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【赤ちゃんの寝かしつけ】一日の中で至福の時間
生後7ヶ月半のつむつむ君
夜の睡眠もだいぶ安定してきて、離乳食もよく食べるようになってきました。体重は8キロちょいと、なかなかの成長ぶりです。
ちょっと前はぐずぐず声にイライラしやすかった私も、生活の中の「やらなきゃ」の基準と、気持ちの持ちようを変えたらずいぶん気楽になりました。
前は、寝ている間にやりたいことや「やるべき」と思っていることが多くて、なかなかお昼寝しないつむつむ君に「んもう!!!」ってなったりしていたけど、「一緒にお昼寝しよっか♪」という基準に変えたら、すごく調子がいい。
そうなると、もう可愛いしかない。今、この瞬間に一番大切なのって仕事でもブログでも夢でもなくて、この気持ちなのかもしれない。
眠気を我慢している時の可愛さが尋常じゃない
私が個人的に好きな赤ちゃんの行動ナンバー1は、眠気を我慢して、手で一生懸命に目をこすっている時。そして、顔を私にこすりつけてくる時。
母性本能をくすぐるって、こういう事。きゅんきゅんが止まらない。その瞬間を見れる、お昼寝のちょっと前と寝かしつけのときはたまらない。
ハンモックに横になって、お腹の上につむつむ君を乗せて、ゆらゆらゆらゆら…時間を気にせず一緒にお昼寝を出来るのは、至福。
こんなにくっついて寝てくれるのは、今だけかもしれない。そのうち「近い、暑い、くそばばあ」と言われるかもしれない。(ひぇ〜。)
今は、どれだけでも時間を気にせずにかまってあげられる。そう思うと、こういう日々も貴重だな…。そう思える余裕があるときの子育ては、至福でしかない。
自分の基準でここまで気持ちが変わることに驚きを隠せない。
この先また何度も、いらいらしたりもやもやしてりするのだろう。何度も何度も「んもう!!」って思うのだろう。でも、その度にちょっと立ち止まって休憩したらいいのかもしれない。
私を楽しむための手段として「子育てをしている私」を楽しんでみようと思う。
あ、そうそう。今日は、夕方からエスプレッソを淹れてきます。
【豊田市ピッツア】5月30日はイルファーロへ
楽しみだなあ。今日のディナーに迷っている人はぜひ。ナカジマノゾミでした。
【グレイテストショーマン】レンタル開始
5月23日にレンタルが開始されたグレイテストショーマンを観ました。
この映画は、友達が3回映画館に足を運んだと書いていたのを見て、気になっていました。まだないだろうなあ〜と期待せずにTSUTAYAに行ったら数日前からレンタルが開始したとのこと。さっそく観てみました。
メッセージ性がすごい映画
グレイテストショーマン、評判通り、迫力とメッセージをバシバシ感じる映画。まだ見ていない人もいるかもしれないので、具体的には書くのは辞めておきますが、スカッとする映画でした。
「自分らしく生きていい」ということを強く伝えていました。特に印象的だったのは、髭面の歌姫が力強く歌う「THIS IS ME」という曲。
その曲の中でこんな歌詞が出てきます(和訳)
私は自分の欠点を恥じてきたわ。誰もありのままのお前のことなんか愛さない、と人々は言うの。でも、私たちには輝ける場所がある。居場所がある。見られることに恐れない。謝りもしない。これが私。私は愛される価値があることを知っている。私にふさわしくないものなんて何もないのよ。これが私。「THIS IS ME」
この歌を力強く歌う女性は、男性のような髭が生えています。だから、人から隠れて生きてきました。そうやって育てられてきました。でも、もう、隠れない。これが私。逃げも隠れもしない、謝ったりしない。だって、これが私なの。
このシーン、めちゃくちゃ鳥肌が経ちました。力強い歌声とダンス、かっこよかった〜!
