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【優しい気持ちになる映画】しあわせのパン

 

ここ最近、私の中でパン屋さんという存在が気になっている

 

パンが気になる、というよりは【パン屋さんという存在】が気になるのである。それも、大きなお店ではなく、山の中にあるような、こじんまりとした、夫婦だけで営んでいるような、パン屋さん。なんでこんなところで?と言いたくなってしまうようなパン屋さん。

パン屋さんは、自然体の人が多いような気がする。季節や環境で変わってしまうものを生業にするのは、なかなか根気のいること。発酵や生地の状態を見て、自分や生活をそれに合わせるというのは、本当に好きでないと難しいような気がする。

だから、なのかはわからないけど、パン屋さんはなんだかちょっと私の中では特別な存在。優しいようなあったかいような、よくわからないけれど好きな感じだ。
 

気になっていた映画【しあわせのパン】

 
そんな背景もあって、気になっていた映画を見てみた。この映画を見た感想を一言で言えば、原田知世さんがめっちゃ可愛い。(え?)

北海道の田舎、ほとんど人も通らないような場所で夫婦でやっているカフェマーニ。大泉洋さんと原田知世さんの夫妻。この夫婦の不思議なところは旦那さんを呼ぶときに「ミズシマくん」と苗字で呼ぶところ。ちょっと訳ありなのである。

そんなマーニには個性豊かな日々の常連さんがいて、時々やってくる訳ありのお客さんがいる。

泣けるような映画ではないと思っていたのに、結構泣いてしまった。特に「離婚してしまった父とその娘」の場面。お母さんのかぼちゃのポタージュが食べたい…そう言った女の子の切ない気持ちと、それでも親子で力を合わせて頑張っていこうという気持ちが伝わってくる表情。

見終わった後に「観てよかったなあ」とほのぼのするような気持ちになる映画だった。

ストーリーもほのぼのしていたけれど、その合間に映し出される焼きたてのパンやコーヒー、スーブなどの映像や音が観ている人にとって心地よさを演出してくれているような気がする。
 

というわけで、パンを作りたくなったので早速

 
観終わったら、なんだかパンが作りたくなったので作ってみた。

そもそも、パン作りは大の苦手である。おいしくできた試しがない。でも「今なら出来そうな気がする!」という謎の自信が沸き起こってきたので、やってみた。

結果は、惨敗。

二次発酵を待つ間に、つむつむ君を寝かしつけていたらそのまま寝落ち。4時に起きた時には発酵しすぎてえらいことになっていた。

どう考えてもおいしく焼けそうになかったので、ピザに変更してごまかすことに。ピザとしては、それなりにおいしく出来たので、良しとしよう。

大体いつもこんな感じ。パンを作る人が丁寧な気がするのは、時間や温度や季節をいつも意識しているからなのかもしれない。急がない、焦らない、でも、いい時を見逃さない。様子を見る、育つのを待つ。じっくり、じっくり。

いつになったら、美味しいパンが焼けるのかはわからないけど、懲りずに作ってみようと思います。

【しあわせのパン】は、優しい気持ちになりたい時にオススメです。

 

親切心の過剰包装による無駄遣い

 

長久手のIKEAに行ってきました

 
 
 そろそろIKEA渋滞もおさまっているであろう、ということで初めて長久手のIKEAに行ってきました。

横浜に住んでいた時には、頻繁に行っていたIKEA。久しぶりに行くと、少し商品のラインナップが変わっていて楽しかったです。ここに来たら、なぜか食べちゃうソフトクリームも、やっぱり食べてしまいました。(ソフトクリーム係りのお姉さん、ものすごい勢いでソフトクリーム作ってたなあ。腱鞘炎にならないか心配)
 

1個30円のバターを前に思うこと

 
なんかお腹すいたね〜ってことで、IKEAレストランで食事をすることに。ジャンクな食事も、たまになら…と、フィッシュアンドチップスと、プレッツェルとスープを食べることに。パンのコーナーの横を見ると【バター、ジャム、30円】の表示。一応プレッツェルにバターが欲しくなるかもしれない、ということでバターをひとつ購入しました。

(プレッツェル、好きなんですよね。あの硬くてもそもそした感じ。ふんわりしない感じ。独特の表面の風味。あると買っちゃうパンです。)

