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2018年という1年

年の瀬に思うこと

もう少しで2018年が終わる。

と言っても、特にそんな実感もなく、例年通り家の中もまるで季節を感じさせる装いもない。

しいて言えば、ここ数日の大寒波(らしい)で、雪の心配をするくらい。昨日は日中にふわふわと雪が舞っていた。

年の瀬の実感はないものの、いつもこの時期になると「今年一年はどんな年だったか」ということを振り返ることにしている。

だから、今年も振り返ってみた。

のだが、今年がどんな年だったのかをまるで思い出せない。1年あったわけだから、いろいろとしていたはずなのだけれど、、、う~ん。私はこの1年何をしていたんだっけ?

いつもであれば「穏やかな一年だった」という感想が、常套句だった。穏やかの心で居られることでいることを、意識していたからだ。では、今年も穏やかであったのか?と言えば、決してそんな事はない。

自分の中に、こんな感情があるのかというほどイライラすることもあったし、声を荒げることもあった。焦りも不安もたくさん感じた。もちろん、その何倍も幸福感を感じることもあったのだけれど。

具体的に何をしていたのか思い出せないほど必死だったのか?といえば、そういうわけでもない。わりと自由にしていたはずだし、頑張って何かをしたわけでもない。

ただ、一つだけ言えることは、小さなことでたくさん笑った気がする。その真ん中にはいつも息子の、家族の、笑顔があった。

あっという間に経ってしまった1年だけれど、今ここにこうして元気に居られること、隣を見れば、可愛い人と頼れる人がいてくれること。それが当たり前のように目の前に在ることが、むしろ奇跡的なのかもしれない。

来年は、どんな年になるのだろう。

【どんな年にしよう?】と意気込むのも良し、ふわっと流されて風の赴くままに向かうのも良し。

今年も、1年無事に過ごせました。ありがとうございました。来年も、私の大切な人たちがたくさん笑って過ごせますように。ナカジマノゾミでした。

 

迷い猫のタロウくん

迷い猫のタロウくんは、いつもふとした時に現れる。

野良猫のようで、まったくの野良猫という訳ではない。首輪もつけてもらっているし、毛並みはいつもまあまあ綺麗だし、何よりずんぐり太っている。

いつもこの集落(7~8軒)のあたりをくるくると回っていて、当然うちの庭にもよく遊びに来ている。そして、一番日の当たる特等席でぬくぬくとしている。近づくと、撫でて撫でてと言わんばかりにゴロンと寝転び、ゴロゴロと喉を鳴らしている。

何で首輪をつけているのだろう?(野良猫と聞いていたので)タロウくんは、誰の家の猫なのか?どうしてタロウくんと呼ばれているのか?(メスなのに)どうして、こんな山の中に住み着いているのか?餌は何を食べているのだろう?寒い冬はどうしているの?っていうか人懐っこすぎない?本当に野良猫?!

引っ越してきた当初に、家を売ってくれた人にタロウくんの存在は聞いていた。けれど、謎だらけだった。

ある日、タロウくんと遊んでいた近所の女の子たちにタロウくんのことを聞いてみた。すると「タロウくんは、迷い猫で、〇〇ちゃんが助けてあげたんだよ!」と、その場にいた女の子の名を指して教えてくれた。

なるほど。優しい女の子がこの集落に迷い込んできた猫を助けてあげて、それ以降この場所に住み着いているらしい。おそらく、どの家からもちょくちょくご飯を貰いに行っているに違いない。そうでなきゃ、野生の猫が丸々と太るなんてことはない。(と思う)

みんながちょこちょことお世話して、気楽に気ままに可愛がってもらっているに違いない。それと引き換えに、住人は可愛い猫に癒されている。ちょうどいい関係だ。

つむつむとタロウくん

子どもが生まれるまで、タロウくんにはあまり関わらないようにしよう、と思っていた。餌をあげたい気持ちもあるけど、あげすぎて敷地内に住み着かれては困るし、心を許しすぎると家の中に入ってきそうな気もする。

適度に眺めて、適度に撫でてあげるくらいだった。

しかし、つむつむが1歳になった頃からタロウくんは非常にありがたい存在になってきた。子どもは、家の中の自由に遊べるスペースにはだんだんと飽きてくる。いつものおもちゃではなく、新しい場所や、新しい遊びが大好きだ。

いつもの遊びに飽きて、ぶーぶー言っているところに、ふとタロウくんが現れる。そうすると、窓に駆け寄って「あ!あ!」と指を指し、タロウくんと遊びたいアピールをしてくる。

最初は、恐る恐る、手を伸ばしてタロウくんに触ってみる。次第に撫で撫でするようになり、何かを話しかけてみたりしている。時には、気持ち良く寝ているタロウくんにちょっかいを出しすぎて、ネコパンチ的なものを食らったりして、泣かされている。尻尾を踏んで「ニャー!!!」と怒られてビビっている時もあった。

でも、基本的には人間慣れしているタロウくんは、むやみやたらに攻撃してくることはない。痛かったり、やめて欲しかったりするときに、伝えてくれているだけだ。

少し心配なのは、ダニとかノミとかその辺と、引っ掻かれたり噛みつかれた時になんかよくわからないモノに感染しないのか、と、ネコパンチを受けて爪が目にクリーンヒットして失明したりしないか、というところだ。距離を近付きすぎないように、タロウくんの嫌いな触り方をしないように、それと触った後の衛生面を気をつけておかなければいけない、と思う。

タロウくんが遊びに来てくれるだけで、つむつむにとって退屈だった時間は「猫と遊ぶ時間」になる。恰好の遊び相手になってくれている。猫を飼っていないのに、この恩恵を受けられることは、かなり有り難い。