自分らしくあること
自分らしくあることって、なんでしょう。私は人から「あなたらしくない」と言われる度に、「あなたらしい」ってなんだろう?って思います。
私らしい、っていうのは私が決めること。
「それはあなたらしくない」っていう意見は、時に目の覚めるようなアドバイスでもあるけど「あなたの思っている私らしさ」と「私本来の私らしさ」はイコールだとは限らない。
エベレスト単独無酸素登頂に挑戦していた栗城さんの死
少し前のニュースで、栗城さんの訃報を知った。エベレスト単独無酸素登頂へ挑戦中だったそうだ。
そのニュースを聞いて私は「彼らしい最期だ」と思った。
本を一冊読んで、ニュースの中でしか知らない私ですらそう思ったのだ。でも、本当に「彼らしい選択」だったのだろうか。
周りからの「あなたらしい」は、背中を押してくれるのと同時に、時に人を追い詰める。もし彼が、挑戦よりも命のほうが大切、ということに気付いていたとしても「栗城さんへの期待」はその両肩に重くのしかかるのではないだろうか。
もちろん、まわりは追い詰めたとは思っていないかもしれない。栗城さんが心から自分で望んだ挑戦だったのかもしれない。生きていることと挑戦することはどちらが大切なのだろう。挑戦する勇気は、時に諦める勇気にフタをしてしまうのかもしれない。死んでしまってからこんなことを言っても、もう遅いのかもしれない。
栗城さんに勇気をもらったひとりとしては、彼の死は残念だ。とてもとても残念だ。もっと生きていてほしかった。話をきいてみたかった。
「私らしい」って誰かが決めれることじゃない
私しか「私らしさ」を知らないし、私だって「本来の私」を知らない可能性もある。
私が私らしくあるためには、日々問いかけて感じないといけない。ここのところ、そんな時間をとることも忘れていたような日々だったなあと、この映画を見て改めて気付きました。
人生のちょっとしたターニングポイントや、背中を押してほしい時、決断が必要な時にみたら「よし!やってやろう!」と、何か清々しい気分になれるような映画じゃないかなあ。
「THIS IS ME」のシーンが本当に良かったから、また観たいです。ぜひとも。
大切な人を生んでくれた人に感謝を伝える日
5月といえば、旦那さんの誕生月
一緒に過ごす誕生日は何度めだろう。
盛大なお祝いをしてあげられるわけじゃないけど、いつも一緒にいてくれることへありがとうの気持ちを込めて、料理を作る。
いつもより、ちょっとだけ豪華な食事。いつもより、ちょっとだけ美味しいお酒。
ここ最近の興味の有りそうなものをリサーチして、贈るプレゼント。カメラから選んだ写真で作ってもらったフォトブック。息子との写真は笑顔が溢れている。
家族の誕生日って、ちょっと特別な気分だ。
彼は、私にめっぽう甘いと思う。でも、そこが良い。
この前は、彼の大切な車のドアをぶつけてしまった。そしてバレないかなあと思ったら、あっけなくバレてしまった。「のん、ドアぶつけたでしょ」「あ、バレちゃった…へへへ」といって済ませてくれた。うぅ。優しすぎる。(私の中の繊細ではない部分が、いろんなものを傷つけたり落としたり。こればっかりは昔から治らない。注意力が足りなさすぎるのだと思う。)
名もなき家事が苦手な私。(※名も無き家事とは、家事というほどのことでもないけど、地味にめんどくさい作業。洗剤の詰め替え、排水口の髪の毛掃除、ゴミ袋のつけ替え、トイレットペーパーの補充…etc.)いつも、細かい家事をしてくれてありがとう。
ものが壊れてもそのまま使い続ける私。修理して、よりよく改善してくれてありがとう。靴も磨いてピカピカにしてくれてありがとう。
気づけば、いつも私の意見を優先して貰っているような気がする。あれがいい。これがいい。これはいらない、これはこっちが良い。付き合ってくれてありがとう。