で、食べていくと、IKEAのプレッツェルには真ん中にバターが入っていたんですよね。「わ!バターいらなかったねー!」と言って、バターは持ち帰ることにしました。

これが無料のバターだったら、絶対、捨てていたような気がします。価値を決めるのは、そのもの自体ではなく、自分のとった行動とそれに至った経緯なのかもしれないと感じました。
 

無料が価値を殺している場合がある

 
「無料」というのは、親切でもあり、日本人が得意としているサービスでもあるような気がします。もはや、親切の過剰包装。

スーパーで薄いビニール袋に二重に入れてくれたり、通販をすれば異常なまでの梱包がされている。飲食店では水が無料なのは当たり前。

かくいう私も、移動販売の時にはコーヒーにロータスというクッキーを付けて渡していました。常連さんの4割くらいは「クッキーいらない派」の人もいて、暗黙の了解で渡さないようにしていましたが、今思えば実際にはもっと多くの人が「クッキーいらないのにな」と思っていたような気がします。

仲良くなれば「私はいらないよ」と言えることも、初めてだったりすると(親切で付けてくれたのに、断ったら申し訳ないかな?)という「互いの優しさによる無駄」が発生していたかもしれません。今思えば、ちょっと反省しています。

そもそもこのクッキーを付けるのは「お客さんに喜んでもらうため」であってクッキーを渡すこと自体が目的ではありません。「相手が喜んでくれること」をしたいだけ。相手が嬉しくない場合の過剰なサービスは誰も幸せにしないのです。お客さんが「いらないのにな、もったいないな」という罪悪感を抱いてしまうのであれば、逆に迷惑にもなりうるものでした。

実際には、喜んでくれる人もいたと思います。でも、そうでもない人もいたはずです。

「無料」というのは、価値を殺してしまうこともある。もし、あの時の自分にアドバイスするのであれば【欲しい人は、欲しい、いらない人には、いらないという意思表示をしてもらうために、価格をつけるべき】だと教えてあげたいです。(その場合は、ロータスでない方が好ましいかもしれない)
 

「互いの優しさによる無駄」をなくすために

 
この「互いの優しさによる無駄」というのは、モノだけでなくて労働にも大きく影響しているような気がします。以前読んだ記事では「日本人の労働時間が伸びてしまうのは、過剰に親切にしすぎているからでは」という内容でした。

頼んだ側が【①ー10】までお願いしたことをついつい【①ー12】までやってあげたくなってしまうのが日本人。その➕2に対して、頼んだ側が喜んでくれた場合は価値がある。でも「ここまでしてくれなくてもいいのに(または【②ー2】までやってくれれば良かったのに)」と思っている場合、その➕2は無駄な作業になる。

引き受けた側は「ここまでしてあげた」と思っていても、頼んだ側はありがたみもなければむしろ別のところにその力を使ってくれ、と優しさによる無駄が発生してしまう。

これを避けるには、互いに明確な意志を伝えていかなければいけない。

上司と部下、お店とお客、夫と妻、親と子、自分の本心を伝えていくことで、親切心による資源の無駄遣いは抑えられるような気がする。

一つのバターから、そんなことを学んだ日曜日でした。6月も最終週。今週も楽しい一週間になりますように。ナカジマノゾミでした。

2018年06月25日 | Posted in ブログ, 子連れさんぽ, 暮らしと子育てNo Comments » 

 

何もない1日に、はなまるを

6月21日、無事に過ぎましたねー♪生きてるー!ヤッホー!

詳しくは、一昨日のブログ、明日死ぬとしたら、何しよっか?にて

21日は、朝からドキドキしながら過ごしました。

旦那さんには「その予言師だいぶ胡散臭いけど、本当?」とか言われながらも「私は今日1日が、最期の日かもしれないと思って過ごすから!」と宣言して。笑
 

本気で最期の日かもしれないと思って過ごした結果

 
地震が起こらなかったことに対して、この予言者のことをネット上では「エセ予言者!」「ガセ予言者!」と言っている人もいるけど、そういう問題ではないような気がします。見方を変えれば、すごくありがたいことをしてくれた人なのではないでしょうか。

一昨日は、夜寝る前に「今日が無事に終わること、今日も平和に生きれたこと、明日もつむつむを抱きしめることが出来ること、明日、いつものようにおかえりが言えること」に本当にありがたい気持ちになりました。

