ブログ
《売りたい!》と《好きです!》
先日、友達とこんな恋愛観を話していました。
『自分のことだけしか知らずに、1番好きって言われてもあんまり嬉しくない。他にもいろんなものや人を見て、それでもあなたがイイって言われたほうが良くない?』
私は、この意見に非常に納得できて、そうだよな〜と頷いていました。
だって、それって本当にそれがいいのか悪いのか、好きなのか嫌いなのか、体感していないのに、決められるはずがないから。見ていないものがたくさんあるのに、知らないことがたくさんあるのに、なんで判断できるの?って。
いろんなものを見て、いろんなものを知って、それでも選んでもらえる自信がある。昔からそうで、おめでたい性格なのかもしれない。
***********
こういう考え方って、そのまま仕事にも影響しているような気がする。
『売りたい』という意識はとっても大切で、その為にみんな努力するんだけど、『売りたい!売りたい!』と出し過ぎてしまうことは『買いたい』とお客さんが感じることの妨げになる可能性がある。
大切なのは売り手目線の『売ること』ではなく、買い手目線の『買いたいと思ってもらうこと』
私目線の『好きです!好きです!』ではなく、相手目線の『好きかも…話してみたいかも…と思ってもらうこと』
この流れを、特典をつけたり、値段を必要以上に下げずに作り出すこと。
私はこんな事出来るし、こんな事も出来るし、なんでも言うこと聞きます!と無理をせずに、存在自体に価値があると思ってもらうこと。
《そして、いろんなものを見た人が、その中で自分を選んでくれること。》
お客さんに、他のものを見せないようにして選択肢を奪うんじゃなくて、いろんな選択肢の中からそれでも自分の商品を選択してもらうこと。
こんなのって商売的にみたら甘い考えかもしれない。何が何でも売らなきゃいけないという必死さがない分、頑張っていないように思われるかもしれない。
でも、こういうゆるいつながりや選択肢を持ってもらうことは、最終的には絶対にいい方向に向かうと思っている。
《俺の方だけ見て!》という男性より、《いろんなものを見ておいで》という男性のほうが絶対モテる!(あ、ここは超独断と偏見です。責任は取りかねます。)
恋愛も、商売も、なんだか似ているものがあるような気がします。
もちろん、根本の《売りたい》や《好きです》は、ベースにあるとして。自分の気持ちがあるときこそ、相手の感情に照準を合わせることが大事なんだろうな〜。
**************
最後までお付き合い頂きありがとうございました。豊田市駅の移動カフェcafebusnonの希でした。
2年越しの、ごめんなさい。
やっと言えた。『ごめんなさい。』
2年前、私のうっかりミスによりガッカリさせてしまったお客さんに、昨日ようやく謝ることができました。
今でこそ、たくさんのお客さんに来ていただけるようになったnonですが、2年以上前のまだnon のことをほとんど誰も知らなくて、豊田以外では初めましてのお客さんが主でした。
そんな初期。
イベントに行くといつもおふたりで来てくれるお客さんがいました。
「ここのコーヒーだけは、飲めるんです。」と、いつも名古屋出張を楽しみにしていてくれました。
私はそれが本当に本当に嬉しくて、本当に感謝していました。
**************
ある夏のイベント出店の時、いつものようにふたりで来てもらった際に「今度の〇〇のイベント、どんな感じかな?時間わかるかな?」と聞いてもらい、私は「まだ詳細がきていないので、わかったらブログに載せますねー♪」と返したのにもかかわらず、うっかり当日になっても詳細を載せるのを忘れてしまいました。
その日、そのお客さんは会場まで足を運んでくれたのですが、結局すれ違ってしまい、会うことは出来ませんでした。
ブログのコメントですれ違ってしまったことを知り、とても申し訳なく思いました。
そのお客さんの貴重な1日を奪ってしまったこと。そしてさらにワクワクした気持ちをがっかりした気持ちにさせてしまったこと。コメントでは謝っても、謝りきれませんでした。
謝っても、もう時間は戻らないし感情はなかったことには出来ないけど、絶対に今度会ったら直接謝らなければ…ずっと心の中で思ってました。
ただ、それから、会えることはありませんでした。
もしかしたら、気分を害してしまったかもしれない。がっかりさせてしまって、もう会うことが出来ないかもしれない。取り返しがつかないことをしてしまったかもしれない。いくら謝っても、時間は戻せない。
ずっとずっと引っかかっていました。
****************
昨日の科学館で、そんなおふたりに会うことが出来ました。
ずっとずっと言えなかった「ごめんなさい」
そして、また会える機会を作ってくれた「ありがとう」
それから、いつもいつも本当に嬉しかったこと。
言っても仕方ないかもしれないけど、言わずにはいられない。そんな感じでした。