今では、ちょこちょことタロウくんに食べ物を与えて、時々来てくれることを願っている。

気ままな猫に見習うこと

人間とは勝手なものだなあ、と思うけれど、猫だってまあまあ勝手なものである。来たい時に来て、構って欲しくない時にはスーッといなくなる。撫でて撫でて~といってくるときもあれば、すっすと素通りしていくときもある。昼ごはんの焼き魚の残りをあげたら「身は無いのかよ」と言わんばかりに、まったく嬉しそうにしなかった。(皮と骨についた身でも喜ぶのかと思っていた)

好かれよう、と頑張らない。でも、そんな勝手気ままなくらいの方が、案外見ている者には心地よい。犬のようにいつも尻尾を振って迎えてくれるのも嬉しけれど、いつも喜んでいる素振りをしてくれるほどに(本当に嬉しいの?)と思えてくる。

これは赤ちゃんにも当てはまる。赤ちゃんは、嬉しい時とそうでもない時に体裁を気にして取り繕うということをしない。全力の面白い顔で「いない いない ばあああ~」をしたところで、ハマらなければ無視される。でも、ハマった時には大爆笑になる。それは、彼らのコンディションの問題もあるし、こちらの微妙なテンションの違いを感じ取っているのかもしれない。

愛されようとしなくても、愛されているのを知っている。嫌われることなどない、ということを知っている。とにかく、いつだって正直だ。「あれしたい!」「あれ欲しい!」「いやだ!」「眠い!」こうも正直でいてくれると、当然困ることもあるのだけれど、裏を返せばありがたくもある。

仮に「嫌だけど、言わないでおこう。でも、イライラするなあ。クソババアめ」「おむつ濡れてるけど、我慢しよう。忙しそうだし、嫌われたくないし。」「お腹すいたけど、泣いたら申し訳ないし、もう少し、大丈夫なフリをしよう、ママのために」みたいなことになったら、それこそ大変だ。命に関わる。

素直、正直、というのはそれだけで相手に安心感を与える。そして、それに対する信頼も。

大人は、いつしかそれをどこかに忘れてきてしまったのだろう。相手には素直さを求めるのに、自分はなかなか素直になれない。偽る、ということは信頼されないということに繋がってしまうのにもかかわらず、だ。

気ままな猫と、気ままな赤ちゃんは、そんなことを思い出させてくれる。この先も、タロウくんとは仲良くしていけたら、いいなあ。ナカジマノゾミでした。

2018年12月21日 | Posted in ブログ, 山暮らしのこと, 暮らしと子育てNo Comments » 

 

「ピンとくる」の正体

直感について思うこと

私は、わりと直感を大事にする方だ。

なぜそうなったのか、と思い返してもはっきりとした出来事があったわけではない。ただ、なんとなく【直感的に選んだ方が、より良い選択だった】と思うことが、これまでの人生の中では続いている。

だから今では、直感でいいと思った方を選ぼう、と決めている。

誰かが悩んでいるときに【直感を大事にした方がいい】と、思うことがある。でも「なぜ直感を大事にした方がいいの?」と言われてしまえば、これに対してどう返していいのかわからなかった。なんせ、自分自身がそれを感覚的にしか捉えていないのである。言葉で説明するのは難しい。

「なんでかわかんないけど、心を真っ白にして思い浮かんだ方を選択し、それを正解にしていけばいいんじゃない」そんな曖昧な言葉しかかけられなかった。

ところが、先日読んだ本にこれをわかりやすく簡潔に書き表している一文があった。

 

直感とは自分の本質をついた複雑な情報処理

【「ピンとくる」とは自分の本質につながる、複雑な情報処理の結果なのだろう】

つまり直感で選ぶものは、自分の好みや本心、過去の経験、今の目の前の状況などの情報を瞬時に自分の体の中で処理し、最短で導き出した応えなのではないか、と。

この一文を読んで、すべて納得がいった。

自分を信じている時ほど、直感は働く。そして、それに従うことにためらいはなくなる。ピンときたことを心の隅に追いやり、他の選択肢と比較 検討することは、自分の高精度な情報処理能力を疑うことなのかもしれない。

例えば、家電を買うとき。

私は機能よりもデザインや色で決める。性能がそこまで良くなくても、多少値段が少し張ったとしても、シンプルでおしゃれだと思うものを選びたい。それは、自分が気に入らないものを視界に入れることにストレスを感じる、ということを自覚しているからだ。

使い勝手が良くないことよりも、気に入らないものが毎日視界に入る方が精神衛生上良くない。その自分の本質を知っているから、機能で比較も検討もせずに、見た目がピンとくるかどうかだけで判断する。

 

誰かに「機能重視で買わないと、後悔するよ~!」とアドバイスされたとしても、私としてみればそのアドバイスを聴き流さない方が後悔することになる。ちなみにアドバイスしてくれた人の価値観では、本当にそうなのだから、その人が悪いわけではない。

アドバイス、とはその人の価値観に基づいてするものであるのだから、一意見として聞くのは問題ない。けれど、本当に後悔したくないのであれば、誰かにアドバイスを求めるよりも自分の本質を探った方がいいような気がする。(ここで言っているのは、個人的な選択をせまられた場合の話だ。チームや組織となれば、比較検討することが必要なのだと思う)

この言葉を得てからは、より、直感をなめたらいけない、と思うようになった。

「直感を磨く」とは「自分の本質に迫る」ということなのかもしれない。

 

