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幸せとは、目の前にあるものに気付くこと
いつもおもしろい質問をしてくれるお客さんがいます。
ちょっと前は、この質問「ところで、のんちゃんの夢はなに?」
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今週は、こんな質問をしてくれた。
「幸せって何?」
それに答えるために、いつものカップスリーブにこう書いて渡した。
《「今」に気付くこと。》
すると、その方は、首をかしげた。
次の日、また同じお客さんが来てくれた。
そして、また同じ質問をした。
「幸せって、何?」
その日は、こう書いて渡した。
《私には、あなたの質問を聞くことが出来る耳がある。あなたの質問を考えられる頭がある。あなたの質問に答えられる口がある。私は今日、生きている。だから、私は幸せです。》
それを読んで、今度はうんうんと頷いていた。
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《幸せってなんだろう?》
もう、これは生まれてから死ぬまでそれぞれの人間の、永遠のテーマなのかもしれない。
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今から7年くらい前。
上京して間もない時。
一度だけ、牛丼屋さんのすき家で、ポロポロと泣いたことがある。
なんで牛丼屋さんで泣いてしまったのか。
牛丼しか食べられないなんて、情けなかったから?
悔しくて、悲しくて、絶対成功してやろうって思ったから?
違います。
牛丼が、美味しすぎて、感動して泣きました。笑
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上京したてのときは、バイトも決めずに行ってしまったから、最初の方はめちゃくちゃお金がなかった。
カフェのバイトも、何十個も落ちまくっていて、どんどんお金はなくなる。なので、いつもパンの耳と、もやしを食べていました。笑
実家から送ってくれたお米や缶詰や、おばあちゃんがたまに送ってくれる食べ物、その荷物の中の封筒に隠した、少しのお金。
荷物が届くたびに、家族の優しさに泣いていました。
それまで、牛丼なんて全然好きじゃなくて、なんとなくカロリーも高そうだし、どっちかといったらなるべく避けていた食べ物。
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それでも、やっぱりたまにはお肉が食べたい!ということで、その時ルームシェアしてた友達と2人で意を決してすき家に行きました。
いつも、食べたくも無いと思っていた牛丼。
それを食べながら、ポロポロと泣いていました。
(牛丼ってこんなに美味しかったっけ。。)
その後、カフェのバイトも始まって、学校も始まって、もうそんなに貧乏なわけではなくなったのだけど、、、、
あの時の牛丼は、一生忘れない。
最高に美味しかった。
そして、あの時の、あの時間は、確かに幸せだった。
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私が《幸せ》に敏感になったのは、この時に一緒に上京してルームシェアしていた友達の影響が、とても大きいと思う。
ちーちゃんは、どんな小さなことでも、いつも幸せを感じていた。
外に出て、「うわ!今日、暖かいねー!幸せだねー♪」
ビールを一口飲んで「最高に美味しいね!幸せだねー♪」
レストランに行って、料理を食べながら「幸せすぎて、ひと口食べるごとに切なくなる」
※ひと口食べると、ひと口分この美味しい料理が減ってしまうのが悲しい、という意味らしい。
と、とにかく、なんでもかんでも幸せがっていた。
目の前に《ある》ものを、いつも見ていた。
そんなちーちゃんを見ていると、こっちまで幸せになってくる。幸せは、連鎖するのだ。
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もし、自分は全然幸せじゃないな〜と思う人がいたら、ぜひ気付いてほしい。
この、ブログを見てくれているということは、きっとあなたは目が見える。それは、幸せじゃないですか?
きっと、ネットを出来る環境がある。それは、幸せじゃないですか?
今日、帰る場所があるとしたら、それは幸せじゃないですか?
誰かを(心の中でだとしても)想えるのであれば、それは幸せじゃないですか?
守るべき人がいるとしたら、それは幸せじゃないですか?
誰かのために、何かを出来る仕事があるのであれば、それは幸せじゃないですか?