今でこそ、前より多くの人に知ってもらったり、お客さん同士の紹介で来てもらったり、ブログやインスタを見つけてくれる人がいたりします。
でも、元をたどれば、いつだって目の前のたった一人のお客さんから始まっているんだ。そのことを忘れたらいけない。昨日はそんなことを改めて感じることができました。
***************
こんな時。
驚くほどもろい自分の涙腺にはいつも困っている。もう27年間も付き合っているはずなのに、一向に指導権を握らせてはくれない。
***********
帰りながら考えた。
謝るっていうのは、自分のエゴなのかもしれないな、と。
相手を気遣う行為であるのと同様、自分の心を大切にすることでもある。
『自分が悪いのに、謝れていないこと』は自分の中に小さなわだかまりを作り、それがしこりになる。もし、たくさんためてしまったり大きく育ててしまったら、自分のことを嫌だと思ってしまうきっかけになりかねない。
もう、元には戻らないけど、謝罪する。自分の非を認める。それは、自分を大切にすることでもある。本当に、自分に不備があると思っている場合は、謝ることは自分のためでもある。
***************
昨日は、そんなことを考えた日。
今日は、どんなことを考えよう。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。豊田市駅の移動カフェcafebusnonの希でした。
外側の生きやすさと、内側の生きづらさ
山に住んで、3週間が経ちました。
気付くことや思うことが、日々、湧いてきます。発見や、面白いことや、感動する出来事も。だから何っていうわけじゃないんだけど、ここでしか出来ない体験をしている。貴重な毎日です。
便利と少しだけ離れた生活をしてみて、気付いたこと。
今より不便な生活をしていた時代は、生きるためにやるべきことが多くて、心が病んでしまう人が少ないんじゃないかと。
…
田舎や、山や、昔の暮らしは、日々やるべきことがとにかくいっぱいある。生きる為に薪だって割らなきゃいけないし、ヘビ除けの為に草刈りもしたい。食料調達のお買い物までは何時間もかかる。出前なんてもちろんこない。
まだ、この家は電気も通っているし水道もある。でも、それがない時代はきっと、もっともっと不便だった。沢まで水を汲みに行く、料理する為に火を起こす。洗濯板を使って、一枚ずつ洗濯をする。
日々、生きる為にやるべきことがとにかく沢山ある。
***************
そうこうしていたら、1日なんていうのはあっという間に終わってしまう。
そして、それらのことを一人ではやりきれないから家族というチームがある。それぞれの役割をそれぞれが果たさないと、生活が上手く回らない。だから、一人では生きていけなくて、家族あが必要だった。
***************
生活の為に、手をかけなくていい時間が増えたっていうのは素晴らしいこと。他のたくさんのことを考えられる時間が増え、いろんなアイディアや技術の発達が進むようになった。さらに生活を便利にするようなモノは増え続けるはずだ。
それと同時に、考えすぎなくていいことも考えられる時間ができてしまった。
昔だったら出てこなかったような種類の悩みが、増えすぎてしまった。
***************
考える時間が増えたっていうのは、個人的にはすごくありがたいことだと思っていて、生きることや幸せや、仕事や、人間関係や、様々なことを深く考えられる時間は大好きだ。ただ、考える時間が増えることは、別の可能性も増やしてしまう。
自分を追い込んでしまったり、マイナスな感情を増幅させてしまったり、自分だけが孤独だと感じてしまったり。
都会の中にポツンと立っていると、自分だけが独りのような感覚になる。大勢の人が行き交っている繁華街ほど、そう思う。
逆に、誰もいないような田舎にひとりで立っていても、孤独はそこまで感じない。だって、みんなが一人でそれが当たり前なのだから。
*************
考える時間が増えて、より有意義に時間を使えるようになる人ももちろん大勢いて、そのおかげでさらに世界が豊かに発展していくのはとってもおもしろい。
ただ、効率化が進みすぎて、情報の波が多すぎて、処理しきれない人もたくさん出てきているような気がする。
こんな時代だからこそ、自分をしっかり持たないと。ハードの生きやすさの分だけ、ソフトの生きづらさにぶち当たっtしまう。
*************
こんなことを考えるのって、ちょっと楽しいな。
どうせ考える時間が増えるなら…自分にとって幸せになることを考えたいし、楽しいことを考えたいし、おもしろいことを探していきたい。生きてる実感がある毎日がいい。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。豊田市駅の移動カフェcafebusnonの希でした。
親孝行って、自分を生きることを楽しむこと
親孝行ってなんだろう?