これからは、自信を持って、直感を大事にすることをお勧めしたい。そこからあなたの本質が見えるかもしれないよ、と。

この言葉が書いてあったのは、影山知明さんの「続・ゆっくり、いそげ」という本だ。見ての通り「ゆっくり、いそげ」の続編として発売している。(現段階では「未完成版」だから、普通の書店には置いていないかもしれない。今後「完成版」も出るらしい)

 

影山さんは、いつも新しい発見をあたえてくれる。なんて素敵な人なのだろう、といつも思う。

 

続・ゆっくり、いそげの詳細はこちらから

 

本屋生活、はじまり

 

教えてもらう、仕事

先日、最後に書かせていただいたのですが、さっそく本屋さんのバイト(パート?)が始まりました。とはいえ、まだ慣れるために1日3時間ほど。夕方、ちょろっと行って帰ってくるというなんともふんわりとした感じです。

でも、一応それに備えて夕食を早めに作ったり、掃除をしてみたり、なぜか前よりも家事がはかどってる気がします。今まで全くなかった枠が出現したことで(ふんわりだけれども)時間という見えないモノを認識し始めたのかもしれないです。

それにしても【仕事を教えてもらう】というのが、久しぶりすぎてかなり新鮮です。(しかも若い女の子に♡)

何にも仕事という仕事を出来ていないのに(掃除と、本の整頓くらい)時給が発生しているという、申し訳なさ。新人あるある。しかも、本の整頓って、楽しい以外の何でもない。今まで見てこなかったようなジャンルの棚も見れたりして、何だかすごく発見がある。

何にも出来ないということは自分でも100も承知なので、そういう時の心構えは本当に初歩的なこと。誠実に、一生懸命やる。笑顔を忘れない。それだけ。

 

1日の終わりに

 

この、本の整頓という作業を教えてもらう時のこと。「飛び出ているスリップを押し込む」だったり、「帯がよれていないか確認して」などの言葉と共に「ぱっと見はきれいに並んでいそうな箇所も、一応本に触ってあげて」と。

本棚を見てみると、明らかに何にもの人に触れられた形跡のある本と、そうで無い本がある。一日中、誰にも触れられなかった本だからって、存在しなくていいというわけじゃない。ちゃんと役目がある。

整頓とは、そんな本に「今日もいちにち、ありがとう」と言う気持ちを伝えることなのかもしれない。そうすると、心なしか奥の方で寂しげな表情をしていた本も、にっこりと微笑んでくれるような気がする。

社員さんのやさしい一言に、本ばかりでなく私もときめいた。

 

意外と多い、お問い合わせ

 

本屋さんって、お客さんと接するのはレジくらいかなと思っていたのだけれど、意外と場所を聞かれることや在庫を聞かれることもあるようだ。

2日目には「〇〇の資格の本はありますか?」と聞かれ、初日に店内を一通り案内してもらったのを思い出しながらお客さんを案内した。「お、覚えててよかった~!」と、テストで山を張った学生のような気持ちだった。

そのお客さんは、探していた本があったようで、喜んでくれた。

他にも、おばあちゃんと一緒にお目当の文房具を探したり、プレゼントする絵本を一緒に選んだり。やっぱり、こういうお客さんと接している時間は楽しい。今のところ、知識がない分、自信を持って伝えられないのが惜しいところだ。これは、本やお店のことをもっと早く知りたいというモチベーションに繋がる。早く、自信を持って案内できるようになりたい。もっと楽しくなるに違いない。

頼りなさしかない新人の私だからこそ、今のところは『聞きたいことが聞きやすいような店員さんの雰囲気を醸し出す』ことに徹している。まあ、答えられないことが大半なのだけれど。それでも「聞きたいけど、忙しそうだし、こんなこと聞きにくいな~」と言う人が話しかけやすいような店員になれれば、ベテランさんへ繋ぐ質問の窓口にはなれる。

やはり、人と接するという仕事の瞬間が大好きだ。

まだ、レジができるわけでもなく、ビシッとしたご案内ができるわけでもないけれど。寂しそうにしている本があったら、1日の終わりに労いの言葉をかけてあげることは出来る。

また、来週も早く本屋さんに行きたい。私にとって、本屋さんはテーマパークだ。

ナカジマノゾミでした。

2018年12月08日 | Posted in ブログ, 働くシアワセ, 本屋さんのこと4 Comments » 

 

冬の湯気と漂う音

冬の朝のコーヒー

朝、起きて、コーヒーを入れる。

たったそれだけの動作なのだけれど、夏と冬で大きく違うことがある。

それは、湯気の存在だ。

夏には、すぐに消え去ってしまっていた湯気が、ここの所かなり存在感を増してきた。気温が下がるほどに、湯気はくっきりと輪郭を現す。

沸かしたケトルから、マグカップ2つと、コーヒーサーバーにお湯をうつすとき、そのくっきりと浮かび上がった湯気を見て(あぁ、今年も冬がやってきたんだなあ)と、改めて実感するのだ。

コーヒーは、沸かしたてのお湯では温度が高すぎる。

沸かしたケトルから、ドリップ用のポットにお湯をうつすと、その時点で5度から10度くらい温度が下がると言われている。私が好きな低めの温度で抽出するには、沸かしたお湯を一度コーヒーサーバーにうつし、それをさらにドリップ用のポットにうつすと、ちょうどよくなる。

ただし、夏と冬では温度の下がり方が異なる。

お湯のリレーをしていく段階で、ガラス、陶器、琺瑯、そのものの温度が下がっていることもあり、同じ作業をしていても冬のほうがやや低い温度に仕上がる。

低い温度で抽出したコーヒーは、高い温度で抽出したコーヒーよりも、角が立ちにくく、丸くなる。

冬のコーヒーが優しいのは、そのためだろう。

名古屋駅3丁目のコーヒートラック

先日、MAGNI’S COFFEE TRUCK に行ってきた。平日はいつも同じ場所に常駐している、移動しない移動カフェだ。土日のみ、イベント出店などで各地を回っている。