つむつむ君が生まれてからは、よりたくさん助けてもらっている。お風呂も、お着替えも、離乳食も、おむつも。パパそっくりのつむつむ君。そのうち、一緒に男同士で遊びに行くのかなあ。楽しみであり、ちょっとさみしい。
これまで向かい合ってきた関係は、子どもが生まれて少し変わったかもしれない。同じ方向を向いて互いに協力し合う「同士」というものに近づいたような気もする。力を合わせて1人の人間の成長を見守ることは、信頼関係を築くいい機会でもある。
大切な人を生んでくれた人
私は、彼のお義母さんに会ったことがない。写真の中でしか、笑った顔を見ていない。
写真の中で見るお義母さんはとっても可愛い。可愛すぎてびっくりするくらい可愛い。お父さんとお義母さんの新婚旅行の時のビデオを見せてもらったことがある。
お義父さんも、お義母さんのこと大好きだったんだなあと感じられるテープだった。そして彼も、お義母さんのこと大好きだったに違いない。
もう、会うことは出来ないけど。彼を生んでくれて、ありがとう。
大切な人の誕生日は、大切な人を生んでくれた人に感謝を伝える日だ。一緒にお墓参りをして、つむつむ君の顔を見せに行こう。
大切な人の誕生日は、大切な人に生まれてきてくれてありがとうを伝える日だ。いつもなかなか言えないありがとうを、ちゃんと言おう。
直接伝えられるのは、幸せなことだ。今日は、いつもよりも素直になろう。
無償の愛を感じる時
ただ、幸せだなあ、と思う瞬間がある
目が合って、ふにゃ〜とやわらかく微笑むのを見ると、無償の愛は親から子どもへ与えられるものじゃなくて、むしろ親が子どもから受け取っているものではないかと思う。
柔らかい笑顔をみると、心がゆるむ。すべてを許してくれるような、ふにゃ〜とっした顔。
無償の愛について考えることがある。見返りを求めない愛。無償の愛は存在するのだろうか。
誰かのためには、自分のため
ある時「誰かのために」という言葉は、よくよく探っていくと存在しないことに気が付いた。誰かのために何かをしたいと願っていても、それはどこかで「自分のため」なのである。
「誰かのために、何かをしている私」という見返りを求めている。自分より他人を尊重する私。自分より家族を思う私。人に優しくしている私。
それが、悪いことという意味ではない。
自分のためにしている行動が、誰かのためにもなっているのであれば、誰にとってもいい。ボランティアや優しさ、誰にも迷惑にならずに世の中をちょっと温かく出来ることであれば、それは望ましいことである。
「子どものため」は本当に子どものためなのだろうか
「子どものために」という言葉は、たしかに子供の為を思う親の気持ちなのだろう。でも、それって本当に子どものためだけなのかな。
どこかで自分のためでもあるんじゃないのかな。それでいいし、それしか出来ないのが人間なのだと思う。でも、それを自覚しないと苦しくなってくるのではないだろうか。
親が子に与えられるのは、無償の愛だと思っていたけど、そうではないのかもしれない。親は子どもに何かを期待してしまう生き物だ。「子どもが自分らしく生きて欲しい」という願いすら、そうやって生きてくれたら「私の子育ては間違っていなかった」と思える材料になり得るからではないのだろうか。
親は、子どもから無償の愛を受け取っている
今目の前でふにゃ〜と笑っている彼を見ていると、ただ目の前の私を愛してくれているような気がしてくる。そこに「愛してもらわなければ生きられない」という本能が備わっていたとしても、無償の愛を子どもから受け取っているとしか思えない笑顔を向けてくれる。
「ままぁ〜ままぁ〜」と泣きながら呼ぶ子どもをみていると、愛おしさが込み上げてくる。
私にできることは、その彼の愛に応えることなのかもしれない。
人は、愛されるために生まれてきたのかと思っていたけど、愛するために生まれてきたのかもしれない。
雨の日の、静かな山の中から。ナカジマノゾミでした。
【30歳の成人式】あなたの夢はなんですか?
