便利すぎる事がもたらす弊害とはなんだろう
「アメリカでは、カフェやパン屋さんでも、待っているお客さんが楽しそうだった。並んでいるお客さんも、店員さんも笑っていた。」
先月、アメリカに行ってきたお客さんが教えてくれた言葉が、頭に残っている。
日本は、どうだろう?日本は、並んでいるお客さんは笑顔になれるだろうか?お客さんの行列を目の前にした店員はニコニコできているだろうか?
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日本は便利になりすぎている。そんなことを考えるようになった。世の中が便利になるように企業や行政が努力をして、改善して、便利なものをたくさん開発して、その恩恵を自分たちは受けている。
だから、《便利》には本当に感謝しているし、私もいろんな便利やサービスを必要なだけ使わせていただいている。
だけど、便利で分かり易いことと引き換えに、何かを失っているような気がしてならない。
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例えば、わかりやすい表記のメニュー。店員さんにどんなものか聞かなくても、丁寧に説明書きと写真が載っている。
例えば、スマホのナビ。おかげさまで、知らない人に道を聞く、ということはほとんど無くなった。
例えば、自分で会計を済ませられるスーパーのセルフレジ。お願いします、ありがとう、の機会は一回減ったような気がする。
例えば、押したら店員さんが来てくれるファミレスのボタン。注文を入力するリモコン。席まで届けてくれる回転寿しのレーン。
セルフサービスのガソリンスタンドも、価格を下げることと引き換えに、店員さんとのやり取りの機会を減らしているような気がする。
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分かりにくいこと、不便なこと、って決していけないことじゃない。会話が無くても成り立つ社会は、心の孤立を増やしていく原因になっているのではないかなと思う。
ちょっと分かりにくくても、ちょっと不便でも、だからこそ自然に人と繋がれるような仕組みを作るのも大切なような気がする、、。
ググったら、調べたら、だいたいのことは一人でも解決できる。そしたら、何気ないことを人に訊く機会ってやっぱり減ってしまうんだと思う。
そして、コミュニケーション力が著しく低下しているんではないのかなと思ったりもする。
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日本だったら、行列で待っている間に、全く知らない後ろの人に話しかけてみたり、赤の他人と世間話盛り上がってみたり、店員さんがお客さんとのんびり話しながら行列を堂々と待たせている、なんてことにはほとんどならない。
《商品》に対してのみ欲求があるような気がする。
でも、大事なのってそこだけじゃない気がする。
便利と引き換えに失っているものはなんだろう?だからこそ、必要なサービスはなんだろう?失っている代わりに、必要に成ってくるものはなんだろう?しわ寄せがきているサービスや行政はどこだろう?どうしたら、改善できるだろう?
便利に感謝しながら、不便も楽しめるような生活をしていきたいなと思う。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。豊田市駅の移動カフェcafebusnonの希でした。
のんちゃんこんばんは^^
前のブログ早速シェアさせてもらいました(^^♪
書いてあったお店さんも、皆さんに知ってもらえるといいですね^^
今回のブログのテーマになっている
「便利すぎる事がもたらす弊害」
確かにふれられなくなった物事に対する弊害もありますが、有益な部分もあると思うんです。大体が企業などだと思いますが。
のんちゃんの書いた【例えば】のいろいろ。確かにコミュニケーションや楽しみ方のようなものが、消えてしまう様な弊害にはなっていると思うんですが、人件費の節約や労働負荷の緩和など、そういった部分にとっては有益なのではないかなって思います。
それと、これは難しいところですが、コミュニケートが苦手な人などもいたりするので、気を使わせない事も必要かと思ったりもします。
でも世の中全部がそうではない。
どこか懐かしいノスタルジックな食堂や純喫茶だったり、注文の時に声をかけた店員さんと、軽くおしゃべりが出来るような洋食屋さんだったり、それこそのんちゃんのお店(まだ行けてませんが(;^_^A)はコーヒーは手渡しでお会計も手渡しで軽く会話が出来る移動販売だったり、そういうお店を選ぶ人は選んで楽しんでいると思いますよ^^
自分はむしろそういう方が好きですね。雰囲気が落ち着く割に楽しむことも出来る感じがするので(^^♪
なので自分はこう思います。
便利と不便がちょうど良い世の中が生きやすいものかもしれませんね。さみしい感じもしますが、のんちゃんの言う通り便利にも感謝。スムーズな事も必要かとも思いますね。
また長文でした(;^ω^)
ではでは^^