高校までは、こんなこと考えたこともなかったけど…社会人になって改めて気付く。家を出て、初めて気付く。やりたいことを伝えた時に改めて気付く。新しい家族を築いて、改めて気付く。
親のありがたみ。
**************
私はけっこう、親不幸なのかなって思ってました。
急に、就職後に東京の専門学校に行きたいとか、移動カフェを始めたことも事後報告だったりとか、横浜まで駆けつけさせてしまうようなことがあったりとか。移動販売を始めた後に、急にお金を貸してもらったりとか。
ここまで自由に育ってきたけど、、でもその裏で両親になんとかしてもらっていたから今があったりします。
だから、移動販売を始めた頃は、『いっぱいお金をつくって渡すこと』が、一つの目標で感謝の表し方だと思っていました。(まあ、思っただけであんまり出来ていないんですが)
でも、ある時から、ちょっとそれって違うのかもしれないなって思い始めました。
お姉ちゃんに子供ができて、初めて叔母さんという立場になった時くらいからかな。
親が子どもを愛するというのはどういうことなのか。親の無条件の愛情ってどんなんだろうか。子どもがどんな子だったとしても、存在自体に価値があってそれ以上の何でもないんじゃないか。今まで育ってきた中に、どれだけの愛情を注いでもらってきたんだろうか。
そんなのを間近で感じるようになりました。
*************
お金をたくさん渡して、贅沢をさせてあげたい、その気持ちはそれはそれでいい。でも。そのために身を削って、精神をすり減らして、毎日疲弊して、生きることは辛いことだと思っている生活を、果たして親は望んでいるのだろうか?
そんな素朴な疑問に出会いました。
もし、万が一、私が親の立場だったら。
『生きることって、めちゃくちゃ楽しいね!産んでくれて本当に有難う!』と思ってくれた方がよっぽど親孝行なんじゃないのかな?って思うようになりました。
子どもから『なんで私なんて産んだのよ!』と言われるよりは『楽しい世界に命を与えてくれて有難う!』と心から思ってもらえた方が、よっぽど親孝行だ。
************
自分の人生を楽しむことは、親にも先祖にも感謝を表すことでもある。
自分を楽しむことは、親へのリスペクトだ。それも、最大の。
************
そして、もし、万が一、自分が親の立場になった時には。
親が私にしてくれたことを、一つだけしてあげたいと思っている。
それは『子どもを一人の人間として信頼すること』
いい子だから信用している、とか。子どもとして、とか。そういうのではなく、一人の人間として。
相手(子ども)の人間性を受け入れ信頼することは、もしかしたらけっこう難しいのかもしれない。生まれた時から、何にも出来ない時から知っていて、気が付いたら一丁前な発言をするようになって、生意気な口も叩くようになって。【あの頃】を知っているからこそ、対等な立場で発言をするのは難しいのかもしれない。
それでも、自分が親の立場になった時には、いち人として対等に話せる親でありたいなあと思う。相手を信頼し、尊敬できる親でありたいと思う。
別々の人間として意見を交わせたら、けっこう面白そうだ。
**************
と、まあ親になったことのない私が言ってもなんの説得力もないのですが、そんなことを思っている今日この頃。
私は、今、生きているのが、すっごく楽しいです。
この、おもしろい世の中に産んでくれて、本当にありがとう。
運命とは、自分でたぐり寄せる意図
運命って、どういうものなんだろう?
