその立場になってみると、それに近い主婦になっている。

なぜならば、他の何かのこと(夢中になれることや仕事のことなど、子ども以外のこと)を真剣に考えていないからだ。常々考えていないことは、口から出てくることはない。そして、文章になって手が動くこともない。

このままでは、超絶つまらない人間になっていくのではないか。避けたい事態に、自分から飛び込んでいるような気がしてならない。

 

そんな妄想をしながら、今日も私は生きている。今日は、自分が一番大好きなビールを買いに行こう。まだ、私は生きていたい。

 

「困らない」という困った現象

最近、困っていますか?

昨日、本を読んでいたらこんな言葉に出会った。

昨今、日常生活の中で「困らない」ということが当たり前になっている。しかし、手っ取り早く思える「困らない」という状況は、人生という大きな枠の中では本当は遠回りなのではないか?

困らないというのは、例えば、道に迷わないということ。今はスマホのナビを設定すれば、初めての場所であろうと大抵の場所に行くことができる。誰にも道を聞かなくても、1人で行くことができる。

そして、分からないことは誰かに聞かなくても自分で調べられる。インターネットを開いて打ち込めば、ほとんどの知識を得ることができる。やったことがないことでも、手順や方法は書いてあるし、説明書は検索したら出てくる。

それから、待ち合わせで会えずにすれ違うこともほとんどない。時間と場所を正確に決めなくても、友達と会うことができる。「今からそこ行くね!」で、いいのだ。

今現在、生活していて困ることってほとんどの人が無いような気がする。少なからず、私はほとんど無い。どんなものが必要なのか、欲しいものがどこに売っているのか、すぐにわかるのが今の時代。なんなら、自宅にいながら手に入れることができる。

企業や誰かが、困っていることを解決しようとしてくれて、世界が進歩していった結果のことではあるのだけれど。困らない世界になった結果、その場限りの情報や知識ばかりが増え、たくさんのことを知っているつもりになってしまった。

そして、身になる知恵や失敗するという経験は著しく減ってしまった。

クックパッド様様

料理を考えるのが面倒な時、とりあえず冷蔵庫にあるものをクックパッドに入力する。そうすると、これなら出来そうという料理がいくつか出てくる。それを、レシピを見ながらそのまま調理する。

当然、恐ろしく不味いということは無い。失敗することはほとんど無い。でも、これって「私が料理をできるようになっている」わけでは無い。

今の時代、インターネットさえあれば「料理ができない人」はほとんどいないのかもしれない。ただ、それで出来る気になってしまって「今度の時も、また調べればいいや」と、何も学ばずに何も得ないということは「料理が美味しくできる人になる」という結果には遠回りなはずだ。

考えてみたら、今は料理で失敗するということがほとんどない。(あ、焦がしたりは、今でもあるか)

タイヤ交換で困ったこと

一昨年、まだ山の中の我が家が圏外でWi-Fiつながっていない頃。朝起きたら、移動販売車のタイヤが2本パンクしていたことがあった。

旦那さんもいない。交換の仕方がわからない。でも、交換しなければ約束の場所に行けない。電波がないから電話もネットも繋がらない。「行けない」と言うことも伝えられない。

そういうわけで、何の知識も得ないまま、車のタイヤ交換を試みた。とにかく、やってみよう。もしかしたら出来るかも…

 

そんな気持ちで始めたタイヤ交換。だが、当然、うまくいかない。車屋さんで整備士さんが楽々やっているのを眺めているだけでは、どれくらいの力が必要なのかと言うことや、ジャッキをどこにどう挟めばいいのか?知っているようで知らなかったのだ。

戻すに戻せなくなってしまい、結局旦那さんの帰宅を待つことにした。約束に行けないという連絡を入れるために、電波のある山の下まで自転車で降りて行った。

あれは、明らかに失敗だった。そしてあの時の私は、間違いなく困っていた。

後日「タイヤ交換をしてみたけど、出来なかった」ということをブログにあげたら「タイヤは、分からないまま触らないほうがいい」という、ものすごく大切で最もなことをたくさんの人が教えてくれた。