一日の終わりに「今日も頑張ったな〜」と温かいお風呂に入れるのであれば、それは幸せじゃないですか?
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無いものを数える人生は、どれだけお金があっても、地位があっても、権力があっても、幸せではない、のかもしれない。
満たされないのかもしれない。
いま、目の前にあるものを数えられる人生は、お金がなくても、地位がなくても、権力がなくても、それは幸せ、なのかもしれない。
もうすでに、満たされているのかもしれない。
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幸せとは、なるものでもなく、目指すものでもなく、憧れるものでもなく、いま目の前に《ある》ものに気付くこと。
当たり前のように存在しているものがなくなった時に、大切さに気付くのであるならば、当たり前のように存在しているものがあるうちに、少しだけ気付く。気付こうとする。
それはもう、幸せでの第一歩なのかもしれない。
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最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。豊田市駅の移動カフェcafebusnonの希でした。
本当に《自分を大切に》出来ていますか。
「もっと自分を大切にしなよ」
言ったとことも、言われたことも、きっとあるはず。
自分を大切に、という言葉。自分を大切に、とはなんだろう。
もっと、身体を休めること?休養をとること?傷つけないこと?労ること?
贅沢をすること?ストレスを溜めないこと?我慢しないこと?
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それを掘り下げるには、まず《大切》という言葉を考えてみる。
そもそも《大切》の漢字はなぜ、切るという字を使うのか。
もしかしたら、《切》という時には、《大事なものを守る》《守るために決める》という意味が入っているのかもしれない。
本当に大事なことを守るために、切る。
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首を切る…守るとは逆に思えるこの言葉も、会社の経営を存続させ、多くの社員を守るために止む終えない手段と捉えれば、根本は愛のある言葉なのかもしれない。
切腹…という言葉も、もしかしたら何か(敗戦後の最期の生き様だったり、心の声だったり)を守るために自らの腹を切ったのかもしれない。(いま現代の自分たちには到底理解出来ませんが)
《切る》ということは、いっけん大事にしていないように思えるけど、実はちゃんと芯を大事にしていて、それがゆえに削ぎ落とす、愛のある言葉なのかもしれません。
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そして《自分を大切にする》とは多くを手に入れることではなく、不要なものを切り落としていく作業なのではないか、と思う。
とくに、感情について。
自分の感情をちゃんと感じてあげて、それを認めてあげて、必要のないものは手放していく。そういうことなのではないかと思う。
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生きていたら、腹が立つことも、イライラする事も、悲しくなることも、自分のことが嫌になることもある。
今日はなんだか、気分が良くない。元気が出ない。そんなこともある。
あの人は好きじゃない、あの人は好き。この作業は嫌い、この仕事は好き。そんな好みなんて山ほどある。
そういう自分の感情に、気付くこと。そして、そんな自分を認めてあげること。そしてそこに、たいして必要ではないモノがあるのなら、手放すこと。
それが自分を大切にするってことなんじゃないかと思う。
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本当は、好きなこと、あるんじゃないですか?
本当は、嫌いなこと、あるんじゃないですか?
本当は、やりたいこと、あるんじゃないですか?
本当は、やりたくないこと、あるんじゃないですか?
本当は、ムカついたんじゃないですか?
本当は、悲しかったんじゃないですか?
本当は、もっともっと、喜びたかったんじゃないですか?