週末、知立市の30歳の成人式に行ってきました。
予想通り、遠くに行ってしまっている人や、忙しい人も多いようで人数はかなり少なめでした。
昔の懐かしい映像や写真、学校の様子などのVTRが流れて、中学卒業からもう15年も経っているという事実を目の当たりにしました。
ケーブルテレビが来ていて「あなたの夢はなんですか?」と聞かれて、全然答えられない自分がいました。
「ゆ、夢ですか…?」と、拍子抜けしてまいました。
30歳の夢
答えられなかった自分が、ちょっと悔しいような気がしました。30歳、となるとそろそろ現実の世界に足をツッコんでいる。結婚して、出産して、子育てして…ここから夢を持つっていう発想が知らない間に消滅していたようでした。
今は、考えるとしたら夢というよりは「何が出来るか」という発想になっていました。今ある現状を守りながら、誰も傷つけうに誰も失わずに、幸せを壊さずに何が出来るか。これは夢とはちょっと違うくて、条件が多くてなかなか決められない。迷うし、自分の中のセーブもかかる。
ちょっと前に夢について自分で書いたブログがあったことを思い出して、見てみました。
2016年6月27日のブログ「ところで、のんちゃんの夢は何?」
2年前の私…めっちゃ穏やかなこと言ってる…笑
読んでいたら、確かにこの時、毎日そうやって生きていたなあという事を思い出しました。じゃあ、今は…?今は、この毎日が続いていく事が夢かと言われたら、ちょっと違うような気がします。
目に見えない、言葉で表せないものを求めていた自分。今は?今は何を求めているんだろう…。
今も、穏やかな毎日であることには、変わりない
でも、あの頃の穏やかさと、今の穏やかさはちょっと違う。
あの時は、周りの流れや環境や状況がうねりをあげながら変化していくのを、私も一緒に流れるようにして水平を保っていた。川にプカプカ浮くボールのような感じ。風が吹いたら、風が吹いた方向に流れてみたり、水かさが増したらその分少し浮いてみたり。
今は、周りが流れて変化しているのを眺めている感じ。流れる川やプカプカ浮かぶボールを、川岸で眺めている感じ。なんなら、その川岸には屋根があって、飲み物があって、椅子もある。
みんななが川で流れているのを、穏やかな所から眺めている。そんな感じ。
ちなみに、この川で流れているという状況。遊んでいると捉えることも出来るし、辛い修行のように思う人もいる。逆行して川上に泳ごうとする人もいれば、すぐ下はダムなのに余裕な人もいる。川が気持ちいいと思ってる人もいれば、水は怖いと思ってる人もいる。
私の夢は、なんだろう?
30歳だって、夢を持っていい。
ハッとしたその言葉を、再び忘れないように。宝物を見失わないように。
30歳になるまで、あと10ヶ月。その時はもう一度この質問を自分に問いかけてみよう。
この事を改めて認識したことは、30歳の成人式での大きな収穫。行ってよかったなあ。ナカジマノゾミでした。
たまごボーロのつくりかた
たまごボーロって、知ってますか。
あの、ふわっと口の中で溶けちゃうあれです。赤ちゃんのおやつのあれです。優しい甘さの、あれです。
今日、つむつむくんにたまごボーロをあげながら、ふと(これって自分で作れるんじゃない?)ということで、思い立った15分後には完成していました。自家製たまごボーロ。
たまごと片栗粉と砂糖を混ぜて焼いただけ。超簡単。(素朴でなかなかいい味で自分で食べちゃったパターン)
ここ1年くらい、自分でいろいろ作るをいう発想をするようになりました。きっかけは、妊娠中に読んだ「食品の裏側―みんな大好きな食品添加物 」という本。
う、うわあ…まじか。と、知らなかったものを知ってしまった時のショックはかなり大きく、それ以来、食品表示のラベルを見てしまうようになりました。(見ても表示していないものもかなりあるみたいだけど…)
そして、極めつけは。
ある日、つむつむ君のおしっこからインスタントラーメンの臭いがしたこと。
授乳中だったのに、どうしてもご飯を作るのが面倒くさくて、インスタントラーメンを食べたんです。その日のオムツを替える時に「なんかラーメンの臭いがする…」とすぐに気付きました。
食べたことに後悔はしていないけど、なるべく気を付けなきゃいけないなあと改めて思いました。
便利と引き換えに。食品添加物。