いつもだったら「今日1日が平和だったこと」に、これがけ意識がいきません。

でも「今日、死ぬかもしれない」と思ったでけで、いつも当たり前だと思っていたことがいかにありがたいことかということに気付かされました。

 

明日もつむつむ君をぎゅっと抱き締めることが出来るということがこんなにも幸せなことだとは…。

そして、先延ばしにしていいた防災グッツも揃えるきっかけになり、災害時の優先順位や避難方法も見直すきっかけになりました。

私個人で言えば、この予言者さんにお礼を言いたいです。
 

ものの見方次第

 
自然災害がある国、というのは暮らしている人にとっては「良い」ことばかりではありません。命を落とす可能性が身近にある、ということは怖いこと。

でも、人間には自然災害を完全に防げるだけの力はありません。

なるべく被害を抑えるために、たくさんの企業が努力してくれているし、個人の意識を高めることは出来ます。でも、排除することはできない。

それならば、対処する知恵をつける、そしてそこから得られるものを大切にするしかない。

日本という国に生まれた以上、日本で生まれたからこそ得られるものにフォーカスを当てていくべきなのかもしれないですね。

この先も、引き続き「今日死ぬかもしれない」という思考で暮らしてみたいと思います。あまりにも疲れちゃうようなら、休憩しながら。

思考や行動に、どういう変化が訪れるか楽しみです。ナカジマノゾミでした。

 

明日死ぬとしたら、何しよっか?

 

 ビビらすためでなく意識を強めるための予言

 
 


 
先日の地震にビビる記事を見て、【2018年、6月21日に東海地方にどデカイ地震がくるっていう予言があるよ】と、教えてもらいました。

えぇ。6月21日って。今日じゃないですか。

決して決してビビってるわけじゃないですけど、その情報を教えてもらって即、非常用のお水とレトルト食品、レトルト離乳食、オムツ等、買い足しました。(ビビってるわけじゃないですけど、、)

これまでも散々「用意しておかなきゃね〜」と言いながら、後回しにしていた非常食。こうして具体的な日にちがあるだけで、一気に買う気になります。「一応、備えとこう」と言う気持ちになります。

混乱するからデタラメな情報を流してはいけない、とは言うけれど。冷静にビビって、冷静に備えるきっかけになるのであれば、それも有難いのではないかと思います。

冷静にビビりながら、玄関に持ち出し袋をまとめました。(結局、だいぶビビってる)
 

明日死ぬとしたら、何する?

 
そんなことを思っていたら、以前お勧めしてもらって読んだひすいこたろうさんの「あした死ぬかもよ?」と言う本を思い出しました。

 

もし、明日死ぬとしたら、何する?今の私なら、どうするだろう?ちょっと考えてみました。

何かを買ったとしても、手に入れたものは天国には持っていけないし。

何かを壊したりしても、それから得られるものはない。

今の私が、明日死ぬとしたら。たぶん一秒でも長く息子を抱きしめていると思う。彼のために、というよりは、自分のために。そして、彼に与えられるものはすべて与えたい。愛情も、知識も。その先で役に立つ可能性が少しでもあるものは、すべて。息子だけではなく、周りの人にも。

最後にしたいことは、得ることではなく与えることなのかもしれない。

だって、死んだ後に残るものは、与えたものだけなのだ。私が生きた証は、与えることでしか存在できない。死んでしまったら、得たものは残らない。知識も経験も。でも、死ぬ前に誰かにそれを与えることができたら、その後もそれらは生きて行くことになるのだろう。

だとしたら、もし明日、死ななかったとしても、そうするべきなのかもしれない。
 

明日死ぬとしても、今日と同じ1日を過ごしますか?

 
これは、スティーブジョブスの有名な言葉です。もし明日死ぬとして、今日と同じ日を過ごしたくないと思うのであれば、死ぬ直前であってもしたいと思える事を何故してないのか、という本質をついた言葉。

今日死ぬかもしれない、明日死ぬかもしれない。命に限りがあるということを忘れていないか?今日と同じ日が永遠にくると思っていないか?と、考えさせられる言葉です。

災害や、事件、事故や病気。それらは本当に起こってほしくない出来事ではあるけれど、自分の命や限りある時間、大切なものを見直す機会にしていかなくてはと今回特に思っています。

 

今日は、最期の一日だと仮定して過ごしてみようと思います。予言が外れるようにと願いながら。ナカジマノゾミでした。

 