とある名言ではこう記していた。
『すべてを運命だと思って生きるか。運命などないと思って生きるか。人間は二つに一つだ。』
生きていれば、いろんなことが起こる。その起こった出来事に対して、自分がどう接していくかで、これからの人生は大きく左右される。
①自分に対して起こること、そのすべてを運命だと思ってみる。
そうすると、《こういう運命だから、仕方がない。》と言って受け入れられる。それも生きやすく生きる一つの方法なのかもしれない。起こったことをありのまま受け取る。言い方を変えればすべてを運命のせいにできる。そこに、自分の不手際や普段の行いが引き起こしている可能性を考えないで済む。自分の運命を呪っている人は、こう考えている可能性が高い。
「私は、こういう運命なんだ」「私っていつもこうなんだ」
自己嫌悪になる可能性や悲劇のヒロインのように感じている可能性がある。
②《起こったことに、意味はない》と考える。
怪我をしてしまった。病気をしてしまった。会社が倒産してしまった。家族がバラバラになってしまった。その事実を、そのまま真っ直ぐに見つめ、「○○になってしまったからこそ、出来ることはなんだろう?」と考える。起こった現実は変えられないし、たまたま自分がその立場になってしまった、と捉える。
「じゃあ、どうしよっか?」「こう考えたら、逆にラッキーじゃない?」
起こった現実に意味はないけど、意味付けは自分でしたらいい。
起こった出来事に意味付けをすることは、運命を自分で作っていくことだ。
*************
ここからは、私の個人的な意見。なので、反論ももちろんたくさんあると思うけど…
個人的には、運命はないと思っている。運命っていう言葉は、自分のそれまでの行動や思考の責任を放棄しているような気もする。自分の今までの行動や、思考が今の現状を創っているわけで、それを運命のせいにするのは、あまりに無責任だ。
もちろん、不慮の事故というものや、生まれながらに五体満足ではないこともある。そこに本人の責任は、もちろんない。ただ、だからこそ出来ることを探したら、それが運命とも言えるような現実を創っていく。
「運命」があるんじゃなくて、「運命と思えるほどの重大な出会いや出来事」に気付いただけだ。それに気付かない自分でいたら、サラーっと通り過ぎてしまうけど、それに気付ける自分でいたら、「運命だと思えるような出来事」なんてそこらじゅうに転がっている。
それに気付くか気付かないか。それに、飛び込むか飛び込まないか。すべては自分が選択していること。無意識のうちに。
どっちの生き方も、きっと正解だ。生きやすい方を選択したらいい。
***************
今読んでいる本は、RADWIMPSの野田洋次郎さんの本。RADWIMPSの熱狂的ファン、というわけではないのだけれど、印象的な歌詞が多いこのバンドの作詞者の頭の中がのぞきたくて買った本。
そこで出てきた言葉。
「運命の糸」ではなく、「運命の意図」
まさに、そういうこと。
***************
最後までおつきあいいただきありがとうございました。豊田市駅の移動カフェCAFEBUSNONの希でした。
遠くから、応援してくれていた人
遠いところで、3年もの間、いつも応援してくれていた人がいた。そういうことって、本当にあるんだなあ…
横浜でのカフェでのバイト時代にお世話になっていたお店のマネージャーさんが、先日NONに寄ってくれました。
なん店舗かあるカフェの、100人以上いるバイトの中のひとり。おそらくバイトしている時に会ったのは2回、数分間、会話は一言。1年ほどしかいなかった、ペーペーのバイトの事を覚えてくれていて、ブログを見つけてくれた。私が愛知に帰ってきてからも、ずっとずっと見守って応援してくれていた。そんな人が、たった一人でもいたということが、信じられないくらい嬉しかった。
**************
そのお店は、横浜のとある商業施設にテナントとして入っていた。渋谷のカフェで働いていた私は、どうしてもエスプレッソマシンが触れるカフェで働きたくて、ここの面接を受けた。
晴れて、働けることとなった。毎日が本当に楽しかった。
最初はもちろんエスプレッソマシンに触れるはずもなく、お皿を洗ったり、ホールでコーヒを運んだり、接客がメインだった。それでも、毎日毎日が本当に楽しかった。そこの空間にいられることが幸せだった。
