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今日、今、するべきこと

突然の、訃報が届いた。

移動カフェのときに、4年間、毎日、朝一番に寄ってくれていた、お客さんが亡くなった。

一番最初にお店を開けた日から、毎日のように顔を出してくれていた人。

いつもポッケの中には飴が入っていて、毎日ひとつ、くれるのだ。冬は、飴の代わりにホッカイロをくれた。ときには、お昼ご飯を買ってきてくれた。「今日は、美味しいパン買ってきたよ~」と言って、サンドイッチを買ってきてくれた。「これ、好きでしょ」と、手羽先を帰りに持たせてくれることもあった。

旅行に行ってきたときには、ビールのお供を山のように買ってきてくれた。

定年されてからも、健康はとても気を遣って、筋トレとお散歩を欠かさなかった人。

70歳近くでもピンピンしていて、シャキッと背筋の伸びた人。

「nonが定休日の日は、お散歩の楽しみがなくて寂しいな~」と言ってくれる人。

テレビで見た、健康法をメモして教えてくれる人。

そのお客さんには、とても良くしてもらっていたのに、、、わだかまりが残ったままになっていた。

私が移動カフェを辞めるとき。別のお客さんが企画してくれた送別会に、呼ばれていない!とか、なんだかんだのいざこざがあり、なんとなく気まずいまま私は移動カフェを引退してしまっていた。

もしかしたら、気分を害してしまったかもしれないなあ。申し訳ないなあ…そう思いながら、その後もお見かけすることも、連絡をすることもないままになっていた。

もう2年近くお会いすることもなかったのだけれど、1ヶ月前、運転していたら、たまたま交差点でその方が歩いているのを見かけた。

いつもだったら、かつてのお客さんに街で会ったときは、思わず「◯◯さ~ん!!お久しぶりですー!」と、駆け寄ってしまうのが、私の常だ。

でも、その時は…

なんとなく気まずいままになってしまっていたのが引っかかっていて、窓を開けて挨拶することが出来なかった。

あの時に、声をかけていたら。こんなわだかまりを残すこともなかったかもしれない。

でも、もう、後悔しても遅い。

「いつか謝れる」「今度お礼を言おう」と思っても、また会える保証なんてないのだ。

Iさんが、そのことを改めて教えてくれたような気がする。

明日死ぬとしたら

最近、考えることがある。

もし、明日死ぬとしたら、私はなにをするだろう。何を手に入れても、死んでしまったら意味がない。美味しいものを食べたって、好きなところに旅行したって、お金を使い果たしたって、墓場には持っていけないのだ。

そう思った時に、するべきことはたった一つなのかもしれない。

愛する人に、愛していることを伝えること。

感謝している人に、ありがとうと伝えること。

謝らなきゃいけない人に、ごめんなさいと伝えること。

今だったら、1歳の息子の記憶には自分は残らないことになる。私という人間は、いなかったことになってしまう。だからせめて、私という人を思い出せなくても【僕のことをとても愛してくれた人がいた】という事実だけは、残したい。

残るほどに、伝えたい。

だとしたら。それは「死ぬ時にすること」ではなく。

今日、今すぐにするべきこと、なのかもしれない。

Iさんがいつも買ってきてくれたフィッシュサンド、大好きでした。手羽先の唐揚げも、大好きでした。毎日おはようと声をかけてくれるのが、大好きでした。

ごめんなさい。そして、ありがとう。

ご冥福をお祈りいたします。

 

生きる力ってなんですか?

生きる力ってなんですか?

偶然図書館で目にして、読んでみたところ、考えさせられるなあと思った本。

【生きる力ってなんですか?】

ざっくりとしたこの問いを、7人の識者が子どもにも分かる言葉で語っている。

内田樹さんは「システムの存在しない場に、自力でシステムを作り出す力」だと言う。

お金というシステムが無くなったとき、会社というシステムが無くなったとき、どうして良いか分からない答えのない危機的状況になったとき、ルールが通用しないときに、生き延びる方法を見出す人。

目の前にある有限の資源を使って、なんとか乗り切ろうとする力。

乙武洋匡さんは「自分の人生を自分で決めていく力」と定義している。

小学校の教師をしているとき、些細なことでも人に答えを求める生徒の多さに愕然としたそうだ。自分で物事を判断できず、すべて先生に聞く子は失敗をしないかもしれないけれど、社会に出たときにはどうなってしまうのだろう。

「あれはダメ、こうしなさい、こうあるべき」という指図する教育は、子ども自身が失敗して自分で考える機会を奪う。そうして、大人が子どもの生きる力を奪っているのでは、という言葉には、ドキッとする。

出来るだけ少ない打数で効率的に進む人生ではなく、むしろたくさん挑戦してたくさん失敗し、それを生きる力に変えていくことが大事ではないか、と。

他にも、「おかしいことをおかしいと言える力」や「自分のことだけでなく地球の命も考えられる力」、「大志を抱くことで維持できる力」など、それぞれの定義でわかりやすく書かれている。