自分のそういう感情に気付くこと。そして、そんな自分も認めてあげること。自分の感情を客観視すると、感情をコントロール出来るようになる。
それは決して《我慢》ではなく《客観視》という視点。
感情と、自分を、切って捉える。
たとえば、怒れちゃうようなことがあったら「あ、私、今、怒っているな〜」「自分はこういうことが嫌いなんだな〜」と感情を観察してみる。感情を、自分を知る手がかりにしてみる。
悲しいことがあったら「私、今悲しいな〜」「こんなに悲しいほど、自分にとっては大事なことだったんだな〜」と、感情の視点から、自分のことを見てみる。
そんなことをしている間に、周りの人に当たり散らしてしまうことはなくなる。
感情に支配されるのではなく、感情を利用してみる。
そういうふうに自分を見ているうちに、だんだん自分のことが分かってくる。自分は自分のプロフェッショナルであるべきだ。
そして、そんな自分を許して認めてあげることを《自分を大切にする》ということなのではないかと思う。
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自分を大切にするとは《自分》のプロフェッショナルになること。
最後までお付き合い頂きありがとうございました。豊田市駅の移動カフェcafebusnonの希でした。
目の前のことをまるごと受け入れ、楽しむ方法
朝、外に出たら、銀世界だった。
「見てみて!雪ーーーー!!やったー♪」
まるでスキー場に来たみたいだ。視界に映っているもの、すべてが白い。
(一生で、あと何回雪を見られるのだろう。雪って、なんて、素敵な贈り物だろう。)あったかいコーヒーを飲みながら外を眺める。
音もなく、深々と、ただひたすらに降っている。このまま振り続けたら、いったいどうなっちゃうんだろー♪なんて妄想しながら家を出る。
まだ誰も通っていない雪を踏むのは、なんて気持ちがいいのだろう。
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週末、たくさん雪が降りましたね♪
土、日と先日紹介させていただいたBESS東愛知さんでの出店でした。悪天候の中、たくさんの方とお話できて楽しい週末になりました。
あ〜楽しかった。本当に楽しかった。ありがとうございました♪
「住む」より「楽しむ」BESSの家
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週末は、先週から雪予報でした。そして、予報通りに雪が降りました。
そんな朝に思ったこと。
《どんなことが起きようと、目の前のことを受け入れて楽しめるのは、いろんな可能性を想像して、それに備えた人の特権だ。》ということ。
もし、きっと大丈夫だ、とスタットレスを履いていなかったら。この雪は楽しめなかった。
もし、ちょっと高いな、とチェーンを買っていなかったら、この雪は楽しめなかった。
もし、先週、チェーンの練習をしていなかったら、この雪は楽しめなかった。
もしもを想定していたから、自分に出来ることは備えていたから、不安以上のわくわくする感情を感じることが出来た。
もちろん、自分がいくら気を付けたところで、他の車が突っ込んでくるかもしれないし、スタットレスでもだめな場所もあるかもしれないし、何があるかわからないから本当に気を付けなければならないけど。
もしかしたらの可能性に備えて、自分に用意出来ることはしておく。それが大事なのかもしれない。そして、自分ではどうしようもないことは、必要以上に不安がってもしょうがない。
いつでも心の準備をしておくことが、何でも楽しむコツなのではないかと思う。
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逆に言ってしまえば、なんでも楽しむためには、あらゆる可能性を想像して想定して大きな意味で覚悟しておくことが大事なのかもしれない。
自分に出来ることは、すべてやった。あとはもう、自分どうこうではなく、自然のみぞ知る。相手のみぞ知る。
そうなって初めて、目の前のことをすべて受け入れることが出来る。(なんでもかかってこいっていう状態)
受け入れるという事は、あらゆる出来事に笑ってみせることだ。
会社が潰れようと。面接に失敗しようと。好きな人と別れることになろうと。
そして、目の前の出来事に笑ってみせると、楽しくなってくるのだ。
そう、《楽しいから笑うのではない。笑うから、楽しいのだ。》
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「あらゆることを想定する」と書いたけど、その最骨頂は、《明日死ぬかもよ?》ということなんだと思う。
いい本だった。とても、とても、いい本だった。