この失敗で学んだことは【タイヤ交換は、私が思っていたよりも力が必要だから、近くの人に頼むなり、家族の帰りを待つなりした方がいい場合が多い】ということ。【見たことある・知っている、と、やったことあるは、大きく違う】ということ。そして【災害や万が一のために、インターネットを早急にひいた方がいい】ということ。

そして副産物として【自転車で山道を下るのはものすごく爽快】だということを知ることが出来た。【下るのは最高だけれど、帰り道は地獄のようにキツイ】ということと共に。

 

もし、困ったことが一瞬で解決出来ていたのなら。JAFにすぐに電話することが出来たなら。これらの体験や実感は、しなかったということになる。困ったことが起こるということは、いろんなことを体感出来る可能性を秘めている。

経営者の人や、日々変化の激しい仕事をしている人が精神的に強いのは「困ったこと」に対処してきた回数が、人よりも多いからではないかと思う。こういう時は、こうすれば大丈夫だったという過去のデータが体に刻まれているから、慌てることが少ない。困難を乗り越えた経験の分だけ、人間としての余裕がある。

困ったことは、ついつい避けたくなってしまうけど、本当は困ったことは、生きていく上で大切なことなのかもしれない。

今後、便利が増え、ますます困ったことが少なくなるかもしれない。そうなった時、一番困るのは、実は私たちなのかもしれない。

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1からはじめる
著者:松浦弥太郎

 

【日本茶体験】玉の露を嗜む

自分の中の日本茶がひっくり返った日

先日、日本茶を体験する会に参加してきました。日本茶は、なんとなく興味はあったもののこれまで関わって来たことはなく。(千利休にハマっていた時期があり、そのときは関連の本ばかり読んでいた時期があったのだが、主に接客やおもてなしの観点からの興味だった)

たまたま、近くのカフェで開催するんだけど来ない?と声をかけてもらったのがきっかけでした。

お茶、といえば薄緑色の液体で、ごく当たり前のように日本人の中に存在していて【知っている】ものだったはずなのに、その会で出してくれたお茶は【全く知らない】液体でした。

特に衝撃だったのは、旨味の濃い『玉露』を、低温で極々少量のお湯で抽出したもの。

20ccにも満たないような一煎目の、お茶。一口、口に含むとものすごい勢いで広がり続ける旨味。海のような、草原のような風景が頭の中に思い浮かぶ。

それは、到底飲み物と思えない謎の液体。

飲み物というよりは、ものすごく濃い出汁。飲み物というよりは、ものすごく丁寧に作ったスープ。

その上、頭が冴え渡るような、脳細胞に染み渡るような刺激も兼ね備えている。

なにこれ?と、思わず口からこぼれていました。

わずか20ccの液体に、よく知っている日本茶に、ここまで感動するとは予想しておらず。強烈な余韻は、それから夕飯を食べるまでの6時間以上も私の中に存在していました。

玉露、というお茶の分類は、最後の一滴が急須から出るときの形状から由来されているようで、雫が玉のように落ちることから、そう呼ばれるようになったのだとか。

身近にこんな飲み物があったということが、ものすごく衝撃でした。

今回は、豊田市の山の中の蔵のカフェ、ワークベンチコーヒーロースターズの古民家で行われたのですが、それがまた良かったのかもしれないです。耳を澄ますと、水の音と鳥の声と、さわさわという風の声。場所とイベントとの相性が抜群によく、これ以上ないという程のマッチングでした。

知っているつもりになっていること

もしかすると、知っている気になっていた、というのは大きな機会損失なのかもしれない。

世界のすべての事を知ることは出来ないから、目の前に起こった出来事をうっかり見逃してしまうことは仕方がない。でも、何かの瞬間にそんな未知の物事と鉢合う事があって、それに心から感動したりすることもあるようだ。

一応知ってる、という物事を「これくらいだろう」とたかを括ったりするのはもったいないのかもしれない。一度、本物を体験してみると、もっともっと世界が広がるのかもしれない。