いつもの場所に、いつもいる。

移動カフェでも、そんな安心感をその地に生きる人に与えることが出来る。

屋外ならではの開放感も、寒い中で飲むコーヒーも、最高。

丁寧に淹れてくれるコーヒーから立ち昇る湯気が、たまらない。もはや、湯気フェチだったのかもしれない、と思うほど永遠に見ていられるような気がする。

 

「うぃっす」「うぃーす」

コーヒーを飲んでいたら、常連さんと思わしき人がやってきた。こんな風にお客さんと店主が挨拶できるお店は、特殊かもしれない。「いらっしゃいませ」でもなく「こんにちわ」でもなく、どこまでもゆるく、いつも通りの「うぃっす」

お店とお客さんが、おなじ高さに立っている、というのは双方にとってかなり心地よい関係だ。お客さんを持ち上げるでもなく、自分がへりくだるでもない。お客さんを持ち上げるというのは、ある意味丁寧でお上品なのだけれど、堅苦しい。そんなお店ばかりでなくても良い。

それに、実は、お客さんは、それをそんなに望んでいないのかもしれない。お客さんをお客さんという認識で扱っている限り、お店とお客さんの距離は縮まらない。

マグニスコーヒーのドリップコーヒーは、やっぱり優しい味がした。

豊田の駅前から漂う、音

もっともっと街中や、公園、お外で過ごせるような環境や場所があったらいいなあと、常々思う。子どもをもってみて、より一層そんな気持ちが強くなった。

そんな事を考えながら、豊田の駅前を散歩していたら、どこからともなくジャズの演奏が聞こえてきた。その日は土曜日だった。お昼下がりということもあり結構人がいたのだけれど、みんな音の方に吸い込まれるように歩いていた。その先を見てみると…ビルの前でサックスとギターで演奏している人がいた。

そして、そのビルの中には、最近コーヒースタンドが出来ていた。

※土日は「B&C SPACE」

 平日は「OHAYO COFFEE」

何もなかった場所に、音楽とコーヒーがあることで、そこは何もない場所ではなくなっていた。シャキッとした冬の空気が、華やかに穏やかになっていた。

息子のつむつむくんは、初めて見る生演奏に片手を上げて、ベビーカーを蹴り上げて、ノッていた。赤ちゃんにだって、きっとこの心地よさが伝わったはずだ。

ふんわりと立ち昇る湯気や、どこからか聞こえてくる音楽。今年の冬も、いい冬になりそうだ。

ナカジマノゾミでした。

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そういえば、本屋さんのアルバイトの採用連絡をいただき、昨日から始まりました。そのことについては、また次回。

 

断片的なものの社会学

最近は、図書館で本を借りまくっている。月に3回ほど通い、ごっそりと借りてくる。ジャンルはさまざまだが、エッセイが多い。軽くて笑っちゃうようなものや、真面目なもの、本にまつわる本が多い。何かを得てやろう!と思っていたときより、読む時間自体を楽しんでいるような感じだ。

だから、全然記憶に残らないものもあるのだけれど、ときおり思考を立ち止まらせたくなる本に出会うことがある。流れていくような本もいいけれど、何度も読み込みたくなる本もいい。これは、そんな立ち止まってしまうような本だった。

【断片的なものの社会学】

 

 

筆者は、路上生活者や同性愛者、風俗嬢や摂食障害、戦争経験者などのマイノリティの人々にインタビューして社会学を研究している岸政彦さん。

インタビューをしていくうちに、どうしようもない出来事にしばしば直面する。「良い」でも「悪い」でもない、なんの意味もない出来事たち。そんな「どうしたらいいかわからない事」で、人生は出来ている。

分かりやすいエピソードは、これだ。

岸さんが大学生の時に飼っていた犬が、岸さんの外出しているうちに、死んだ。全身に癌が広がっていて、自分で動くことも食べることも出来ないような状態だった。ずっと看病していたのだけれど、ある日30分ほど外出してるうちに、静かに息を引き取った。

岸さんが犬の死に際を見てやれなかった事を気にやんでいると、ある人が言った。「あなたに死に際を見せたくなかったから、出かけている間に先に逝ったんだよ。」

そのことに対し、岸さんは怒った。犬は、そういうことを考えない。1人で死んだことに意味なんて無い。ただ、1人で死んだだけだ、と。犬を擬人化したような考え方は、自分が一緒にいてやれなかったことを正当化し、犬の最期の孤独を無にしてしまうのではないか、と。

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このエピソードを読んで、思い当たる事があった。【すべての出来事の意味を考える人と、すべての出来事から意味を見出す人】が、それぞれ世の中には存在している。そういうことを考えていた事があった。

【すべての出来事の意味を考える人】は、なにかが起こったときに「〇〇だったから、△△だったのかもしれない」と考える。この犬の例で言えば、岸さんをなぐさめようとしてくれた、「ある人」の言葉のような考え方だ。

怪我をした時、病気になった時「乗り越えられるからこそ、神様が与えた試練」という言葉はこれに当たる。自分たち人間より、大きな何かの存在があり、その何かの采配でそうなった。必然だった、という考え方だ。起こった出来事に対し、受動的な印象を受ける。

【出来事から意味を見出す人】は、似ているようだけど真逆だ。起こった出来事は偶然だった。でも、それをそのまま受け止めて、だからこそ「こうしていこう」という指針を自分で決める。起こった出来事に対して、能動的に働きかけている感じだ。