生命力はそれぞれの生命にもともと備わっているけれど、夢や希望をなくしたときその生命力は弱くなり、大志を抱いたときにその力が最大限に発揮される、という言葉にはハッとさせられた。

確かに、自分の目指す方向に向いているときには日々の生活も鮮やかになり「生きている実感」が強まる。なんとか目の前の事態を乗り切ろうとするアイディアも勇気も湧いてくる。

「生きる力」と「希望」は無関係ではないようだ。

アンパンマンマーチは生きる力の湧いてくる歌

最近、我が家のテレビからはアンパンマンの歌が流れてくる。小さな家族のひとりが、自分でDVDを持ってきてセットして再生している。

そのDVDは冒頭にアンパンマンマーチが流れるのだけれど、それが頭にこびりついてしまい、私も旦那さんもちょくちょく口ずさんでしまうようになった。

忘れないで、夢を。こぼさないで、涙。だから、僕は行くんだどこまでもー。

その歌詞をふと思い返すと、アンパンマンマーチはまさに生きる力の湧いてくる歌である。

やなせたかしさんは、もしかしたらアンパンマンを通して「生きる力」の重要性を説いてくれていたのかもしれない。そう思うと、アンパンマンが長年にわたり人気の理由も見えてきそうな気がする。

生きる力って、なんだろう?いつか子どもにそんなことを聞かれるかもしれない。その時に、自分の中での答えを持っていられたらいいなあ、と思う。


生きる力ってなんですか?

 

【HSC】とても敏感な子どもへの接し方

ドキドキ症候群

昔から、フィギュアスケートや箱根駅伝、オリンピックが観られない。

フィギィアスケートは、演技前に流れる演技者のここまでに至ったストーリーの動画(怪我の克服や、ライバルとの関係など)に入り込みすぎてしまい、その時点で号泣。演技で転ばないかドキドキして心臓が追いつかず、観ていることが出来ない。

箱根駅伝では、ランナーが苦しそうな場面(足を捻っていたり、転んでしまったり)があると、そのランナーの心境や、その親の気持ち、抜かされていくのを苦肉の表情で見守る仲間、監督、そんな周りの人たちの気持ちを想像し、苦しくなって目を背けてしまう。

オリンピック、甲子園も同様だ。(ワールドカップもドキドキしてしまって観られなかったのだけれど、かっこいい選手が多いから観たいという気持ちが強い。だから、なるべく入り込みすぎないように、薄目にして観るようにしている)

アクション映画なんて、刺激が強すぎて、全然観たい気持ちにならない。平々凡々の日常を描いた、ほんわかとしたものが好みだ。

そうやって、ドキドキすることにかなり感情を揺さぶられることがあるのだけれど、嬉しいことに対しても、人一倍強く感じているのではないか、と思うこともある。【誰かの力になれた】とか【相手が喜んでくれた】ということが、その瞬間、自分の中でかなり大きなウェイトを占め、生きててよかったなあ…ってくらいに思えたりする。

以前、そういう自分の性質について調べていたところ、おそらく自分にはHSP(Highly Sensitive Person)という特徴があてはまりそうだな、という結論に至った。

詳しくは、以前のブログ→鈍感な世界に生きる 敏感な人たち

主な特徴は、深く物事を考えたり、過剰に刺激を受けやすかったり、他人の感情への共感力に長けていたり、ささいな刺激を感知する。少数派ではあるけれど、人口の20%はそういう性質を持っているという。

本を読んで、かなり救われたのを覚えている。

日々の生活の中で、ちょっとしたことが気になったりはするものの、HSPという言葉自体はかなり忘れていた。のだけれど、ここの所、またこのワードが再浮上してきた。

泣き虫くんがなぜ泣いているのか

我が家の息子は、よく泣く。本当に、よく泣く。1日に20回以上は泣く。

トイレの扉を閉めたらすぐに気づき、扉の前で永遠と泣く。抱っこから地面に降ろそうとすると、察してしがみついて泣く。バイトのために出かける支度をしていると、置いていかれることを察して泣いている。架空のおばけを想定して、おどろいた顔をしただけで泣く(これは、ビビるのが面白くてふざけてやっていた)口元を濡れたタオルで拭くとすごい勢いで泣く。目があったのに、来てくれなかったら悲しくて泣く。ママがお風呂に入っている間は絶叫。

ドライヤーも掃除機も、未だに苦手だ。

そして、同時にビビリでもある。何回も遊んでいるチョロQで、毎回ビビッて首元にしがみついてくる。海に行ったときは、地獄の雄叫びをあげていた。波だけでなく砂浜もダメだった。ママが近くにいるという安全圏かを、いつも確認している。相手がどんな顔をしているのか、遊んでいてもチラチラ見ている。