【地震】大切なものを守るために

関西、大阪の方、大丈夫でしょうか。
 

昨日は、ニュースからもSNSからも、大阪の地震の安否確認の声が沢山聞こえました。

 

しばらくは大きな揺れが起こるかもということなので、お気を付けください。そして、大阪以外でもいつでも地震の可能性はあるので気をつけなくてはと思います。

昨日の朝8時頃は、自宅でつむつむくんと二人でまだベッドの中でした。旦那さんは仕事で空けていたので、二人きり。

余震が長かったものの「いつもの地震かな…」と、つむつむの頭をかばいながら、すやすや眠る彼の顔をみながら、おさまるのをじっと待っていました。

ちょうど2,3日前の夜に震度3の揺れがあり、その時にすこし怖くなって「地震の時に赤ちゃんを守るにはどうしたらいいか」ということをインターネットで調べていたばっかりだったので、ますますドキドキしました。
 

地震の時に、とにかく赤ちゃんを守るために必要なもの

 
こういう時のインターネットの情報は本当に役に立ちますね。ちょうど目に止まったのが阪神淡路大震災のときに赤ちゃんと一緒に避難した人のブログでした。

そこには、とにかく赤ちゃんを自分から離さないようにするために、抱っこ紐が何よりも必要と書いてありました。

赤ちゃんの頭を守ること、そして、両手をあけれるようにしておくこと。おむつやミルクも大切だけど、それは避難してからの話で、とにかく一番先に命を守るためには抱っこ紐を近くに置いておこう、心に留めたばかりでした。

そして、自分を守ることも本当に大切なこと。

私しか、大切なものを守ることが出来ないとしたら、私は絶対に死んではいけない訳です。私の大切なものを守るために、私は私を守らなければいけない。

旦那さんは、非常時には人を助けに行くための大切な任務があります。なので、子どもは私が守る。私がしっかりしないといけない。
 

大阪の地震で亡くなった命

 
大阪の地震で、登校中の女の子が壁の下敷きになって亡くなってしまったというニュースが流れていました。

今は、自分も親になり、親の気持ちで捉えてしまうので、、、本当に心苦しいです。さっき「行ってきます」と言った我が子に何かあったら、、、そう考えると、言葉を失います。

ほかにも亡くなった方が何名かいらっしゃいました。ご冥福をお祈りします。

怪我をされた方、避難所にいる方、、最小限の被害で抑えられますように。

緊急避難先を決めたり、非常袋としてリュックを用意しておいたり、日頃からシュミレーションしておかなくてはということを改めて感じた一日でした。

みなさんの大切な人や、大切な人の家族が無事でありますように。

2018年06月19日 | Posted in ブログNo Comments » 

 

自由とは、ルールがないことではない

 

ついに、ベビーサークルを買ってしまいました

 

 

ベビーサークルとは、赤ちゃんの安全を確保するオリのようなもの。出来れば買いたくないな~と思っていましたが、土間も階段も薪ストーブも隔たりなくリビングに面しているため、すべてを行けないようにするのであれば、広めに彼を囲ったほうが早いのでは?という話になり。

大きめサイズのべビーサークルを置くことにしました。

つむつむくん、このベビーサークルのおかげでつかまり立ちをするように。「出してくれ〜うほうほ!」っと言っているようです。一緒に中であそぶ分には楽しそうなのですが、家事をするために離れると、とたんに柵の端によってきて出して出して〜と呼んできます。うーむ、心苦しい。
 

枠を決められてしまって、不自由を感じている人はどれほどいるのだろう

 
自由っていうと、枠がない(ルールがない)ということを思い浮かべるかもしれませんが、私が自営業してみて思ったのは、自由こそルールがしっかりあるということです。

自由って、ルールがないことではなく、ルールを自分で決めれるということ。そして、自分でルールを決めれる代わりに、すべての責任を自分で取るということ。

今考えれば、未成年のときに親が決めたルールを守るのは当然のことだったような気がします。自分で責任をとれる立場ではなかったのだから。(こうやって、昔言われたことを理解していくのが人生なのかもしれないですね)
 

移動販売って、自由なの?