たとえば、たまたま歩道を歩いていたら、車が突っ込んできて事故に遭遇し、腕を骨折してしまったとする。

前者は「もし、そのまま事故に合わなかったら、もっと大きな事件に巻き込まれていたかもしれない!それをご先祖様が、止めてくれたのかもしれない!」と言いそうなイメージ。

後者は「たまたま歩いていたら、事故にあって腕を折ってしまった。けれど、そのおかげで腕が不自由な人の気持ちを知ることが出来た。これからは、もっと親切に接しよう!」と。

どちらも、ポジティブといえばポジティブなのかもしれない。前者の考え方は、起こった出来事を受け止められないから、そこに意味を探そうとする。出来事を受け止めるために、意味を探す。愛すべき人間の弱さかもしれない。後者は、淡々と受け止めた後に行動を起こすために、意味付けをする。人間の力強さを垣間見ることが出来る。

少し前に「ポジティブ思考」という言葉が流行ったけれど、こういう些細な違いから「ポジティティブ風な思考」がSNSなどの画面を埋めていることがあった。その言葉を発している人が本当に前向きに出来事をとらえているのかは、言葉の端々をみればすぐに伝わる。ポジティブ思考にならなきゃ!と考えているとすれば、その時点ですでにネガティブ思考だ。

話が大きくズレてしまった。
つまり、前者と後者はどちらが良い、という話ではない。この本の筆者の岸さんは、出来事を淡々と受け止めて、それをむりやり解釈するわけでもなく、意味づけするわけでもなく、ただそのまま「どうしたらいいかわからない出来事」として、そっとしておく。

励ますわけでもなく、同情するわけでもない。それが、一番の優しさだということを知っているのだ。

この本を読んで、私も「どうしたらいいかわからない」気持ちになった。だから、この気持ちはあえてそっとしておくことにした。胸の中の絶妙な感情が広がっていく。初めて出会ったタイプの本だった。

2018年11月26日 | Posted in おすすめの本, ブログ, 価値観を考える本7 Comments » 

 

なぜ、本屋さんで働きたいのか

前回は、嬉しさのあまり浮かれた記事を書いてしまった。ので、今回はちゃんと書きます。

 

本屋さんの記憶

読書家、というわけではないのだけれど、本が好きだ。

いつからだろう?小学生か中学生の時に、家にあった桐野夏生さんの「OUT」という小説を何度も何度も繰り返し読んでいた。「OUT」は、バラバラ殺人を決行する主婦たちの話だ。お風呂場で死体を解体するという、ショッキングな内容の話だったのだけれど、怖いもの見たさで何度も読んでいた。してはいけないような事をしているような、背徳感があったのかもしれない。それが、【本】に対する一番古い記憶だ。

【本屋さん】に対する記憶といえば、小学生の時に駅前にあった本屋さんの記憶だ。学校から帰ってくると自転車に乗って、立ち読みをしに行く。1人のときもあれば、友達と一緒だった日もあった。ほとんどいつも立ち読みだけ。今考えれば、あんな小さい店で数時間も立ち読みして、何も買わずに店を出るなんてことが良く出来たなあと思う。

当時、駅前には2つの本屋さんがあった。どっちも、個人の小さなお店で、交差点を挟んで反対側に位置していた。ひとつはタバコ屋さんがくっついているおばあちゃんの本屋さん。私がいつも行く方は、もうひとつのおじちゃんの本屋さん。なんでそっちのお店に行っていたのかというと、漫画が多かったのと、明るくて立ち読みしやすくて、居心地が良かった。外からの光がよく入る白い店内ということもあったけれど、蛍光灯の色味がかなり白かった記憶がある。

おばあちゃんの方は、立ち読みしているとハタキをかけられそうな空気を感じていたのに対し、おじちゃんはそんな空気を出さずにいつもレジでなにか仕事をしていた。とにかく、居心地が良かった。

上京して、実家を離れて、何年か経ってから駅前を通った時。おばあちゃんの本屋さんはあったのに、おじちゃんの本屋さんは無くなっていた。立ち読みばっかりしている子どもが多かったから‥と思うと、心が痛い。駅前再開発の関係で無くなってしまったのだ、と信じている。

 

本に、救われる

 

読まなくては!と思ったこともないし、記録をつけているわけではないのだけれど、人生の節目、節目ではよく本を読んでいる気がする。

なにか選択を迫られているときや、漠然ともやもやしているとき。違和感を感じることがあったときや、強烈に引っかかるワードを得た時。

それから、背中を押して欲しいときに、自ら望んでいるような内容が書かれているような本を選び「やっぱり、そうだよね!」と、自分の都合のいいように解釈したりすることもある。それはもはや、誘導尋問のようなものだ。

自分の考えと似ていると思った著者の本を選んでしまうのも、自分を肯定したいからという理由が根底にあるような気がする。自分が思っていることを、作家さんや先生と呼ばれるような人も考えている、というのは妙に心強い。

【自分が考えていることは、あながち間違っていないのかもしれない】そう思えることは、自己肯定感を格段に高めてくれた。

自分で自分の事を認めた上で、自分とは違うタイプの人の本を読むと、これはまた新鮮で面白かったりする。

コーヒーのことを勉強しながら、茶道の本を読んだりするのも面白い。似ている部分や、それが誕生した国の背景からの違いを知ることで、より深く腑に落ちたりする。

時には、涙をながしながら。時には、苦しいほど心を握りつぶされながら。本の中の言葉に、助けられてきた。

 

本屋さんで働いてみたい

 

本屋さんで働くということは、本屋さんの中にいられるということ。遊園地以上にエンターテイメントだと思っていた場所に、身を置けるというワクワク感。これはカフェの時にも感じていたけれど、純粋にその空気が好きなのだから、おそらく楽しい。