今思えば、数ヶ月の赤ちゃんのときからこちらの表情を見ようとしていた。通常、生後2〜3か月では視力がほとんど無いと言われているのに、見えているのかな〜?くらいに思っていた。

はじめての子だから、よく分からず(こんなものか)くらいに思っていたけれど、それにしても怖がるときの泣き方がすごい。

リトミックに行っても、お友達の家に行っても、実家に行っても「え?1人だけ泣きすぎじゃない?」という疑問がいつも湧いていた。他の子と比べるのはあまり好ましくないと思いつつも、リトミックなんて1時間のうちに5,6回は泣いている。楽しくキャッキャやっていると思ったら、次の瞬間にはささいなことで泣いている。(そしてすぐに泣き止む)

特に、身体的なことでは無く心理的なことが多いように思う。

Highly Sensitive Child

そんなときに、バイト先の本屋さんで「HSC(Highly Sensitive Child・HSPの子どもバージョン)の子の育て方」というような本が並んでいて、ふと目に入った。

その瞬間、もしかしたら…この子も私に近い性質があったのでは?と、新たな可能性が浮上した。そういえば、お友達が転んで泣いていると、なぜか転んでいない息子も泣いていたりする。これって、箱根駅伝で私が感じる辛さと、同じかもしれない。

あまりによく泣くから「本当に泣き虫くんだね~!」と思っていたけれど、彼は、泣き虫で親の気を引きたいだけではないのかもしれない。小さな刺激も、彼にとっては大きく強かったのかもしれない。嫌だ、悲しい、と強く感じていたのかもしれない。大体の人が平気なことも、不安に感じていたのかもしれない。

そう思うと「そんなことで泣かないの!」「そんなの大丈夫だよ!」と言っていたことは、見当違いなことを言ってしまっていたのかも、という気持ちになる。

本人にとって【悲しいこと】であるならば、それは悲しいことなのだ。【そんなこと】ではないのだ。「君は、そう思うんだね」という所を肯定してあげなければ、存在を否定されているのと同じことだ。

それに気付いてから、彼がメソメソしていてもほとんどイラッとしなくなってきた。見方によっては【甘やかす】と捉えられることもあるかもしれないけれど、それよりも【受け止める】という意識が近い気がする。

自分のものさしで測っていたものを、相手のものさしが存在する(たとえ赤ちゃんでも)ということを、改めて教えられたような感じだ。

HSC(HSP)は、成長とともに治っていくようなものではない。生まれ持った性質として一生付き合うことになる。生きにくいと感じる人もいるけれど、幸せも人一倍感じやすい。生まれ持った性質を活かすのか、嘆くのか。親として出来ることは、性質を活かす考え方を気付かせてあげることではないか、と思う。

自分のことを知っておいて良かった。そうでなければ、本屋さんでHSCという言葉にピンとくるのが、もうすこし遅かったかもしない。もしかしたら、私の考え過ぎでHSCではないかもしれないけれど、可能性として、頭の片隅にこのことを入れておけたのは、かなりありがたい。

「もう!なんでそんなことで泣くの?」と言った類のストレスはほとんど無くなった。そして、そんな敏感な性質が愛おしいと思うようになった。

【メソメソとすぐ泣く子】と判断するのか。【他人の気持ちを汲み取れる子、ささいなことに気付ける子】として長所だと気付かせてあげるのか。今後、その育て方の違いは、とても大きいのではないだろうか。

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もし、自分は人よりも敏感な気がする、子どもが他の子と違う気がする、と思っている人がいたら、ぜひ。

※一般的なHSP診断はこちらから(大人用) 

※子どもが敏感かもしれないと思ったら(子ども用)

※こっちの診断は少し時間かかるけど面白かった

子どもが明らかに他の子よりもよく泣いたり、敏感な気がする、と思ったらこの本がとてもわかりやすくて参考になりました。

HSCの子育てハッピーアドバイス HSC=ひといちばい敏感な子

こっちは、大人向け。気が楽になる人がいたら、幸いです。

鈍感な世界に生きる 敏感な人たち

2019年01月16日 | Posted in おすすめの本, ブログ, 暮らしと子育て2 Comments » 

 

スノースマイル

今シーズン2度目の雪

昨日の運転中、空を見るとなんだか重たい色をしていた。

(雪、降りそう…)そう思っていると、パラパラと目の前に白い粉が舞った。今シーズン2度目の雪だ。

最初の雪は、年末の大寒波と言われた12月29日。その時に10センチほど積もった雪が、正月を過ぎてもうっすらと庭に残っていた。

標高400mほど登ったところにある我が家は、街中からそう離れてはいないものの、やはり少し気温が低いらしい。日陰に張った氷は今も溶けないし、石を落としても割れない厚さになっている。