先輩も、かわいくて、面白くて、大好きな人ばっかりだった。人との距離をなかなか縮められない私もまるごと受け入れてくれて、みんなで飲んだり騒いだりするのは、本当に楽しかった。
だんだんいろんなことが出来るようになってきて、ついにエスプレッソマシンを触れるようになった。そしてテストを受けて、エスプレッソやカフェラテをお客さんに出してもいい【合格】をもらえる日が、ついにきた。この時のことは、今も忘れない。涙が出てしまうくらい嬉しかった。
***********
きっと、もう時効だから言ってしまうと。
朝番だった私は、エスプレッソマシンに触りた過ぎて、いてもたってもいられなくて。毎日2時間早く行って朝の準備を終わらせ、買ってきた牛乳と豆で何十杯も勝手に朝練をしていた。バレないように、バレないように…(今思えば、おそらくバレバレだったんだろうなあ。)
もちろん、お客さんに喜んでもらえたらいいなと思っていたけど、それ以上に自分自身がただただ楽しくて楽しくてしかたがなかった。
練習ができる環境があることが、幸せだった。
働いている子たちが、エスプレッソマシンに触りたいのはみんな一緒。だから、今日は誰がエスプレッソを入れる人かというのを交代で決めて、毎朝その人のちょうどいいグラインドを調整していた。
その係になった日はもちろん楽しかったのだけど、それ以外の日も毎日楽しかった。カフェで接客する、ということが本当に楽しかった。
私は、カフェで働いている。お客さんの笑顔を目の前でみれる。そのことがなにより嬉しかった。
こんなに楽しくて、さらにお給料までくれるなんで、ここは天国なんじゃないかと毎日毎日思っていた。
…楽しくて、楽しくて、幸せすぎたからこそ、私はそのお店を辞めた。
*************
楽しくて幸せだったからこそ、ひとつだけある不満に気付いてしまったのだ。そのひとつが私にとって大切なことだと気付いてしまったのだ。
そして、たったひとつの納得できなかったことを解消するために、移動販売を始めた。
そのたったひとつのこと、とは《お客さんとの距離感》だった。
************
お店が大きくなるにつれ、必ずマニュアルは必要なものになってくるのかもしれない。『この時の正解は、こうだよ』そういう指標が、みんなの共通意識の中になければお店はぐちゃぐちゃになってしまうのかもしれない。
自分の中の正解と、皆の共通の正解がずれていた場合。自分を抑えるか、みんなに迷惑がかかるか、2つに1つ。
だからこそ、ひとりで出来る、移動販売をしようと思った。
《私のルールは、私が決める》
誰かに働かせてもらっているうちは、きっと、難しい。いろんな制約も、条件も、たくさん出てくる。それが、お給料をもらうっていう事だから。
自分で自分のルールを決めるためには、自分でやるしかない。どうしても妥協ができない。だから、移動販売を始めた。
************
この横浜のお店には、本当に今も感謝している。いろんなことを教えてもらうのと同時に、いろんなことを気付かせてもらった。私はやっぱりカフェで働くのが大好きだった。
「なんで、いつもひとりで笑ってるの?なにか良いことあったの?」と、仲間に言われてしまうくらい、毎日ニヤニヤしていた。
だって、私は、カフェが大好きなんだ。
************
マネージャーさんが来てくれて、そんなことを思い出した。
目の前のひとりを大切にする事が、遠くの誰かのチカラになっているなんて思いもよらなかったけど、そういうことが本当にあるとしたら…
生きるのはやっぱり楽しい。そして、働くのは最高の幸せ。
私にとって、この日の出来事はとてつもないパワーを与えてくれた。この先、いろんなことが起こるかもしれないけど、生きる意味や幸せを思い出せばきっと大丈夫。
最後までお付き合い頂きありがとうございました。豊田市駅の移動カフェcafebusnonの希でした。
コーヒーに旬があるとしたら、きっと「今」だ。
いろんな食べ物には、旬がある。そのモノが、美味しくなる季節。
最近の朝は、ちょっと肌寒い。そろそろ車の正面の窓から見えるハナミズキも、緑色からオレンジ色へと移り変わる。
こんな朝は、ふと思う。『あ、今。コーヒー飲みたいな』そう思ったら、すぐにドリップできる環境に毎日いられる自分は、けっこう贅沢者だ。
『今、コーヒー飲みたいな』この感情を、私はコーヒーの旬と呼ぶことにした。