そして、新しい本や、知らなかった本を出会える可能性は格段に増える。売れ筋を知って、人が何に興味があるかの傾向もわかるかもしれない。本を手にとってタイトルを眺めるのだって、仕事しながら出来るなんて、ある意味すごい。(あ、でもテキパキやんないといけないんだよね、きっと)

なにより、一番は【本の裏側を知りたい】

年々、厳しい厳しいといわれている業界。現場の作業もなかなか大変そうな気がする。本は重いから、労力もかかる。そして、取次からの委託制度や返品制度というのも、実際にはどんな規模で行われているのか、毎日新刊はどれくらい出ているのか。返品された本は、どこに行くのか。

それから、わくわくする本屋さんの棚と普通の本屋さんの棚は、なぜぜんぜん違うのか。どうやって選んでいるのか、並べているのか。利益率が低い本という商品で利益を出していくアイディアなど、裏側から見てみたい。

衰退している業界かもしれないけれど、絶対に無くなってはいけない。それが本屋さんだ。

私にとって、コーヒーのお供は本なのだ。その本の事を知りたいと思うのは、ごくごく自然なことだ。ここまで書いて、面接落ちたら笑おう。それはもはや、ネタである。ナカジマノゾミでした。

 

あ、そうだ、バイトしよ

平和な悩みの行く末

「平和な悩みすぎて、ほっこりしちゃったよ。」

 

先日の記事を書いた翌日に、こんな感想をいただいた。

先日のブログ「私が、私を殺していく」

 

ほっこり!?ほっこりですか?!

私の頭を占領していた呻き声は、世間でいえば平和すぎる悩みだったようで、なんだか猛烈に恥ずかしくなった。自分とっては、頭の中であーだこーだモヤモヤしていることだけれど、他人からしたら、大したことなさすぎて微笑ましいとすら思われている。そういうことって、結構ある。

淡い恋心なんかが、それに当たるかもしれない。本人にとっては、いたって真剣だ。悶々と日々、頭を悩ませている。でも、他人からしたら(若いっていいわね♡)くらいにしか思われていない。

ほっこりというワード聞いてから、なんだか肩の力が抜けたような気がした。

 

そして、あることを閃いた。その瞬間、小躍りしたくなるほど、胸が高鳴った。

なんだ!なんだ!そうじゃんか!なんで気が付かなかったんだよう!私ってば、お馬鹿さん!

 

私のゆるゆるな日常

私は、家事に対して自分に課しているハードルが低い。たぶん、おそらく、けっこう低い。

2日に1回は【フリーデー】と称して、何にも家事をしなくてもいい日、ということにしている。気がノる家事はするけれど、気がノらない家事はしない、という日だ。

何にもしなくてもいい、とはいえ最低限の【つむつむの食事とお世話】はする。でも、洗濯は気分が乗らなければ翌日でもいいし、完璧に掃除なんてしなくても死にはしない。自分の食事を作るのが面倒くさければ、昨日の残りとか冷蔵庫にあるものを食べればいい。

つむつむと遊んで、お昼寝中には焙煎か読書をして、起きたら、またつむつむと遊ぶ。それだけの日。「やらなきゃ!」というストレスがたまらないし、私にとっては心地よい。

そして、そんなゆるゆるな日を2日に1回も設けているものだから、思ったよりもヒマ、なのだ。

 

いや、ヒマというのは専業主婦への誤解を招くし、語弊があるかもしれない。

家事を一生懸命していたら、ヒマなんていうことはありえない。ヒマならば、家事を一生懸命しなさいよ!という話である。しかし、私の場合は、家事を最大限に手を抜いてリラックスした結果、ヒマだということになっているのだ。家事を一生懸命完璧にする、という選択肢はない。

だけれど、常になんにも考えなくても生きれる、頭の余白が多すぎて考え事が何一つない、という状態なのである。最高に幸せではあるのだけれど、緊張感が無さすぎるような気がしてしまう。

 

それに、恐怖を感じることもある。

恐怖、というのは自分自身に対しての、恐怖だ。お金に対する恐怖でもなければ、社会に対する恐怖でもない。このままぼーっと生きていたら、脳みそのシワが無くなるかもしれない、という恐怖だ。

そんなに考え事が欲しければ【家族のことや家事のことを一生懸命考える】という方法だってあるのだけれど、そういうわけでもない。趣味に対して、もっと積極的に向かうというのも一つの手ではあるのだけれど、それもいまいちピンとこない。

そもそも、私がいくら家族のことを一生懸命考えたところで、家族のメンバーそれぞれにしか自分の幸せは判断できないのだから、私はその基礎を作ることしか出来ない。だとしたら、それ以上私が考えても仕方がない気がしてしまう。【あなたの為にこんなにしている】は、押し付けでしかない。

あれこれ家族の心配をして神経をすり減らす、という繊細さも持ち合わせていない。

さらには、趣味を作って没頭することが苦手だということに、仕事を辞めてから気付いてしまった。

【自分を喜ばすことが趣味・相手を喜ばすことが仕事】という言葉を以前見たのだけれど、まさにその通りだと思う。私は自分を喜ばすこと(趣味)に、さほど感動を覚えないタイプらしい。趣味を作って取り組むことに真剣になれない。それよりも、相手が喜んでくれそうなことを考える(仕事)の方が楽しい。その喜びの方が、断然大きい。それをバリスタという仕事を通して知ってしまった。(趣味も極めれば誰かを喜ばすことができるのだけれど、それが前提ではない。)

 

子どもを預けたいわけじゃないけれど、一緒にいたいけれど、仕事もしたい。欲張りだけれど、どっちもしたい。

そんなこんなで悶々としていたのだけれど、解決の糸口が見つかった。私にとっては、なんで今まで気付かなかったのだろう!という大発見だ。

働ける!という発見

 

我が家の旦那さんの勤務は、朝行って夜帰ってくるような、いわゆる通常の勤務ではない。一回の勤務時間が長く、その分、次に仕事に行くまでの時間も普通より長い。

仕事がない日の夕方から夜の数時間であれば、無理なくつむつむを見ておいてもらえるのでは…。

そうして仮定してみると、週に2、3回働いたとしても、家族でまるまる過ごせる日が週に1、2日は取れる。そして、いつか働いてみたいと思っていた本屋さんという業種で、ちょうど夕方から夜の時間帯でバイトが募集されているではないか!