雪が降ると、否応なしに空を見上げることになる。昨日はすぐに止んでしまったから積もらなかったけれど、雪のおかげで思いを巡らすことができた。

そういえば、最近空を眺めていなかった

ある日、フェイスブックを見ていると、友人が雲の写真と空のグラデーションを載せていた。それを見て、なんだか懐かしいような気持ちになった。

子どもを生んでから【空を見上げること】をすっかり忘れていたのだ。

青からオレンジに移り変わる境界線を眺めること、好きな形の雲を見つけること、真っ黒な闇の中で光る星を見つけること。

なんの意味もないこと。なんの利益も出ないこと。そういうことの中に、大切なことはあったりする。

空を見るということは、視線を上げるということ

運転教習所でも習ったように、人は自分の見ている方向に、無意識のうちに進んでいく。視線を上げると気持ちが前向きになることは、良く知られている。

この1年、私の視線はどこにあっただろうか。おそらく【下】だ。まだ動けない我が子を眺めたり、オムツを変えたり。自分の高さから彼を見ようとすると、どうやっても下に視線がいく。子どもに真摯に向き合えば、向き合うほどに。

上を見たり、空をぼーっと眺めることは少なかった。いや、ほぼ無いに等しかったかもしれない。自分の好きな雲の形を、思い出せなくなっている。

それまで、外で仕事をして空ばかり眺めていた自分とのギャップに、戸惑った1年だったのかもしれない。

今年は、空を見上げよう

やっと一人で歩けるようになった彼は、最近、外の景色を気にするようになった。大きな雲を指差して「あ!あ!」と教えてくれることもある。

これまで、上から見下ろしがちだった子どもの顔だけれど、しゃがんだら同じ目線でしゃべれるのではないか、ということに気がついた。今年は同じ目線の高さになってみよう、と思う。同じ視線に立って、同じように空や雲を見上げられたら、いい。

星や、鳥や、ただの雲でさえも。彼にとっては宝物を見つけた時のように輝かしい。その景色を、私も一緒に見れたら、幸せだ。

冬が寒くて、本当に良かった。BUMP OF CHICKENのスノースマイルを聴きながら。ナカジマノゾミでした。

 

2019年【毎日を意識する】

明けましておめでとうございます

すっかり日にちが空いてしまいました。お正月、いかがお過ごしでしょうか。

今年も相変わらず、お正月はつむつむとダラダラと過ごし、実家に帰りご馳走にワクワクし、神社で初詣するという平和な日々を過ごしています。

昨年は、なんとなく毎日が過ぎてしまったので今年は何か目標を、、と思ったものの。いざ神社でお参りしてみると、パッと出てきたのは【家族が仲良く楽しく健康でいられますように】という、なんともありきたりな祈願でした。

とってもありきたりではあるものの、自分の本心はやっぱりこれなのだ、と改めて思い知らされました。笑顔の源は元気とハッピー。今年も【愉】な1年になりますように。

正月は、なぜめでたいのか

正月といえばなぜか散財してしまったり、高カロリーなものをいっぱい食べてしまったり、お酒をどれだけ飲んでもいい、というようなおめでたい風潮がある。

なぜだろう?

これまで、そうやって過ごしてきたから、というのもあるのだけれど。なぜそういう気持ちになってしまうのか、ということは考えたことがなかった。

なぜだろう?なぜ正月はめでたいのだろう?

いつもお弁当を持っていく旦那さんは、サンガニチはお弁当はいらない(昼食はみんなでタコパするから)という。職場全体でお祝いムードが漂っていて、なんだか可愛らしいとすら思ってしまう。

なぜ正月はめでたいのだろう?

バイト先の福袋は2000円で50個用意したのにもかかわらず、30分ほどで売り切れてしまった。(ちなみに、本屋さんだから中身はおそらく昨年売れ残った文房具)いつもなら、客単価1300円ほどなのに、福袋となれば中身がなんなのかも分からず、一瞬で即売だ。

なぜ正月はめでたいのだろう?

こんなにみんながハッピーな気持ちになるのであれば、年に何回もお正月があればいいのに。

たまにしかないから、気持ちが緩むのだろうか。

誕生日のように、1年に1度しかないから【特別】なのだろうか。

だとすれば、普段の1日は特別ではない、ということになる。

正月だって、そうじゃない日だって、1日という価値は一緒。

毎日を特別だと思うのはなかなか難しいけれど、今年はいつもより少しだけ意識して1日を過ごしたいと思う。1日の終わりに、その日に対する感謝を思い浮かべられるような心の余裕を持ちたい。

小さなことでイラっとしない、息子に寛大な心で在りたい。(息子以外に関しては、それなりの対応をできるしそれで満足しているのだけれど、息子に対してはイライラすることがしばしば。これからやってくるイヤイヤ期は、特にやばい気がする。)

緩やかで、穏やかな日々になりますように。

今年も1年、よろしくお願いいたします。ナカジマノゾミでした

2019年01月04日 | Posted in ブログ, 暮らしと子育て4 Comments » 

 

2018年という1年

年の瀬に思うこと

もう少しで2018年が終わる。

と言っても、特にそんな実感もなく、例年通り家の中もまるで季節を感じさせる装いもない。

しいて言えば、ここ数日の大寒波(らしい)で、雪の心配をするくらい。昨日は日中にふわふわと雪が舞っていた。

年の瀬の実感はないものの、いつもこの時期になると「今年一年はどんな年だったか」ということを振り返ることにしている。

だから、今年も振り返ってみた。

のだが、今年がどんな年だったのかをまるで思い出せない。1年あったわけだから、いろいろとしていたはずなのだけれど、、、う~ん。私はこの1年何をしていたんだっけ?

