街の一角から、世界平和はつくれるか
※先日の記事が消えてしまい、いくつか頂いたコメントも消えてしまいました。バックアップの復元ミスったようです。ガーン。すみません(T_T)
自分の居場所、といえる場所
一時期、サードプレイスという言葉が流行った。自宅ではなく、職場でもなく、その間にあるとびっきり居心地のいい場所。他愛ない会話が出来て、気軽に交流できる場所。
それは、カウンターのあるバーかもしれないし、常連が集うスナックかもしれない。子どもたちにとっては近所の駄菓子屋かもしれないし、公園かもしれない。
「誰かが存在していて、その視線が好意的であること」は、自分の居場所と呼べる場所には欠かせない。日本ではサードプレイスは【ひとりだけでくつろげる場所】という捉えられ方をされがちだけれど、本来は【ゆるやかなコミュニティを生み、そこに集まる人と話すことでリラックスし、ときに新しい何かが生まれる】ような意味合いを持っている。
目的と目的をつなぐだけの動線
ふと、自分の行動を見直してみると、住んでいる地域が車社会ということもあるけれど、家と目的地を結ぶだけの道順を通ろうとしていることが多い。そこには無駄がないのだけれど【思いがけず、何かと出会う】ということも少ない。
目的のある行動をしている時には、想定外のことはなるべく起きないで欲しいと願う。約束の時間に遅れたくないと思うし、これから出かけるのに衣服を汚したくないとも思う。
目的のない行動をしている時には、なにか予想外のおもしろいことを探す。いつ、どこで、何をしたくなっても構わない。ちょっとぐらい汚れたって全然いい。そうなったら、そうなった時に考えればいい。
こう見てみると、1つめは【大人】としての行動。2つめは【子ども】としての行動そのままだ。
例えば、目の前の人がオレンジが大量に入った紙袋を落としたとして。
時間制限のあるなかでは【見て見ぬふり】をするかもしれない。一緒に拾ったとしても「あぁ!もう!時間ないのに!」と思うかもしれない。
何も特にしていないのであれば、気持ちよく拾ってあげられるかもしれない。ついでに世間話して仲良くなっちゃうかもしれない。オレンジを落とした人がめっちゃ美人かもしれないし、その人にとびっきりの笑顔で「ありがとう!」と言われちゃうかもしれない。また別の機会に違う場所で出会ったら「運命だ!」と錯覚できるかもしれない。
目的と目的だけをつなぐ行動では、予想通りの出会いと予想通りの出来事が圧倒的に多い。そして、そういう生活の中では、サードプレイスの生まれる可能性は低い。
何者にもならなくていい
生活の拠点が家と職場だけ、ということは、常に何かの役割を担わなくてはいけない。家では【夫】、会社では【上司】など。サードプレイスのような場所では、ひとりひとりは何の役割も受け持たなくても良い。その人が、その人であればいい。そういう時間をもつことは、人生おいて必要だ。
もちろん、習い事や趣味に、それを求めても良い。でも、コミュニティがゆるやかであればあるほど、より心地いいような気がする。気分によって、選択できるようなゆるやかさがなければ、またいずれ息苦しくなってくる。
無駄だらけのような行動が、無駄ではないことは結構ある。もしかしたら、日本に足りないものってこういう合理性のないことなのかもしれない。
ちょっと話は飛んでしまったれれど。
もし、自分にとって安心感のある、受け止めてもらえるような場所が、一人ひとりにあったなら。嫌なことがあった時に「聞いてよ~!」と言えるような場所があったなら。「それは大変だったね、大丈夫?」という誰かからのささやかな一言があったなら。嬉しかったことを、聞いてくれる誰かがいたなら。
世界はすこし、平和になるのではないか、と本気で思っている。
いつもの街角から、そんなことが出来たら、いいなあ。ナカジマノゾミでした。
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