自分も。大切な人も。明日死ぬかもしれない。そう思いながら生きると、毎日はもっと鮮やかにうつるのかもしれない。
もしも、明日、死ぬとしたら。
あなたはどんな1日を過ごしますか。
もしも、明日、死ぬとしたら。
それでもなお、私はいつものお客さんに、いつもの一杯をお渡しする。
そんな仕事をしている日々に、心から感謝する。
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最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。豊田市駅の移動カフェcafebusnonの希でした。
目的と手段 本当に大切なことを思い出すために。
何かの計画に違和感を感じたり、行き詰まる時、目的と手段をもう一度考えてみることにしている。
目的と手段を明確にしていない行動は、だいたい上手くいかない。なぜなら、ゴールが明確ではないから。
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そもそも、このことを考えるようになったのには、1冊の本がきっかけである。
《ゆっくり、いそげ》著者:影山知明
書いてある章を簡単に説明すると…
例えば、会社とは、人が豊かに幸せになるために存在しているものである。しかし、その為には利益を出していくことが必ず必要になる。会社として、大勢の人を幸せにするためには利益を出していかなければいけない。※利益を、人を幸せにする手段と考える
しかし、利益を1番の目的と考えてしまうと、目的と手段が逆転してしまい、結局何のために会社があるの?となってしまう。※利益が目的、そこで働く人はそのための手段という現象が起きている。
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これは、大きいことから小さいことまで日常の至る所に存在している。
私で言えば、
《コーヒーは目の前の人を笑顔にする手段である》と考えている。つまり、本当に大事なのは目の前の人の笑顔であり、そのために良いコーヒーを提供したい、と考えている。
これが本来の姿。
だが、手段が目的になってしまうと、
《コーヒーを出すために、利益を出していかなければいけない。その為に沢山の人に買ってもらわなければいけない》となる。
これがどっちが間違っているわけではなくて、本来の自分の意志はどちらにあったのか。それが大切なのである。
《より、人生が豊かになるために本を読む》のが本来だったのに《本をどれだけ読めるか》にすり替わってしまったり、
《より豊かに生きるために、仕事をしてお金を稼ぐ》が本来の姿だとしたら、《たくさんお金を稼ぐと、豊かになれる》と思い込んでしまう。
本当は、豊かになるために働いているのに、それによって体調を崩したり、自ら命を落としたり、不健康になってしまったら、手段だったはずのお金が目的になり、本来の目的は達成できない。
《市民の豊かな生活のために、いい環境をつくる》が本来の姿だったのに、手段だったはずの計画自体が目的にすり替わってしまうと、結局なんのためにその計画を始めたのか、途中でわからなくなってしまう。
本当の目的が、置いてきぼりなのである。
本当は、本来は、きっとみんな誰かの幸せを願って何かを始めたはず。(自分を含め)
ただ、本当の目的とそのための手段を混同してしまうと、結果的におもっていたような効果が得られない。
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お客さんに対しても一緒。
このお客さんはなにを目的に来てくれたのか、を考えることがとても大事。それを知らなきゃ、想像しなきゃ、いい仕事は出来ない。
特に、出張時の依頼に対してはなおさら考える。
私は、何のためにここの現場に呼ばれるのか。依頼主さんは、私になにを求めているのか。
お客さんに喜んでもらうために私を呼んでくれたのか。はたまた、集客が目的だったのか。賑やかしなのか、感謝を伝えるためなのか。
どれがいいとか、悪いとかではなく、それを知らなければその日のベストなパフォーマンスは出来ない、ということなのである。
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本当は、なんの目的だったのか。大切ほど、改めて考えたい。
《悩みたくなければ、考えないこと。悩みを解決したければ、考えること。》
どちらを選ぶも、自由です。
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最後までお付き合い頂きありがとうございました。豊田市駅の移動カフェcafebusnonの希でした。
地元ではない場所で始める理由
私のいつもいる豊田市駅は《地元》ではありません。