いつもであれば「穏やかな一年だった」という感想が、常套句だった。穏やかの心で居られることでいることを、意識していたからだ。では、今年も穏やかであったのか?と言えば、決してそんな事はない。

自分の中に、こんな感情があるのかというほどイライラすることもあったし、声を荒げることもあった。焦りも不安もたくさん感じた。もちろん、その何倍も幸福感を感じることもあったのだけれど。

具体的に何をしていたのか思い出せないほど必死だったのか?といえば、そういうわけでもない。わりと自由にしていたはずだし、頑張って何かをしたわけでもない。

ただ、一つだけ言えることは、小さなことでたくさん笑った気がする。その真ん中にはいつも息子の、家族の、笑顔があった。

あっという間に経ってしまった1年だけれど、今ここにこうして元気に居られること、隣を見れば、可愛い人と頼れる人がいてくれること。それが当たり前のように目の前に在ることが、むしろ奇跡的なのかもしれない。

来年は、どんな年になるのだろう。

【どんな年にしよう?】と意気込むのも良し、ふわっと流されて風の赴くままに向かうのも良し。

今年も、1年無事に過ごせました。ありがとうございました。来年も、私の大切な人たちがたくさん笑って過ごせますように。ナカジマノゾミでした。

 

迷い猫のタロウくん

迷い猫のタロウくんは、いつもふとした時に現れる。

野良猫のようで、まったくの野良猫という訳ではない。首輪もつけてもらっているし、毛並みはいつもまあまあ綺麗だし、何よりずんぐり太っている。

いつもこの集落(7~8軒)のあたりをくるくると回っていて、当然うちの庭にもよく遊びに来ている。そして、一番日の当たる特等席でぬくぬくとしている。近づくと、撫でて撫でてと言わんばかりにゴロンと寝転び、ゴロゴロと喉を鳴らしている。

何で首輪をつけているのだろう?(野良猫と聞いていたので)タロウくんは、誰の家の猫なのか?どうしてタロウくんと呼ばれているのか?(メスなのに)どうして、こんな山の中に住み着いているのか?餌は何を食べているのだろう?寒い冬はどうしているの?っていうか人懐っこすぎない?本当に野良猫?!

引っ越してきた当初に、家を売ってくれた人にタロウくんの存在は聞いていた。けれど、謎だらけだった。

ある日、タロウくんと遊んでいた近所の女の子たちにタロウくんのことを聞いてみた。すると「タロウくんは、迷い猫で、〇〇ちゃんが助けてあげたんだよ!」と、その場にいた女の子の名を指して教えてくれた。

なるほど。優しい女の子がこの集落に迷い込んできた猫を助けてあげて、それ以降この場所に住み着いているらしい。おそらく、どの家からもちょくちょくご飯を貰いに行っているに違いない。そうでなきゃ、野生の猫が丸々と太るなんてことはない。(と思う)

みんながちょこちょことお世話して、気楽に気ままに可愛がってもらっているに違いない。それと引き換えに、住人は可愛い猫に癒されている。ちょうどいい関係だ。

つむつむとタロウくん

子どもが生まれるまで、タロウくんにはあまり関わらないようにしよう、と思っていた。餌をあげたい気持ちもあるけど、あげすぎて敷地内に住み着かれては困るし、心を許しすぎると家の中に入ってきそうな気もする。

適度に眺めて、適度に撫でてあげるくらいだった。

しかし、つむつむが1歳になった頃からタロウくんは非常にありがたい存在になってきた。子どもは、家の中の自由に遊べるスペースにはだんだんと飽きてくる。いつものおもちゃではなく、新しい場所や、新しい遊びが大好きだ。

いつもの遊びに飽きて、ぶーぶー言っているところに、ふとタロウくんが現れる。そうすると、窓に駆け寄って「あ!あ!」と指を指し、タロウくんと遊びたいアピールをしてくる。

最初は、恐る恐る、手を伸ばしてタロウくんに触ってみる。次第に撫で撫でするようになり、何かを話しかけてみたりしている。時には、気持ち良く寝ているタロウくんにちょっかいを出しすぎて、ネコパンチ的なものを食らったりして、泣かされている。尻尾を踏んで「ニャー!!!」と怒られてビビっている時もあった。