 
移動販売というと「自由でいいね〜!今日はここへ行って、明日はあっちへ行って、って自由に決めれるんでしょ?」とよく言われたのですが。(そんな訳あるかい!)と心の中でいつもツッコんでいました。

確かに店舗よりは自由度は高い。でも、今日はあっちへ行こう!明日はこっちへ行こう!なんていうノリではないですよ。当たり前だけれど。

自分の中でルールを決めて、何ヶ月も前から予定組んで公表して宣伝して。出店させてくださいって頭下げてアポ取って、場所代etcのお金払って、時には値上げ要求にも応じて(笑)

依頼された仕事なんかは、責任ももちろんある。「今日は体調が悪いので休みます、ごめんなさい」なんていうのは絶対NGなわけで、当日キャンセルなんてありえない。先方が広告をうっている場合には多大な迷惑をかけることになる。這ってでも行けよ、と。(そこまで求められていないかもしれませんが。)

だから、そうならないように徹底的に体調管理することが大切だったりする。

規制も枠もルールもなんにも無い!フリーダム!ふぉー!っていうのは、意外と楽しくないのだと思います。
 

ルールのないスポーツは楽しくない

 
例えば、野球しようと思ってみんなで集まっても、ルールが何にもなかったら何をやっていいのか分からないですよね。バットとボールという道具だけでは試合にならない。そこにルールがあるから面白くなる。ルールの中で何が出来るのか、どうやって攻略するのか、どうやって勝つのか。そんなことを考えるのが楽しいのではないかな、と。

もし今、自由がない!と思っている人がいたら、誰かが責任を取ってくれるという守られた状況であるということに感謝すること。そして、その限られたルールの中でいかに楽しくやるかということ。

そんな事に気づいてほしいなあと思います。

つむつむ君、きっとそのうち柵を攻略して出てくるんだろうなあ。その攻略が楽しくて何度もやるんだろうなあ、と予想しています。いつになるかな〜楽しみです。ナカジマノゾミでした。

 

「育てる」のではなく「育つ」を見守る

 

今日で、つむつむ君8か月になりました

 

まだ上手くは前に進めないけれど、お尻を上げて立ち上がろうとしてみたり、おすわりがしっかりと出来るようになりました。

 

あとは、離乳食の好みがわかってきたことと、お昼寝の時間がだいぶ短くなってきました。朝の1時間と午後の1時間。あとはずーっと起きて「あうあう」ゆったり、ブーっと唇で音を出して遊んでます。いや〜元気元気。元気で何より。
 

育てるのではなく、育っている

 
生まれる前は「子どもは育てるもの」と思っていたんですが、ここにきて、そうでもないのかもしれないと思い始めました。

そのきっかけになったのは、「子どもの脳科学」や赤ちゃん学の本を読んだことがきっかけでもあります。

その本には「早期教育などで子どもに無理に教育するよりも、子どもの育つ能力を信じてみませんか」というような内容でした。

育てなきゃ、育てなきゃ、と思っていたのに、全然育てれてないのでは?と思っていた私にとってはホッとするような内容でした。

なんせ、この8か月、育てているという感覚がほとんどないんです。
 

「子育て」って育てる側が主導だと思っていた

 
「子育て」というと、なんだか育てる側が主導であるようなイメージでした。「私が育てるぞ!」とか「育てなきゃ!」とか。でも、あくまでも育つのは子どもであって、親はそのフィールドを作ってあげることしかできないんだなと感じるようになりました。

「育つ」ための環境は作ってあげられるけど、実際に「育つ」のは彼自身。

そして、その育つ能力を信じて一緒に生きるということが「育てる」ということなのかなと。

今のところは「育てている」という感覚はあまり感じておらず「共に生きている」「一緒に暮らす仲間がひとり増えた」という感覚です。(来年の今頃はどうなっているかな〜)

 

そういえば、去年の今頃こんなブログを書いていたんだなあ、私。やっぱり人間は忘れっぽいいいものだから、ちょこちょこ大切なことを思い出すきっかけが必要なのかもしれない。

「育つ」のをサポートする、という視点


 

つむつむ君のチャームポイント

 
つむつむ君は、何と言っても表情がたまらなく可愛いのです。にーっとする顔や、口をへの字に突き出すところ、悲しい時に眉毛をハの字にして「エェェェェ〜」というところ。眠そうなとろんとするところ、泣いた後のうるうるの目で見つめてくるところ。

まー、可愛い。完璧じゃないけど、完璧じゃないからこそ可愛いのかもしれません。むちむちの足も、プリッとしたお尻も、まだ薄い髪の毛も。すべてがチャームポイント。

今日は、いつもより少し意識して1日を過ごそうと思います。今日もいい1日になりますように。ナカジマノゾミでした。

 