この仕事を始める前に、豊田市駅に来たことは3,4回。(学生の時に、おいでんまつりの花火とかで来てました)
よく聞かれるのが「なんで豊田でやってるのですか?」という質問。
その理由は、3つ。
1つ目は、頭のなかで描いていたお客さんが豊田に多いと思ったから。(働いている方の出勤途中や休憩中に、利用してもらえたらいいなと思っていた。そして、ちょっと仕事で疲れたときのリフレッシュやおさぼりポイントにも。)
2つ目は、《自分の地元ではない》から。
3つ目は、本当にありがたいご縁を頂いたから。
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特に2つ目は、重要な点でした。
なぜ、地元ではない場所がよかったのか。
お店を始める目的が《地元に貢献したい・盛り上げたい》だったら、まず地元でやったほうがいい。その為に始めるのだから、それ以外の場所は候補に浮かびもしないはず。
目的がそれなら、それが正解。
ただ、私は周りが《知らない人ばかりだからこそ》出来ることをしたかった。
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例えば、友達のやっているお店に行った場合や、どこかのお店に知り合いを通じて連れて行ってもらった場合。お店のサービスが良くなるのは当たり前だ。
お友達の、お友達。家族の、知り合い。共通の知り合いがいるetc…
こういったつながりは本当にありがたいもので、最初の方は大きな力になってもらえることは間違いない。知り合いから始まって、どんどん広がっていくのはとても素敵なこと。
ただ、友達や知り合いに感動と驚きは与えにくい。なぜなら、笑顔もサービスも友達ならば当然だ(と思ってしまいやすい)からだ。
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逆に、私が今まで感動したサービスってなんだろう?と考えた時に思い浮かぶのは、全く知らない土地や初めてのお店、もう二度と出会わないかもしれないお店に行った時。
《もう、二度と会わないかもしれないのに素敵なおもてなしを受けた》と思った時。
初めてあったのに、なんだかとっても居心地の良い空間を作ってもらった時。
そんな時には、感動するし、心に深く残る。そして、誰かに伝えたくなる。
地元でも、それが出来ないというわけではないけど、少し離れたほうがよりその傾向は強くなる。
私は、友達のたまり場を作りたかったわけではない。お客さん同士も、「新しい出会いがあったな、面白い人に出会えたな」「知らない人だからこそ、刺激になったな」そんな雑然とした空間、歯切れ良い関係の場所を作りたかった。
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初めまして、から築く関係は、なんだか好き。
目の前の人が、どういう人なのか最初は印象からしか分からない。でも話していくうちに、少しづつ知っていく。
ゆっくりと。そして、しっかりと。
こうして出来た関係は、何にも変えられない宝物。
私は、今まで来てくれた方々を、ずっと覚えてる。本当に大好きなのだ。今は離れてしまっても、もう会えることがなくても、ずっと大切で大好きな人なのだ。
世の中には、素敵な人がいっぱいいる。老若男女問わず。
日々そういう素敵な人にたくさん出会える今は、本当に楽しい。
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最後に、少し前に読んだ本で好きだったフレーズを。
《初めてのお客様には、まるで常連のお客様のように接しなさい。そして常連のお客様には、まるで初めてのお客様のように接しなさい。》
なかなか難しくはあるけれど、とても好きな言葉です。
だーれも知らない場所に飛び込んでみるのも、けっこう面白いですよ♪
最後までお付き合い頂きありがとうございました。豊田市駅の移動カフェcafebusnonの希でした。
『プライドが邪魔をして、◯◯出来ない』のは
『プライドが邪魔をして、◯◯出来ない』
この言葉に、大きな違和感を持つ。
プライドを、あなたの前に立ちはだかって邪魔をする壁ととらえるのか。
それとも、見守って支えてくれている自分の柱ととらえるのか。
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プライドを辞書で引くと《誇り》という言葉が出てくる。他には《自尊心》
「プライドを持って、仕事しています」
そういうと、仕事を任せた方は安心感がある。彼ならきっと大丈夫だ、と思う。プライドを、自分を奮いたたせる道具として上手に利用している。
「自分の仕事に、誇りを持っています」と言い換えることも出来る。