でも、基本的には人間慣れしているタロウくんは、むやみやたらに攻撃してくることはない。痛かったり、やめて欲しかったりするときに、伝えてくれているだけだ。

少し心配なのは、ダニとかノミとかその辺と、引っ掻かれたり噛みつかれた時になんかよくわからないモノに感染しないのか、と、ネコパンチを受けて爪が目にクリーンヒットして失明したりしないか、というところだ。距離を近付きすぎないように、タロウくんの嫌いな触り方をしないように、それと触った後の衛生面を気をつけておかなければいけない、と思う。

タロウくんが遊びに来てくれるだけで、つむつむにとって退屈だった時間は「猫と遊ぶ時間」になる。恰好の遊び相手になってくれている。猫を飼っていないのに、この恩恵を受けられることは、かなり有り難い。

今では、ちょこちょことタロウくんに食べ物を与えて、時々来てくれることを願っている。

気ままな猫に見習うこと

人間とは勝手なものだなあ、と思うけれど、猫だってまあまあ勝手なものである。来たい時に来て、構って欲しくない時にはスーッといなくなる。撫でて撫でて~といってくるときもあれば、すっすと素通りしていくときもある。昼ごはんの焼き魚の残りをあげたら「身は無いのかよ」と言わんばかりに、まったく嬉しそうにしなかった。(皮と骨についた身でも喜ぶのかと思っていた)

好かれよう、と頑張らない。でも、そんな勝手気ままなくらいの方が、案外見ている者には心地よい。犬のようにいつも尻尾を振って迎えてくれるのも嬉しけれど、いつも喜んでいる素振りをしてくれるほどに(本当に嬉しいの?)と思えてくる。

これは赤ちゃんにも当てはまる。赤ちゃんは、嬉しい時とそうでもない時に体裁を気にして取り繕うということをしない。全力の面白い顔で「いない いない ばあああ~」をしたところで、ハマらなければ無視される。でも、ハマった時には大爆笑になる。それは、彼らのコンディションの問題もあるし、こちらの微妙なテンションの違いを感じ取っているのかもしれない。

愛されようとしなくても、愛されているのを知っている。嫌われることなどない、ということを知っている。とにかく、いつだって正直だ。「あれしたい!」「あれ欲しい!」「いやだ!」「眠い!」こうも正直でいてくれると、当然困ることもあるのだけれど、裏を返せばありがたくもある。

仮に「嫌だけど、言わないでおこう。でも、イライラするなあ。クソババアめ」「おむつ濡れてるけど、我慢しよう。忙しそうだし、嫌われたくないし。」「お腹すいたけど、泣いたら申し訳ないし、もう少し、大丈夫なフリをしよう、ママのために」みたいなことになったら、それこそ大変だ。命に関わる。

素直、正直、というのはそれだけで相手に安心感を与える。そして、それに対する信頼も。

大人は、いつしかそれをどこかに忘れてきてしまったのだろう。相手には素直さを求めるのに、自分はなかなか素直になれない。偽る、ということは信頼されないということに繋がってしまうのにもかかわらず、だ。

気ままな猫と、気ままな赤ちゃんは、そんなことを思い出させてくれる。この先も、タロウくんとは仲良くしていけたら、いいなあ。ナカジマノゾミでした。

2018年12月21日 | Posted in ブログ, 山暮らしのこと, 暮らしと子育てNo Comments » 

 

「ピンとくる」の正体

直感について思うこと

私は、わりと直感を大事にする方だ。

なぜそうなったのか、と思い返してもはっきりとした出来事があったわけではない。ただ、なんとなく【直感的に選んだ方が、より良い選択だった】と思うことが、これまでの人生の中では続いている。

だから今では、直感でいいと思った方を選ぼう、と決めている。

誰かが悩んでいるときに【直感を大事にした方がいい】と、思うことがある。でも「なぜ直感を大事にした方がいいの?」と言われてしまえば、これに対してどう返していいのかわからなかった。なんせ、自分自身がそれを感覚的にしか捉えていないのである。言葉で説明するのは難しい。

「なんでかわかんないけど、心を真っ白にして思い浮かんだ方を選択し、それを正解にしていけばいいんじゃない」そんな曖昧な言葉しかかけられなかった。

ところが、先日読んだ本にこれをわかりやすく簡潔に書き表している一文があった。

 

直感とは自分の本質をついた複雑な情報処理

【「ピンとくる」とは自分の本質につながる、複雑な情報処理の結果なのだろう】

つまり直感で選ぶものは、自分の好みや本心、過去の経験、今の目の前の状況などの情報を瞬時に自分の体の中で処理し、最短で導き出した応えなのではないか、と。

この一文を読んで、すべて納得がいった。

自分を信じている時ほど、直感は働く。そして、それに従うことにためらいはなくなる。ピンときたことを心の隅に追いやり、他の選択肢と比較 検討することは、自分の高精度な情報処理能力を疑うことなのかもしれない。