コーヒーで自分の体調を捉える

 

2週間ほど、旦那さんの調子があまり良くありません

 

 

ウィルスによる風邪ではなさそうなので私や息子にはうつっていないのですが、高熱が出たりして、見ている方も心配になります。

こういう時は、コーヒーを飲んでいるのを観察すると、体調が良くなさそうだな〜というのを感じます。

体調がいいときなら絶対残さない大好きなコーヒー。カップの中に残ったままになっている時は、だいたい体調がすぐれないとき。(私が妊娠していると知らない初期に、ビールが1本飲めなくなっていたのと似ている。)
 

自分の体調の見分け方

 

移動カフェをしているときに、オープンする前、毎朝必ずコーヒーを1杯飲んでいました。

私にとっては「コーヒのチェック」のつもりだったのですが、それを見ていた常連の昔喫茶店をやっていたおじちゃんが「今日の体調どうだ?」と聞いてきました。

いつものコーヒーを飲んだら「今日の自分」がわかるでしょ?と。

あぁ。なるほどー。と納得したのを覚えています。私からコーヒーを問うのではなく、コーヒーが私に問いかける。

私がコーヒーをチェックする、そして、コーヒーも私をチェックする。

そんな感じ。

自分の体調には敏感でありたいものです。あれ?と気づける「いつもの」を持っていると早く対処が出来る。それは、不安になるためではなく、調整するために必要なこと。

今は、洗濯物を洗い終わって外に干すときに「自分の今日」を感じます。

「干すぞ〜♪」というワクワクする感じの時と、なんとなくやる気が出ない時。そんな時は「洗濯物、もう洗い終わっちゃったのか。」という感じ。

体調というよりは、精神的なテンションと言えるかもしれないのだけど、あんまりいいコンディションじゃないかもと思った日には、人に応答するときにキツイ声や言い方にならないか一呼吸置いてみる。

特に子供や旦那さんという家族、自分のコンディションが直に出ちゃう人に対しては心掛けています。
 

他人の体調の予測

 

逆に言えば、相手がキツめの声だったりいつもより当たりが強いようだったら、ムッとするよりも相手のコンディションを気にかける方が大切なのかなとも思います。

そして、それは他人に対しても一緒。もし「感じの悪い人」がいたら、その人はちょっと急いでいたり体調がすぐれなかったりするだけかもしれません。そういう想像力を持っておくことは、自分が穏やかでいられるコツなのだと思います。

今日のつむつむ君は、いつもより、ちょっとご機嫌斜めです。そんな日があるのも、生きている証拠。変化を受けいれ見守りたいと思います。ナカジマノゾミでした。

2018年06月11日 | Posted in ブログ, 生きるシアワセNo Comments » 

 

「成長」は目的ではなく結果

 

「成長したいです」ってなんやねん

 

数日前から、ぽちぽちと【元気の出る辞書】を更新しています。と言っても、かなりのスローペース。一つ一つの言葉に向き合うと、頭も使うし時間もかかります。

でも、めちゃくちゃ楽しい。やっぱり、私は言葉が好きみたいです。

昨日、ふと【成長】という言葉と向き合っている時に、これまで腑に落ちなかったことがすっきりしました。

 

成長は目的ではなく、結果

よく、面接の時に「御社に入って、成長したいです!」とか「もっと成長したい!」という言葉を聞きます。でも、ずっと不思議な感じがしていました。

特に仕事に対しては、雇ってください!成長したいので!というのはかなりの違和感でした。いや、真面目でやる気も感じられるのだけど…「お金ください、学ばせてください!」って、むっちゃ図々しい話。

企業はボランティアではないのだし。

SNSによく書いてある「成長したい、成長したい」も、なんだか違和感があって。

その違和感はなんだろうと考えていたら【成長って、目的にするものではないんじゃないか?】というところにたどり着きました。

何かをがむしゃらにやった時の結果が【成長した】ということであって、【成長したいから、〇〇する】というのは、ちょっと違う。【成長して〇〇したい】という成長の向こう側に目的があって、そのための手段としているのであれば、それは納得できる。

 

赤ちゃんの成長を間近で見ていて思うこと

 