**************
つまり、季節でもなく、時間帯でもなく、心のなかに突然やってくる、旬。
コーヒーが好きな人には、きっと伝わるんじゃないかと勝手に思っている。
旬に、旬のものを食べると美味しい。季節外れに、季節外れのものを食べことも出来るんだけど、きっと1番美味しいのは旬のときだ。
**************
昔はよく、コーヒー屋さん巡りをしていたけど、最近ではそんなにしなくなってきた。なぜなら、コーヒー屋さん巡り(1日に何店もカフェを回ったりすること)は、『今、コーヒー飲みたいな』と思う前に、コーヒーの方から迫ってくるように感じるから。本当は美味しいものなのに、結局おいしく飲めなかったりする。
つまり、旬のタイミングを測りきれない。
だから、本当に美味しいコーヒーが飲みたかったら、心の旬を感じて、心の声に耳を傾けることが大切なのだ。
『今、コーヒー飲みたいな』そう思ったときが、あなたにとってのコーヒーの旬である。
**************
最後までお付き合い頂きありがとうございました。豊田市駅の移動カフェcafebusnonの希でした。
暖めるのに1番大切なことは、着火すること
昨日、はじめて暖炉に火をいれました。
キャンプの炭と違って、薪に火をつけるのって意外と難しい。
とりあえず燃えそうなものをいれて、薪をいれたらかなるっしょ!っと、甘く見ていたのですが、なかなかつかず…時間がかかって、着火剤のダンボールもけっこう使って、やっとつけれました。
上手な人は、ちゃんと順番を考えて、火のつきそうな紙、そのうえに燃えやすそうな小枝や薪のささくれのとこ、その上に薪、ちゃんと焚べて着火するそうで。そしたら、余分な着火剤もいらずにすぐにつくんだそうです。
何はともあれ、ついたから、よし。
***********
燃えている暖炉の火を眺めながら、こんなことを考えていた。
【暖炉に火をつけるのは、生き方みたいだな。】
ちゃんと、燃えやすいように、すべてを準備をしてから始める人。
失敗しながらでも、何度も消えそうになりながらも、とにかく燃やしていく人。
余分な労力もかかっているかもしれないし、ムダもたくさんあるかもしれないけど、何度もトライしてればいつかはコツが分かってくる。
どっちにしたって、きっと火はつく。
1番大切なのは、とにかく着火をすることだ。
一度燃え始めてたら、放っておいてもどんどん燃えていく。つけかたは違っても、どちらの火だって美しい。
途中でさらに、薪を追加するのか。このあたりでやめておくのかは、本人の意志次第。
兎にも角にも、着火しなければ燃えることはない。燃えることがなければ、誰かを暖めることは出来ない。
*************
1度小さな火を起こしてしまえば、きっとだれかの心を暖めることが出来る。誰かを照らすことが出来る。そして、自分自身も灯りに包まれる。
燃やしてもいい。燃やさなくてもいい。
でも、もし、暖かくなりたいのであれば、1番大切なことは着火すること。その小さな火を行動にうつすこと。
最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。豊田市駅の移動カフェcafebusnonの希でした。
すみません。返信・更新 遅れてます。
おはようございます。早朝は寒くなってきました。
土曜は、豊田スタジアム下の千石公園での出店、日曜は1日お休みでした。
今までのお休みの日って、仕入れに行ったり、郵便局に行ったり、ブログ更新とコメントいただいた方へ返信したり、伝票整理や入力をしていたのですが、今週末はほとんどしてません。むしろ仕事のことを、頭から切り離そうとしていたのですが…
なんか、もうね、めっちゃムズムズするんです。
いてもたってもいられない。【ああ~~~仕事したい!!!!】っていう感じ。
仕事って、出店するだけじゃなくて、こうして文章を打つこととか考えることとかも含めて。
いてもたってもいられなかったので、こうして4時に起きて河原でブログ書いてます。
*************
別に、ワークホリックとかじゃないんです。しなきゃいけないわけでもないし、仕事こそ人生、っていうわけでもない。それ以上に大切なものって本当にいっぱいある。
《働かなくても生活できる》っていうのが、一般的な理想かもしれないけど、自分にとっては多分ちょっと違う。