例えば、家電を買うとき。

私は機能よりもデザインや色で決める。性能がそこまで良くなくても、多少値段が少し張ったとしても、シンプルでおしゃれだと思うものを選びたい。それは、自分が気に入らないものを視界に入れることにストレスを感じる、ということを自覚しているからだ。

使い勝手が良くないことよりも、気に入らないものが毎日視界に入る方が精神衛生上良くない。その自分の本質を知っているから、機能で比較も検討もせずに、見た目がピンとくるかどうかだけで判断する。

 

誰かに「機能重視で買わないと、後悔するよ~!」とアドバイスされたとしても、私としてみればそのアドバイスを聴き流さない方が後悔することになる。ちなみにアドバイスしてくれた人の価値観では、本当にそうなのだから、その人が悪いわけではない。

アドバイス、とはその人の価値観に基づいてするものであるのだから、一意見として聞くのは問題ない。けれど、本当に後悔したくないのであれば、誰かにアドバイスを求めるよりも自分の本質を探った方がいいような気がする。(ここで言っているのは、個人的な選択をせまられた場合の話だ。チームや組織となれば、比較検討することが必要なのだと思う)

この言葉を得てからは、より、直感をなめたらいけない、と思うようになった。

「直感を磨く」とは「自分の本質に迫る」ということなのかもしれない。

 

これからは、自信を持って、直感を大事にすることをお勧めしたい。そこからあなたの本質が見えるかもしれないよ、と。

この言葉が書いてあったのは、影山知明さんの「続・ゆっくり、いそげ」という本だ。見ての通り「ゆっくり、いそげ」の続編として発売している。(現段階では「未完成版」だから、普通の書店には置いていないかもしれない。今後「完成版」も出るらしい)

 

影山さんは、いつも新しい発見をあたえてくれる。なんて素敵な人なのだろう、といつも思う。

 

続・ゆっくり、いそげの詳細はこちらから

 

本屋生活、はじまり

 

教えてもらう、仕事

先日、最後に書かせていただいたのですが、さっそく本屋さんのバイト(パート?)が始まりました。とはいえ、まだ慣れるために1日3時間ほど。夕方、ちょろっと行って帰ってくるというなんともふんわりとした感じです。

でも、一応それに備えて夕食を早めに作ったり、掃除をしてみたり、なぜか前よりも家事がはかどってる気がします。今まで全くなかった枠が出現したことで(ふんわりだけれども)時間という見えないモノを認識し始めたのかもしれないです。

それにしても【仕事を教えてもらう】というのが、久しぶりすぎてかなり新鮮です。(しかも若い女の子に♡)

何にも仕事という仕事を出来ていないのに(掃除と、本の整頓くらい)時給が発生しているという、申し訳なさ。新人あるある。しかも、本の整頓って、楽しい以外の何でもない。今まで見てこなかったようなジャンルの棚も見れたりして、何だかすごく発見がある。

何にも出来ないということは自分でも100も承知なので、そういう時の心構えは本当に初歩的なこと。誠実に、一生懸命やる。笑顔を忘れない。それだけ。

 

1日の終わりに

 

この、本の整頓という作業を教えてもらう時のこと。「飛び出ているスリップを押し込む」だったり、「帯がよれていないか確認して」などの言葉と共に「ぱっと見はきれいに並んでいそうな箇所も、一応本に触ってあげて」と。

本棚を見てみると、明らかに何にもの人に触れられた形跡のある本と、そうで無い本がある。一日中、誰にも触れられなかった本だからって、存在しなくていいというわけじゃない。ちゃんと役目がある。

整頓とは、そんな本に「今日もいちにち、ありがとう」と言う気持ちを伝えることなのかもしれない。そうすると、心なしか奥の方で寂しげな表情をしていた本も、にっこりと微笑んでくれるような気がする。

社員さんのやさしい一言に、本ばかりでなく私もときめいた。

 

意外と多い、お問い合わせ

 

本屋さんって、お客さんと接するのはレジくらいかなと思っていたのだけれど、意外と場所を聞かれることや在庫を聞かれることもあるようだ。

2日目には「〇〇の資格の本はありますか?」と聞かれ、初日に店内を一通り案内してもらったのを思い出しながらお客さんを案内した。「お、覚えててよかった~!」と、テストで山を張った学生のような気持ちだった。

そのお客さんは、探していた本があったようで、喜んでくれた。

他にも、おばあちゃんと一緒にお目当の文房具を探したり、プレゼントする絵本を一緒に選んだり。やっぱり、こういうお客さんと接している時間は楽しい。今のところ、知識がない分、自信を持って伝えられないのが惜しいところだ。これは、本やお店のことをもっと早く知りたいというモチベーションに繋がる。早く、自信を持って案内できるようになりたい。もっと楽しくなるに違いない。

頼りなさしかない新人の私だからこそ、今のところは『聞きたいことが聞きやすいような店員さんの雰囲気を醸し出す』ことに徹している。まあ、答えられないことが大半なのだけれど。それでも「聞きたいけど、忙しそうだし、こんなこと聞きにくいな~」と言う人が話しかけやすいような店員になれれば、ベテランさんへ繋ぐ質問の窓口にはなれる。