だからと言って、食品添加物が悪者かと言われたらそういうわけではないような気もします。
食品メーカーだって、企業努力で安くて美味しいものを作ろうとした結果、人工的なもので作らざる負えなくなってしまったのだと思うから。
安いもの!美味しいもの!便利なもの!長期保存できるもの!と、求めていった結果、現在の日本の食品に行き着いてしまったわけで、そもそもは自分たち消費者のせいでもあるわけで。
自分の体に入れるものは、自分で選ぶことが大切ですね。
自分だけの食事の時は、全然関心がなかった食品のこと。「天然ものしかNG!人工ものNG!」すぎる人には、ちょっとひいていた部分もありました。
でも、大切な人たちにずっと元気でいてほしいという気持ちが芽生えてからは、すこし関心を持つようになりました。
洗剤や、洗濯石鹸、シャンプーやボディソープ。なるべく余分なものが入っていないものを、シンプルなものを…と、自然に考えてしまうようになりました。
シンプルで、ナチュラルなものを選ぶ。決して誰かに押し付けるわけではなく、別のなにかを否定する訳ではなく、私は私の基準で選ぶ。
相反する基準をもったそれぞれの人が、それぞれ生きやすい雰囲気になると良いなあと思います。
そうそう、たまごボーロ。手作りのやつをつむつむ君に食べさせたらめっちゃ吐き出しました。笑
大きさが大きかったみたいです。さすが、売ってるものはよく研究していらっしゃる。半分くらいで良かったかなあ…今度はちっちゃく作るね。ナカジマノゾミでした。
いつものコーヒー【特別じゃない、美味しさ】
ひさしぶりに、移動カフェのときに使っていた豆を仕入れました
なぜかというと、5月30日に、エスプレッソを淹れさせれもらうことになったからです。
というブログでも紹介しましたが、このイベントでエスプレッソ係をしてきます。久しぶりに、お客さんにコーヒーを提供するということで、わくわくとドキドキしています。
イベント自体は、ピザがメインです。なので、それに合わせて、希望の方にはコーヒーを提供します。(コーヒーのみの販売は行いません)
どの豆を使おうかなあと思いましたが、やっぱりここは懐かしい【いつものコーヒー】を使うことにしました。
cafebusnonのいつものコーヒー
cafebusnonのいつものコーヒーは、決して特別な豆を使うわけではありません。スペシャルな日に飲むコーヒーではありません。最高級で洗練された豆を使うわけではありません。カップオブエクセレンスを受賞したような豆ではありません。
それは、いつもの日常になじむようなコーヒーです。
日々の生活の中に、いつものように存在するコーヒーでありたい。特別に来てもらう場所ではなく、あなたのいつもの生活の一部でありたい。そう願うことから、選んだ豆です。
キレイすぎるコーヒーではなく、どこかジャンクさも感じるような豆。ミルクと合わせても負けないパンチのある豆。こういう豆は、特に丁寧に淹れなければいけません。
淹れ方が良くないと、しぶみやエグミがでてしまいます。でも、美味しく淹れられれば、いつものコーヒーとして日常のベースにぴったりのコーヒーになることが出来ます。
特別に遠くから来てもらうお店ではない。でも、日々の雑踏を遮るちょっとお気に入りの場所。日常のコーヒースタンドって、そういうことではないのかなあと。そんなお店があってもいいのではないかなあという思いで営業していました。
メンテナンスと調整
久々に人に提供するコーヒーなので、グラインダーもしっかりと掃除しました。ミルやグラインダーは、分解して掃除しないとコーヒーにエグミが出たり変な酸味が出てしまいます。これは豆をひく時の刃に前に挽いた粉が混じっていたり、切れ味が悪くなった刃で、豆と豆がこすれて微粉が出てしまうため。
刃を定期的に替えないといけないのはその為です。
また、私の使用しているチンバリジュニアは大型のエスプレッソマシンと比べると細かすぎる豆の調整だと、圧力が足りずにコーヒーの抽出がベストではなくなるため、ちょっとだけ荒目にしてしっかりと豆を詰めてエスプレッソを抽出しています。
最近は、自分と旦那さん用のエスプレッソは少なめの豆を細かくひいてラテにしていたので(つまり、豆をケチっていた。笑)そのあたりもいじりました。あとは当日の湿度次第で微調整です。