なんだよう!なんで気付かなかったんだよう!私ってば!

 

というわけで、早速来週、バイトの面接を受けることにしました。善は急げ。(この体が勝手に動いちゃう感じで、自分の本心が分かる)

やっほー!バイトなんていつぶりだろう。ものすごい未経験初心者だけど、本屋さんで働きたいなあ。受かるといいなあ~。

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ちなみに、旦那さんに「預けなくても働ける!世紀の大発見!」ばりに本屋さんで働きたいということを熱弁プレゼンしたところ「そんなに、働きたいんだね(苦笑)それなら、やってみたら?」と承諾してくれました。最高かよ!♡

ここ数日、ご機嫌が止まらない。ナカジマノゾミでした。

 

私が、私を殺していく

外食の時に考えること

昨日は、つむつむ君とパパと3人でお出掛けしていました。

ちょうどお昼時だったので、外食をすることに。子どもがいると当たり前なのかもしれないけど、外で食べるときには、だいたい迷います。

まず、大前提は、子どもと一緒に食べられそうなものがあるお店。そして、暴れて困る雰囲気ではないお店。少しガヤガヤしているくらいのお店。

 

そして、そのお店の中から、半分こ出来そうなメニューを注文します。

メニューはどうやって決めるかというと、子どもの食べやすそうなものを考慮した上で、その日の子どもが着ている服を見て、ポロポロ食べこぼしても大胆なシミが出来ないメニューが候補にあがる訳です。(赤い服の日は、トマトソースでもいいけど、白い服の日はやめておこう、とか。ちなみに白い服の日は、ぶどうジュースも避けたいからりんごジュースか水にしよう、とか。脳内会議をしている)

それを、何ヶ月か当たり前のようにしていたから、気付かなかったけれどなんだか違和感があって。この違和感は、なんだろう?と考えているうちに【何が食べたいか、ではなく何を食べるべきか、で決めている自分】にハッとしました。

これは、私が私を殺している、ということではないのか、と。

自分の感性に耳をすますということ

私は、子どもが生まれるまで【選択する】ということを大事にしていた はず だった。

余分な条件を一切無視して、選択することを大切にしていた。

サービス券があるから、こっちにしよう。ポイントカードがあるから、このお店で買おう。身体によさそうだから、こっちにしよう。そういう理論的な条件を最大限に無視して、今自分が何を一番望んでいるか、に耳をすます。

簡単なようだけれど、ついつい人間は、ベストを考えて選択をしてしまう。それこそ【どうするべきか】【どうしたらいいか】で選択をしてしまう。

本当に大切なのは【どうしたいか】であるにもかかわらず。

日々、自分の感覚に耳を澄ましていないと、感覚は鈍る。その結果、大切な【どうしたいのか】がわからなくなってしまう。

今の私は、きっと感覚が鈍りまくっている。きっと多くのママも経験しているかもしれない。子どもの好きなのも、喜ぶもの、好きな場所。自分の感覚よりも、まず最優先に思い浮かぶのは喜んでいる子どもの顔だ。

私を殺している、なんて書いてしまったけれど、それは決して強要されていることでもないし、我慢しているという感覚でもない。むしろ、喜びだ。子どもの笑顔を優先して選択することは、ものすごく幸せなことなのだ。

一緒のメニューが食べられるようになったこと、たくさん食べられるようになったこと。たとえ、思っていたよりもたくさん食べてくれて、自分の分がなくなったとしても、それもまた幸せなのである。「あんなにちょっとしか食べられなかったのに、こんなにたくさん食べられるようになったのね!」という気持ちは、成長を見守る側として至福の時だ。

我慢や、押さえ込みばかりがベースになっていればどこかで爆発する時が来る。たまには自分の都合を優先させたい!とわがままを言う日が来てもおかしくない。

ただ、我慢ばかりでなく、幸せであるからこそ、ちょっとずつ自分で自分を殺していってることに気がつかない。幸せを感じることと、自分の感覚を鈍らせているということは、共存しうる。

気付いたら、自分の好きなものってなんだっけ?やりたいことってなんだっけ?と分からなくなったりする。

子どもが、子どもが、子どもが、問題

先日、ランチをしていたら、隣の席に二人組の女性が座った。聞くつもりはなかったのだけれど、話が耳に入ってきたから、こっそりと聞いていた。(おい!)

