無償の愛を感じる時
ただ、幸せだなあ、と思う瞬間がある
目が合って、ふにゃ〜とやわらかく微笑むのを見ると、無償の愛は親から子どもへ与えられるものじゃなくて、むしろ親が子どもから受け取っているものではないかと思う。
柔らかい笑顔をみると、心がゆるむ。すべてを許してくれるような、ふにゃ〜とっした顔。
無償の愛について考えることがある。見返りを求めない愛。無償の愛は存在するのだろうか。
誰かのためには、自分のため
ある時「誰かのために」という言葉は、よくよく探っていくと存在しないことに気が付いた。誰かのために何かをしたいと願っていても、それはどこかで「自分のため」なのである。
「誰かのために、何かをしている私」という見返りを求めている。自分より他人を尊重する私。自分より家族を思う私。人に優しくしている私。
それが、悪いことという意味ではない。
自分のためにしている行動が、誰かのためにもなっているのであれば、誰にとってもいい。ボランティアや優しさ、誰にも迷惑にならずに世の中をちょっと温かく出来ることであれば、それは望ましいことである。
「子どものため」は本当に子どものためなのだろうか
「子どものために」という言葉は、たしかに子供の為を思う親の気持ちなのだろう。でも、それって本当に子どものためだけなのかな。
どこかで自分のためでもあるんじゃないのかな。それでいいし、それしか出来ないのが人間なのだと思う。でも、それを自覚しないと苦しくなってくるのではないだろうか。
親が子に与えられるのは、無償の愛だと思っていたけど、そうではないのかもしれない。親は子どもに何かを期待してしまう生き物だ。「子どもが自分らしく生きて欲しい」という願いすら、そうやって生きてくれたら「私の子育ては間違っていなかった」と思える材料になり得るからではないのだろうか。
親は、子どもから無償の愛を受け取っている
今目の前でふにゃ〜と笑っている彼を見ていると、ただ目の前の私を愛してくれているような気がしてくる。そこに「愛してもらわなければ生きられない」という本能が備わっていたとしても、無償の愛を子どもから受け取っているとしか思えない笑顔を向けてくれる。
「ままぁ〜ままぁ〜」と泣きながら呼ぶ子どもをみていると、愛おしさが込み上げてくる。
私にできることは、その彼の愛に応えることなのかもしれない。
人は、愛されるために生まれてきたのかと思っていたけど、愛するために生まれてきたのかもしれない。
雨の日の、静かな山の中から。ナカジマノゾミでした。
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