いつものコーヒー、また淹れられることが楽しみです。5月30日は、ピッツアパーティーに来てくれた人の中で、コーヒーは飲みたい人だけ別でお代を頂くというスタイルなので、おそらくバタバタになるということもなく、ゆるりとやれるのではないかと思っています。
つむつむ君も一緒に隣で座っていてもらう予定ですが、騒ぎ出したらおんぶしている可能性もあります。まさに、お母ちゃんスタイルバリスタ。笑
あとは、来てくれた人に失礼のないように、腕を慣らしておかなければ。1年経つと、動作のスムーズさに不備がないかドキドキします。30日まで、家でたくさんエスプレッソ淹れて慣らしておきます。
いつものコーヒーを、いつものように。ナカジマノゾミでした。
【子どもを抱きしめたくなる映画】世界から猫が消えたなら
ここの所の私は、やさぐれていた。
頭をぎゅーっと掴まれるような頭痛。この正体に薄々気付いているのに「そんなはずは、ない」と、自分で蓋をしていた。
本当は、自分の身体は自分が一番良くわかっている。
私の頭は、ストレスが溜まるとぎゅーっと痛くなる。痛いというよりは、抑えられている感じ。脳が縮んでいる感じ。そういう時に発する言葉は、角があって、丸くない。ダメだと思いながらも、抜け出せない。切り替えなきゃと思いながらも、切り替えられない。そんな日が1週間位続いていた。
つむつむ君への態度も、少し強かったかもしれない。久しぶりに訪れたイライラという感覚に、自分でも戸惑っていた。
そして(自分はイライラしない)と過信していたことも、余計に自分自身を苛立たせていた。
(数時間でいいから、ひとりになりたい)と、思わずポロッと出てしまった。
「世界から猫が消えたなら」
そんな時に、思い出したように、おすすめしてもらっていた映画をみた。「世界から猫が消えたなら」
余命宣告を受けた主人公の、命と引き換えにこの世から一つづつものが消えていくという話。自分が1日生き延びるためには、1つのものがこの世から消えてしまう。電話、映画、時計、猫。消えたものにまつわる記憶も消えていく。
そして主人公は「この世には、かけがえのないモノばかりだった」と気付く。
誰かにとってはどうでもいいものでも、別の誰かにとってはかけがえのないもの。
誰かにとってはどうでもいい人でも、別の誰かにとってはかけがえのない人。
世界から僕が消えたなら、一体誰が悲しんでくれるのだろう。
この世界から僕が消えても、世界はなんにも変わらない。何も変わらない明日が来る。
そう思っていた主人公だけど、そうでもないんじゃないかという事に気付く。
お母さんから主人公への手紙でこんなフレーズがあった。
「あなたが生まれてきてくれたことで、私の世界はこんなにも鮮やかになった。」その言葉で、ハッとした。今の私には、刺さりすぎるくらい刺さる言葉だった。
大切なことを思い出させてくれた映画
そうだ。そうだったじゃないか。この世界に君が生まれてくてくれたことで、私の人生は鮮やかになった。絶対に忘れてはいけないこと。絶対に忘れない、と思っていたこと。一緒に居すぎて当たり前のように感じてしまっていたこと。
この先も何度も忘れそうになってしまうかもしれない。でも、その度に何度も思い出したらいい。
生まれてくてくれて、ありがとう。この世界に存在してくれて、ありがとう。君がいるこの世界と、君がいない世界は、全然違う。
そして、あなたがいるこの世界と、あなたがいない世界は、きっと全然違う。
今、このタイミングでこの映画を見れて本当に良かったと思う。どうもありがとう。ナカジマノゾミでした。
お肌のハリと、時計のハリ
「ほっぺに、寝跡ついてるよ」
昼前に出掛けるときのこと。隣りに座った旦那さんに衝撃的なことを言われました。
たしかにね、起きたら寝跡がついていて、メイク中も気になっていたんですよね。まあ、でもすぐ消えるでしょーと放置。そのまま忘れていたら、この一言。
でも、さすがにもう昼前。起きてから何時間経ってんねん。どんなけ弾力ないの。
あらためて、自分の年齢を認識する一言でした。
自分が高校生の時って「29歳って、いろんなこと知ってて、もう立派なオトナで、立派なレディだ」と思っていました。でも、1日1日の積み重ねで年を重ねていくと、なんていうか…18歳の時とたいして変わっていないような気になっちゃいます。