50代と思わしきその方々は、ランチ中、終始【他人】の話しをしていた。他人、とはいえ家族のことや子どものことだったから、正確には【自分ではない、何かのこと】だ。

子どもの大学が、子どもの彼女が、子どもの好きな芸能人が、子どもの成人式が。そして、あとは、テレビで見た情報など。

自分ではないものの話をして、何が楽しいのだろう?と、思いながら聞いていた。(⇦失礼)

そこに主体はいないわけで、会話の相手がその人でなくてもいいような気がするし、お互いに有意義な情報を得ているわけでもない。(とはいえ、誰かと喋りたい!という発散願望はかなえているのかも。だとしたら、とっても有意義。)

家族の話と子どもの話しか話題がない主婦には、絶対になりたくない!と思っていたけれど、いざ自分がその立場になってみると、それに近い主婦になっている。

なぜならば、他の何かのこと(夢中になれることや仕事のことなど、子ども以外のこと)を真剣に考えていないからだ。常々考えていないことは、口から出てくることはない。そして、文章になって手が動くこともない。

このままでは、超絶つまらない人間になっていくのではないか。避けたい事態に、自分から飛び込んでいるような気がしてならない。

 

そんな妄想をしながら、今日も私は生きている。今日は、自分が一番大好きなビールを買いに行こう。まだ、私は生きていたい。

 

「困らない」という困った現象

最近、困っていますか?

昨日、本を読んでいたらこんな言葉に出会った。

昨今、日常生活の中で「困らない」ということが当たり前になっている。しかし、手っ取り早く思える「困らない」という状況は、人生という大きな枠の中では本当は遠回りなのではないか?

困らないというのは、例えば、道に迷わないということ。今はスマホのナビを設定すれば、初めての場所であろうと大抵の場所に行くことができる。誰にも道を聞かなくても、1人で行くことができる。

そして、分からないことは誰かに聞かなくても自分で調べられる。インターネットを開いて打ち込めば、ほとんどの知識を得ることができる。やったことがないことでも、手順や方法は書いてあるし、説明書は検索したら出てくる。

それから、待ち合わせで会えずにすれ違うこともほとんどない。時間と場所を正確に決めなくても、友達と会うことができる。「今からそこ行くね!」で、いいのだ。

今現在、生活していて困ることってほとんどの人が無いような気がする。少なからず、私はほとんど無い。どんなものが必要なのか、欲しいものがどこに売っているのか、すぐにわかるのが今の時代。なんなら、自宅にいながら手に入れることができる。

企業や誰かが、困っていることを解決しようとしてくれて、世界が進歩していった結果のことではあるのだけれど。困らない世界になった結果、その場限りの情報や知識ばかりが増え、たくさんのことを知っているつもりになってしまった。

そして、身になる知恵や失敗するという経験は著しく減ってしまった。

クックパッド様様

料理を考えるのが面倒な時、とりあえず冷蔵庫にあるものをクックパッドに入力する。そうすると、これなら出来そうという料理がいくつか出てくる。それを、レシピを見ながらそのまま調理する。

当然、恐ろしく不味いということは無い。失敗することはほとんど無い。でも、これって「私が料理をできるようになっている」わけでは無い。

今の時代、インターネットさえあれば「料理ができない人」はほとんどいないのかもしれない。ただ、それで出来る気になってしまって「今度の時も、また調べればいいや」と、何も学ばずに何も得ないということは「料理が美味しくできる人になる」という結果には遠回りなはずだ。

考えてみたら、今は料理で失敗するということがほとんどない。(あ、焦がしたりは、今でもあるか)

タイヤ交換で困ったこと

一昨年、まだ山の中の我が家が圏外でWi-Fiつながっていない頃。朝起きたら、移動販売車のタイヤが2本パンクしていたことがあった。

旦那さんもいない。交換の仕方がわからない。でも、交換しなければ約束の場所に行けない。電波がないから電話もネットも繋がらない。「行けない」と言うことも伝えられない。

そういうわけで、何の知識も得ないまま、車のタイヤ交換を試みた。とにかく、やってみよう。もしかしたら出来るかも…

 

そんな気持ちで始めたタイヤ交換。だが、当然、うまくいかない。車屋さんで整備士さんが楽々やっているのを眺めているだけでは、どれくらいの力が必要なのかと言うことや、ジャッキをどこにどう挟めばいいのか?知っているようで知らなかったのだ。

戻すに戻せなくなってしまい、結局旦那さんの帰宅を待つことにした。約束に行けないという連絡を入れるために、電波のある山の下まで自転車で降りて行った。

あれは、明らかに失敗だった。そしてあの時の私は、間違いなく困っていた。

後日「タイヤ交換をしてみたけど、出来なかった」ということをブログにあげたら「タイヤは、分からないまま触らないほうがいい」という、ものすごく大切で最もなことをたくさんの人が教えてくれた。

この失敗で学んだことは【タイヤ交換は、私が思っていたよりも力が必要だから、近くの人に頼むなり、家族の帰りを待つなりした方がいい場合が多い】ということ。【見たことある・知っている、と、やったことあるは、大きく違う】ということ。そして【災害や万が一のために、インターネットを早急にひいた方がいい】ということ。

そして副産物として【自転車で山道を下るのはものすごく爽快】だということを知ることが出来た。【下るのは最高だけれど、帰り道は地獄のようにキツイ】ということと共に。

 

もし、困ったことが一瞬で解決出来ていたのなら。JAFにすぐに電話することが出来たなら。これらの体験や実感は、しなかったということになる。困ったことが起こるということは、いろんなことを体感出来る可能性を秘めている。

経営者の人や、日々変化の激しい仕事をしている人が精神的に強いのは「困ったこと」に対処してきた回数が、人よりも多いからではないかと思う。こういう時は、こうすれば大丈夫だったという過去のデータが体に刻まれているから、慌てることが少ない。困難を乗り越えた経験の分だけ、人間としての余裕がある。

困ったことは、ついつい避けたくなってしまうけど、本当は困ったことは、生きていく上で大切なことなのかもしれない。

今後、便利が増え、ますます困ったことが少なくなるかもしれない。そうなった時、一番困るのは、実は私たちなのかもしれない。

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著者:松浦弥太郎

 

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