やはり、人と接するという仕事の瞬間が大好きだ。

まだ、レジができるわけでもなく、ビシッとしたご案内ができるわけでもないけれど。寂しそうにしている本があったら、1日の終わりに労いの言葉をかけてあげることは出来る。

また、来週も早く本屋さんに行きたい。私にとって、本屋さんはテーマパークだ。

ナカジマノゾミでした。

2018年12月08日 | Posted in ブログ, 働くシアワセ, 本屋さんのこと4 Comments » 

 

冬の湯気と漂う音

冬の朝のコーヒー

朝、起きて、コーヒーを入れる。

たったそれだけの動作なのだけれど、夏と冬で大きく違うことがある。

それは、湯気の存在だ。

夏には、すぐに消え去ってしまっていた湯気が、ここの所かなり存在感を増してきた。気温が下がるほどに、湯気はくっきりと輪郭を現す。

沸かしたケトルから、マグカップ2つと、コーヒーサーバーにお湯をうつすとき、そのくっきりと浮かび上がった湯気を見て(あぁ、今年も冬がやってきたんだなあ)と、改めて実感するのだ。

コーヒーは、沸かしたてのお湯では温度が高すぎる。

沸かしたケトルから、ドリップ用のポットにお湯をうつすと、その時点で5度から10度くらい温度が下がると言われている。私が好きな低めの温度で抽出するには、沸かしたお湯を一度コーヒーサーバーにうつし、それをさらにドリップ用のポットにうつすと、ちょうどよくなる。

ただし、夏と冬では温度の下がり方が異なる。

お湯のリレーをしていく段階で、ガラス、陶器、琺瑯、そのものの温度が下がっていることもあり、同じ作業をしていても冬のほうがやや低い温度に仕上がる。

低い温度で抽出したコーヒーは、高い温度で抽出したコーヒーよりも、角が立ちにくく、丸くなる。

冬のコーヒーが優しいのは、そのためだろう。

名古屋駅3丁目のコーヒートラック

先日、MAGNI’S COFFEE TRUCK に行ってきた。平日はいつも同じ場所に常駐している、移動しない移動カフェだ。土日のみ、イベント出店などで各地を回っている。

いつもの場所に、いつもいる。

移動カフェでも、そんな安心感をその地に生きる人に与えることが出来る。

屋外ならではの開放感も、寒い中で飲むコーヒーも、最高。

丁寧に淹れてくれるコーヒーから立ち昇る湯気が、たまらない。もはや、湯気フェチだったのかもしれない、と思うほど永遠に見ていられるような気がする。

 

「うぃっす」「うぃーす」

コーヒーを飲んでいたら、常連さんと思わしき人がやってきた。こんな風にお客さんと店主が挨拶できるお店は、特殊かもしれない。「いらっしゃいませ」でもなく「こんにちわ」でもなく、どこまでもゆるく、いつも通りの「うぃっす」

お店とお客さんが、おなじ高さに立っている、というのは双方にとってかなり心地よい関係だ。お客さんを持ち上げるでもなく、自分がへりくだるでもない。お客さんを持ち上げるというのは、ある意味丁寧でお上品なのだけれど、堅苦しい。そんなお店ばかりでなくても良い。

それに、実は、お客さんは、それをそんなに望んでいないのかもしれない。お客さんをお客さんという認識で扱っている限り、お店とお客さんの距離は縮まらない。

マグニスコーヒーのドリップコーヒーは、やっぱり優しい味がした。

豊田の駅前から漂う、音

もっともっと街中や、公園、お外で過ごせるような環境や場所があったらいいなあと、常々思う。子どもをもってみて、より一層そんな気持ちが強くなった。

そんな事を考えながら、豊田の駅前を散歩していたら、どこからともなくジャズの演奏が聞こえてきた。その日は土曜日だった。お昼下がりということもあり結構人がいたのだけれど、みんな音の方に吸い込まれるように歩いていた。その先を見てみると…ビルの前でサックスとギターで演奏している人がいた。

そして、そのビルの中には、最近コーヒースタンドが出来ていた。

※土日は「B&C SPACE」

 平日は「OHAYO COFFEE」

何もなかった場所に、音楽とコーヒーがあることで、そこは何もない場所ではなくなっていた。シャキッとした冬の空気が、華やかに穏やかになっていた。

息子のつむつむくんは、初めて見る生演奏に片手を上げて、ベビーカーを蹴り上げて、ノッていた。赤ちゃんにだって、きっとこの心地よさが伝わったはずだ。

ふんわりと立ち昇る湯気や、どこからか聞こえてくる音楽。今年の冬も、いい冬になりそうだ。

ナカジマノゾミでした。

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そういえば、本屋さんのアルバイトの採用連絡をいただき、昨日から始まりました。そのことについては、また次回。

 

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