それを更に深めるか、そうしないかはその時に決めればいい。

日本茶を通して、そんなことを学んだ1日でした。

また、あの冴え渡るような日本茶を飲みたいなあ。ナカジマノゾミでした。

2018年10月24日 | Posted in ブログ, 山暮らしのこと, 暮らしと子育て4 Comments » 

 

1歳のHAPPY BIRTHDAY

先日、息子のつむつむ君が1歳の誕生日を迎えました

1年前の写真をみると、びっくりするほど皺くちゃでちっちゃくて頼りなくて。人間というより、動物にしか思えないような生命体。

1年で体重は約3倍、背も30センチ近く伸びました。この12ヶ月の凄まじい心身の成長を物語っているようで、感慨深くなりました。

 

子どもを持って変化したこと

つむつむ君が生まれてきてくれたことで、変わったことはなんだろう?と考えてみたら、1つ大きく変わったことがありました。親になる前と、親になった後でぜんぜん違うこと。

それは、自分の生に対する意識。

というよりは、生に対する執着心と言えるかもしれません。

子どもが生まれる前までの私は、もちろん「いつ死んでもいいや」とは思っていなかったけど、「いつ死んでもいいような日々を過ごそう」と思っていました。

もし、今日倒れたとしても後悔しないような1日を過ごそう。そのためには、やらなくていいことやしたくないことをしているヒマはない。やりたいことだけやろう。そして、死ぬまでにしたいことは早々にやろう!明日死ぬかもしれないと思って、生きよう。

そんな感じでした。

だから、100m落下するバンジージャンプも怖くなかった。だって、それで死んだとしても、やってみたかったんだもん!と。(ちなみに、今だったら、絶対にやりたくない。つむつむが成人して、孫の顔を見届けられたら飛べるかも。笑)

あの時だって、決して死にたいと思っていたわけではないけれど、そこまで死に対する恐怖は無かった。いつか必ずくるものだから。

でも今は、何があろうと絶対に生きたい。24時間一緒にいるつむつむ君の顔を、どうしても明日の朝も見たい。寝たきりになったとしても、目が見えなくなったとしても、彼を感じられる五感が1つでも残されているなら、生きたい。

それは、彼のためではない。「私がいなかったら、、、」という心配からくるものではない。ただただ、私のために、だ。

明日もつむつむ君に会いたい

 

どうしても、明日もつむつむ君に、会いたい。どうしても、2歳のつむつむ君がどうなっているのか見てみたい。どんな小学生になっているのか、どんな青春時代を過ごすのか。どんなことが好きで、どんなことに興味を持ち、どんな大人になっていくのか。

絶対に絶対に、見たい。
絶対に絶対に、死んでも死にたくない!

この気持は、今までに感じたことのない気持ち。まさに生きることに対する執着心だと言える。

もし、日本の寿命が伸びている要因が、子孫の成長を見届けたいという執着心からくるものだったら、日本ってすごい国かもしれない。(なんせ、平均寿命は伸び続けている)

彼が今日まで大きな怪我もなく、生きてこられたこと。いろんな日を一緒に過ごせたこと。ありがたい、という一言では全然足りない。共に生きる、ということがどれほど奇跡的で尊いことなのか、肌で感じ始めているのかもしれない。

今、すやすや寝ているつむつむ君。朝起きたときに「おはよう」と声をかけることが出来るのが、今は1番の幸せだ。

 

つむつむ君、1歳のお誕生日おめでとう。
これからも、いろんな毎日を一緒に過ごせますように。

ナカジマノゾミでした。

2018年10月15日 | Posted in ブログ, 暮らしと子育て, 生きるシアワセNo Comments » 

 