(ちなみに、お父さんも50を過ぎてもそんなもんだと言っていたので、そんなものなのかもしれないですね。そうなると、おじいちゃんやおばあちゃんもそうなのかなあ。一生そうなのかなあ。)
自分ではなんにも変わっていないような気がしているけど、たしかに時計の針は進んでいて、確実に時は流れているんだなあと再確認しました。
知立市の30歳の成人式
今週末、知立市で30歳の成人式が行われます。知立市民だった63年・64年・元年生まれの人が集合するようです。おそらく仕事や育児、転勤で来れない人もたくさんいると思うけど、せっかく行けるタイミングだから行ってこようと思います。
成人式から、10年。
この10年で、みんなどう変わっているのかなあ。私も、人から見たら変わっているのかなあ。わくわくとドキドキです。
人生は、今日一日の積み重ね
人生とは「今日という日」の連続。昨日も、未来も存在しない。存在するのは「現在」のみである。
そう思うと、今日一日をどう生きるかが、人生を作っていることが腑に落ちます。今は「今日」を集中できない日がけっこうあって、それがもどかしいような気もしています。
毎朝「今日一日を意識」せずに、ぼんやりと過ぎていってしまうことに焦燥感があると言えばいいのかな。
なんとなく起きて、なんとなく家事して、なんとなく子どもと遊んで、なんとなく寝る。
本当に幸せなこと。健康なこともそうだし、旦那さんがいてくれてこそだし、世の中が平和で在るからこそ。今、生きてきて体力的には最も余裕があるような気がします。無理しなくても生きていける生活。
でも、どこかで達成感を求めているような自分もいて。うむ。。
「何かしたい」っていうのは、そういう所から出てくるんだろうなあ。人間ってよくばりですね。いや、私ってよくばりですね。笑
今日は、いつもよりちょっとだけ「今日」を意識してみようと思います。ナカジマノゾミでした。
子どもを「お客さま扱い」しない
行ってきました、森道市場2018。
昨日はとっても楽しい1日になりました。食べたり、歩いたり、食べたり、食べたり、食べたり。
美味しいコーヒーやスイーツ、フェス飯も。やっぱりお外で食べるご飯は美味しいし、楽しいですね。
東京のコーヒースタンドで行ってみたかったお店「Little Nap COFFEESTAND」も来ていたし、YAJIMA COFFEEさんもあったので、コーヒー豆をいくつか買ってきました。しばらく余韻に浸れそうです。
今年は、つむつむ君も初参加。いつも山の中の無音(鳥と風の声のみ)で生活でしている彼にとって、DJブースの爆音は衝撃的な体験だったはず。つむつむ君、おつかれさま!
最近の親は、子どもをお客さま扱いしすぎている
この前、こんな記事を見ました。
”最近の親は、子どもをお客さま扱いしすぎているのではないか””毎週末、子どもが喜ぶ場所に出掛ける””ご飯は子どもの食べられるものが基準””家事をする間は「ちょっと待っててね」と言って、ゲームやテレビを見せておく”
と言った内容でした。それを見て、なるほどなあ~、と。
確かに「子どもの為を思って、すべて子どもに合わせて生活する」というのは、素晴らしいことに思えます。
でも、子どもはお客さまじゃない。家族として一緒に生活を担っている一員。
だからこそ、子どもには子どもの役割を与えてあげてもいい。お手伝いしてくれるより、1人で作った方が何倍も早かったとしても、家族としての役割を与えてあげたほうがいいのかもしれない。
「今日は、子どもの行きたいところへ」「じゃあ、来週はママの行きたいところだよ」「じゃあその次は、パパの行きたいところね」「じゃあ、みんなで楽しめることして遊ぼうか」
そんな感じが理想だなあと思いました。
子どもはお客さまじゃない。共に生きていく、大切な家族の一員だ。
どうやら私は「子どものために尽くす」というな親にはなれそうにありません。「私を犠牲にして」なんて、全然するつもりありません。
私の人生は、私が主役。そして、つむつむ君の人生はつむつむ君が主役。旦那さんの人生は、旦那さんが主役。ごっちゃにしたら、おかしくなる。
それぞれ自分の人生をまっとうした上で、重なりの部分を一緒に楽しめたら1番いいなあと思います。
昨日はつむつむ君も旦那さんも付き合ってくれてありがとう。今日もいっぱい楽しもうね。ナカジマノゾミでした。