生後7か月のつむつむ君。毎日ものすごいスピードで成長しています。

昨日まで出来なかったことが、今日は出来るようになっている。そんなことの繰り返しです。でも彼は「成長したい」とはきっと思っていません。

目の前にあるおもちゃに、必死に手を伸ばしていた結果、昨日より動くことが出来ました。。

私に、何かを必死に伝えたいと思っていた結果、声を出すことが出来ました。

成長は、目的ではなく、結果。

成長したい、と思う気持ちはとても素晴らしい。

でも、夢中で何かに必死になっていたら、それは絶対に「成長している」から、安心して夢中になったらいい。

*************

ここまで書いているうちに気付いてしまったのだけれど、【成功】も目的ではなく結果なのかもしれない。

「成功したい」と、成功を人生の目的にする人に、なんだか違和感があった。端的に言ってしまえば「成功を目的に生きている人」が嫌いなのだ。(わりとはっきり言ってみる)

成功は目的ではなく「何かに挑戦した結果」が「成功」なのではないだろうか。

 

今日も必死に前にある、積み木に手を伸ばすつむつむ君を見ながら。ナカジマノゾミでした。

2018年06月06日 | Posted in ブログ, 暮らしと子育て, 生きるシアワセNo Comments » 

 

「やりたい」にフタをしない

 

5月30日のイルファーロのイベントでひさしぶりに、コーヒーを淹れさせていただきました

お越しいただいた方、本当にありがとうございました。りょうくんのピッツァお披露目イベントは大賑わいで、とっても楽しい時間でした。

沢山の人に会えて、たくさんの人の笑顔を受け取って、幸せな時間になりました。

そして、移動カフェを始めたきっかけを思い出すような気持ちでした。

 

与えたいと思うことと、受け取ること

 

私が移動カフェを始めたきっかけは、誰かにとっての笑顔のきっかけになりたかったから、です。

誰かの居場所になりたくて、誰かの日常の一部になりたくて、誰かにとっての元気の出る時間を提供したくて、移動カフェをはじめました。

でも、やっていくうちに、そのすべてを自分が受け取っているということに気付きました。

誰かのためにと思っていた居場所は、いつのまにか私の居場所になっていました。

誰かの日常になれるといいなと思っていたコーヒーは、いつのまにか自分の日常になっていました。

誰かに元気を…思っていたのに、いつのまにかみんなが自分を元気にしてくれていました。笑顔のきっかけを与えてもらっていました。

与えたいこと、と思っていたことは、イコール受け取ることでした。

私にとっての元気の源は、人と接する事でした。そんなことを改めて感じた一日でした。

 

子どもも含めて仕事をするということ

 

5時から9時まで、つむつむ君はごきげんでいてくれました。それも、たくさんの方が抱っこして可愛がってくれたおかげでした。

家に帰って、二人になってから一気に涙が溢れてきてしまったつむつむ君をみると、数時間だけどめちゃくちゃ彼なりに頑張ってくれていたんだなあというのを感じました。

それを見て、より愛おしく感じました。それと同時に、たくましくなったなあと…と。

「今日は付き合ってくれて本当にありがとう」と目を見て言うとニーッと笑ってくれたので、思わず泣きそうになりぎゅーっと抱きしめてしまいました。

出店の声をかけてもらった時に「やりたい!でも、ちょっと無理じゃないかな。」「抱っこしながらはさすがに難しいんじゃないかな。」「途中で大泣きしちゃったら、どうしよう。」「当日体調が悪くなったら、迷惑かけちゃうかもしれないし…」「そもそも夕方は普段でさえ機嫌が悪いし…」

辞めたほうがいいんじゃないかな。そんな気持ちでした。

でも、「やりたい!」と思ったことなのに、フタをしちゃうのはどうなの?やってもいないのに無理って決めるのはどうなの?やってもいないのに出来ないって決めるのはどうなの?という、ある方との会話を思い出して、えいやー!っと、参加させてもらうことにしました。

結果、やってみて良かった。出来ないって決めつけなくて良かった。「やりたい」という気持ちをを大事にしてあげて良かった。あー、もう、本当に良かった。

子どもがいながら仕事するということが、どういうことなのかも少しだけ知ることが出来ました。これは、今後への収穫になりました。

イルファーロさんに、本当にいい機会をいただきました。ありがとうございました。りょうくん、本当にお疲れ様でした。来ていただいた方、本当にありがとうございました。

あ~~~~楽しかった♪

 

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