絵本【ふうしてあそぼ】読み聞かせイベント

作者さんによる絵本の読み聞かせと、それにまつわる絵の具遊び(ブロウアート)のイベントに行ってきました

対象年齢は、1歳半から大人まで。

1歳前のつむつむには、ちょっと早いかな~と思ったものの、どうしても会いたい人がいたので行くことにしました。

私が会いたかった人は、その絵本の作者の はるのまい さん。

はるのまいさんは、移動カフェのときにある方にご縁を設けていただいて出会いました。

私の出産時期が近づいてきたときに連絡を頂き、ベビーラックやマタニティ用のジーパン、育児にまつわる本などを「良かったら、使いませんか?」と譲ってくれました。

その時まで、はるのさんが妊娠していたこと、1ヶ月前に出産していたことを全く知らなかったので、いつの間に出産されたのだろう?と、びっくりしました。

SNSで投稿されている内容は普段と変わらないように思えたし、仕事も忙しそうなイメージだったし、そんな一大ライフイベントを抱えていたとは思いもよらなかったのです。(SNSでは、けっこう後からさらっと報告していました。とってもクール。私は速攻「生まれたよー!」と言いたくなっちゃうタイプ。)

 

女性にとって妊娠出産は大きなイベント

 

結婚・妊娠・出産・育児のこと。その真っ只中には、ついついその事に対する投稿が多くなりがちだし、子どもが生まれてからプロフィール画像を我が子にするママさんも少なくありません。(現に、私のインスタはつむつむ99%。)

幸せのおすそ分けかもしれないし、報告を兼ねているかもしれないし、「この子のママです」というのが、自分の存在を確証してくれているものなのかもしれない。

それが悪いわけではないけれど、ママではなく妻でもなく個としての「わたし」が薄れていくことに疑問を感じていた中で、はるのさんは「子どもは子ども、わたしはわたし」を貫いているように思えて格好良いな〜と思っていました。

 

そして、出産後もそれまでと変わらないペースで仕事をするはるのさんを、ひそかに尊敬していました。イラストや絵本を家で作成しているとは言うものの、赤ちゃんをみながら仕事をすること自体、私にとっては信じられませんでした。

そんなはるのさんの発信の中ですごく印象に残った言葉があります。はるのさんが出産して3ヶ月近く経ったときです。

【赤ちゃんを中心に自分の世界が周り、時間、エネルギー、金銭、すべてを捧げてしまいそうな衝動にかられる。子どもが可愛すぎて、子育てが面白すぎて。自分の全エネルギーを子どもに注ぐ生き方もありだし尊敬するけれど、私はそうじゃない方の人生を選ぶことにした。子どもがいること、を自分の中での言い訳にせず、守りに入らず、チャレンジを続けていく。

その言葉を読んだときに、自分はどうなのかと問われたような気がして、ドキリとしました。自分は子どもを言い訳にしているのでは、と。

 

子どもが出来たと分かった時には、出産・育児という人生の大きなイベントごとが体験出来るというワクワク感と、好きな仕事を辞めなくてはいけないという寂しさと、どこまで走り続ければゴールなのだろう?と思っていた仕事から解放されるという安堵感がごちゃまぜになっていたような気がします。

寂しさと、安堵。相反する感情の正体は【自分の人生から少し距離を置くこと】へのまさに言い訳だったように感じました。「やりたい事をしたいけど、子どもが小さいから」といえば、その間は自分と向き合うことをしなくてもいい。守られた状態の中にいることが出来る。

もちろん子どもを第一優先に考える生き方も素敵なのだけれど、私にはなんだか違うような気がしていました。

だからなのか、出産後も好きな仕事をしているはるのさんに会いたいな、と思ったのでした。

そして、久しぶりに会ったはるのさんは、やっぱりキラキラしていました。ぱあーっと周りが明るくなるような笑顔で、沢山の人に囲まれて。

人は好きなことをしている時、最大限に輝いている。

そんな、よく分かっていたのに忘れかけていた事を改めて思い出した一日でした。

 

ちなみに、はるのまいさんの絵本はこちら

絵本アーティスト はるのまいのつれづれ日記

モスバーガーのハロウィン限定の包み紙の絵も描いているそうです。ん~。すごい!今度モス行ってみよう。

 

ちなみにつむつむは、イベントのブロウアートよりも近くにいる女の子にちょっかいをかけるのに忙しそうでした。相変わらず、他人の領域にズカズカと入り込んでいくところ、ある意味、見習いたい…。ナカジマノゾミでした。

 

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