《好きなように働く》っていう方が、働かないことよりもっともっと楽しい。
自分を楽しむ手段として、今は仕事を選んでいる。そんなことに気付いてしまいました。
*************
本を読むことも、そう。
そもそも、そんなに文学が好きっていうわけではないんです。ただ、本を読むことによって、《よりよく生きるヒント》を得られたり、《仕事に対しての意識が向上》したり、自分にとって得られるものが大きいから好き。
自分にとって、プラスになるから、好き。
仕事も、自分にとってプラスになるから、好き。
単純です。
************
頑張って、頑張って、働かなくてもいい仕組み(不労所得)を作ってから《好きなことだけして生活する》のと、
初めから好きなことを仕事にして、好きなことだけして生きていくのと、どっちも正解なんだと思う。
でも、明日死ぬかもしれないし、今日死ぬかもしれない。命には限りがあるから、私は毎日を好きなことで埋め尽くす方を選ぶ。
今日は、今日を楽しむ。
明日は、明日を楽しむ。
************
早起きはやっぱり気持ちがいいな。今日は、何をしよう♪
あなたにとっても、いい1日になりますように。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。豊田市駅の移動カフェcafebusnonの希でした。
心を籠める、の意味
「心が籠っていますね。」よく聞く言葉であり、なんとなくあったかいオレンジ色のフレーズ。
精神的なものや、祈りや願いのような意味で使われることもあるけど、私の思う《心を籠める》というのは、ちょっとニュアンスが違います。
たぶん、伝えきれていないと思うので改めて書こうかなと…。
私の使う《心を籠める》とは《相手を見る》と、ほぼ同義語です。《念じる》とか《想う》よりもっともっと理論的なもの。
相手を見る、とは、相手の状況を目で見て察する、想像する、ということ。
*************
例えば、いつもホットコーヒーを飲むお客さんがいたとします。その時に、丁寧に気持ちを込めてドリップするのは当然なんです。
で、さらにそこから(今日の天気)だったり(話している内容)だったり(いまの状況…出勤時なのか、食後なのか、目覚ましなのか、休日なのか、とか)を想像してほんのちょっとだけ微調整することを《心を籠める》と表現しています。
朝起きた時と、寝る前では、きっと美味しいと感じるコーヒーは違う。
快晴と雨の日でも、元気な時と風邪の時でも違うかもしれない。
あ、このお客さんは猫舌だったな、とか。このお客さんはこうやって飲むからこうしよう、とか。
今、言ってほしい言葉はなんだろう?とか。
まだまだ未熟なので、理想通りに出来ているわけではないのだけど…とにかく正面にいる相手を見ないとはじまらない。
そこに答えはないけれど、想像する。
いつもとまったく同じ注文であっても、超、微調整をする。それが心を籠めるということ。
*************
つまり自分側から、祈ったり願ったり、発信するわけではないんです。相手をまっすぐに見て受け取ることが、心を籠めるということ。相手がいなければ始まらない。一人では始まらない。
なので「せっかく心を籠めたのに」という言葉が出てきてしまうことは、ありえない。
《相手が欲していなかったものを押し付けること》自体が、心を籠めれていないのではないかと思うから。
【相手は疲れていて、受け取れる状況ではないかもしれない。そうであった時に、負い目を感じさせない為の配慮】ここまで想像することが、心を籠める、っていうことなんじゃないかと思うのです。
*************
そしてもう一つ、籠める、という意味について。
【籠める】とは、表に出ないように包み隠す という意味があります。
「心を籠めて作りました。」と主張するのではなく、表に出ないようにあえて包み隠す。そんな日本人的なニュアンスがとても好きです。
*************
ん~。なんだか今日も、非常に分かりづらく面倒くさい記事になってしまいました。なんとなく、でも、伝わることを願って。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。豊田市駅の移動カフェcafebusnonの希でした。
今日も、気持ちの良い1日になりますように。