【検索社会】検索して答えは見つかるの?
なんでもかんでも、検索してしまう時代
最近、自分自身においても感じていることがある。
今、まさに検索社会だと思う。【検索社会】という言葉が存在するのか、しないのかはわからないけど。
日常のかなで「なんだろう?」と思ったものや、「どうやるんだろう?」と思ったこと、ついついスマホやパソコンで検索してしまうのだ。
それだけならまだいい。
人の気持ちや、自分の心の中まで検索結果で得ようとしてしまうことがある。検索は便利だけど、これには少し恐怖に近いものを感じる。
検索社会の便利さ
これまでは、情報には多大な価値があった。知識として得たものや、独自の考え方は財産として自分の中に存在していて、それを他人に渡すのは話したり、本を出したり、セミナーをしたり、そんなことが必要だった。
「欲しい!」と思った情報を得るまで、タイムラグがあった。
今は、欲しい!と思った情報を得るためには、スマホを開いたら10秒もかからない。検索して、即、得ることができる。表面上の知識は、ほぼ全員が共有していると言ってもいいくらいだ。
ただし【知識として、知っている】のと【体験して感じる】のは、大きな違いだ。
検索社会の違和感
情報をすぐに得られる、というのは非常に便利だ。何かをやりたい!と思った時に、すぐに行動に移すことができる。例えば、毎日のご飯のレシピ。思いつかない時は冷蔵庫にあるものを入力して検索すれば料理の仕方が出てくる。
昨日の、天然酵母なんて、まさにそれ。10分前には知りもしなったことが、すぐ形にできる。興味のある人を見つけて会いに行くこともできる。かわいいお店を知ることもできる。
すごく素敵なことだ。
私自身は、お腹に赤ちゃんができた時から、検索魔になった気がする。そのほとんどが不安からくるものだ。例えば今日、胎動が少ないなあと不安になった時。『妊娠30週 胎動 少ない』などと検索し、その不安を打ち消そうとするのだ。
今は『生後6か月 はいはい いつ』とか。笑
誰かの情報と、今目の前にいる子。個人差があるのは承知した上で、検索してしまうのだ。これは、もはや癖と言ってもいいくらい。いつはいはいするのかなんて、検索したって仕方がない。画面を見るんじゃなくて、目の前の子どもをよく観察していた方がよっぽど分かる。
そんなことわかっているはずなのに、手が勝手に検索してしまうのだ。
ある事柄に詳しい人に、あえて直接質問した時には『自分で検索したら、出てくるよ』と言われたこともある。それは、確かにそうだ。でも、その時に私が質問した意図は『情報のやり取り』ではなくて、『その人本人との、コミュニケーションとしての質問』だったために、なんだか少し寂しい気持ちになった。
それで、その中に答えはあるの?
欲しい情報のほとんどは、確かに検索結果の中にある。
でも、人間の気持ちや自分の心の中の声は、検索結果の中には無い。そのことを踏まえておかないと、自分を求めて彷徨うことになりかねない。
何がしたいのか、どうしたいのか、どこに向かうのか。それを検索するとしたら、画面じゃなくて自分の心の中を検索するべきだ。【どうしたいのか】が無いままに【どうしたらいいのか】の答えなんて出るはずがない。
【検索する】ということは、答えは自分の外側にある、と思っている状態。でも、本当に大切なことは自分の外側には無い。自分の内側に聞いてみるしか無いのだ。
答えは、探すものじゃない。いつも自分のなかにある。
検索では得られないもの
ここの所、自分で自分が何をしたいのか、心の声を聞くことをおろそかにしていたような気がする。この先何がしたいのか、私自身の本当の望みは何か。だから、モヤモヤもするし、なんだかしっくりこない日々が続いていた。
でも、これを書いていて感じたことは、私は多分【検索】では得られないものを提供したいと思っているのだということ。画面上で完結しないもの。リアルな生活の中で、人間の温度を感じられるもの。
インターネットも、ブログも利用させてもらうけど、それは手段にすぎない。目的と手段を自分の中で混同してはいけない。
答えは、探すものじゃない。いつも自分のなかにある。そのことをよく理解したはずだったのに、すぐに忘れてしまうから、やっぱり時々は自分会議をしなくてはいけない。
答えはいつも、自分のなかに。中島希でした。
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