でも、プライドを言い訳にしているのを聞くと、途端に「そんなプライドいるの?」と言いたくなってしまう。
「プライドが邪魔をして出来ない」とは言うけど、「誇りが邪魔をして出来ない」とは言わない。
誇りとプライドは、必ずしもイコールではない。
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自信とプライドにも大きな関係があるようにも思う。
自分に自信がある、と一口に言ってもどの部分に自信があるのかで心の安定は大きく異る。
容姿やスタイル、学歴や肩書、外側の自信というのは誰かの価値観の上に成り立っている。周りが自分をどう評価しているかを感じ、それに対して人より優れていると感じるから《自信が持てる》
ただ、自分の今いる世界を出てしまえば、簡単に崩れることもある。例えば、もっともっと優れている人がたくさんいる環境に移動した時。その自信は、保てなくなる。(そのおかげでさらに成長できたりするから、悪いとは限らない)
それに対し、内側の自信というのは崩れることがない。自分の心の中に誇りと自信を見出している。武器も飾りも、学歴も資格も肩書も、過去の栄光もなんにも持っていない、ハダカの自分を信じるということ。
それが、本当の意味で《自分に自信を持っている》ということなのではないだろうか。
基準を決めているのは自分で、誰かとの比較で保っているものではない。
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外側の自信が相対評価だとしたら、内側の自信は絶対評価、だ。
相対評価は、全員が5を取ることは出来ないから、自分が5を取るためには、誰かを1や2だと見下さなければいけない。
絶対評価は、全員5でもいいのだ。誰かを見下す必要がないし、自分を卑下することもない。私も素敵だし、あなたも素敵だね、ということ。
だから内側の自信がある人は、相手を見下さない。絶対に。
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そして、内側の自信があれば、プライドを自分を邪魔する壁だとは捉えず、自分を支えてくれる柱だと捉えることが出来る。
プライドと、誇りと、自信。
似ているようで、意味合いはすべて異なる。微妙な日本語のニュアンスだからこそ、会話や自己を表現する時に、誤解を生む。自分のことですら分からなくなってしまうときもあるほど、だ。
でも、この繊細な違いを感じ取れる日本語を、深く掘り下げながら相手のことと自分のことを考えるのが好きだ。
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今まで壁となって自分の心を守ってくれていたプライドに感謝を告げよう。
そして、自分という人間を支えてくれる誇りを持ち、なんにもない自分を信じてあげよう。
それが、自分の心と同時に、誰かの心をも救う日が必ず来る。
最後までお付き合い頂きありがとうございました。豊田市駅の移動カフェcafebusnonの希でした。
新しいことに、恐怖とときめき、どっちを感じる?
少し前に、こんな話をしてくれた人がいた。
「行ったこと無いところに行くのが、怖い」「やったことない事をするのが、怖い」
新しいこと=未知のこと=知らないこと=恐怖
そう思う人が、臆病な人だとは思わない。でも、失敗をするのが嫌いな人なのかもしれないなと思う。
もしかしたら。
大人になるにつれ、誰しもそんな感情は大きくなるのかもしれない。
何でも出来るようになってしまったからこそ。出来ないことが出てくるのが怖くなる。
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「大人になったら、出来ることは増えるのかな?出来ないことが増えるのかな?」
そんな言葉を残してくれた人もいた。
『出来ないことが増える』わけじゃなくて『してはいけないと思いこんでいることが増えている』のかもしれない。出来ることばかりになってしまったからこそ。
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出来ると知っていることだけをするのは、プライドも傷つかないし、労力もいらないし、頭も使わないし、きっと楽なのかもしれない。
ただ、それって、ドキドキするのかなって思う。せっかく生きているなら、ときめきたくない?わくわくしたくない?
私は、生きている限り、ときめきたい。わくわくしたい。
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例えば、の話。
『今の移動販売車NON号が壊れたら、どんな移動販売車を作りますか?』『車を大きくしますか?』そう聞かれることがある。
でも、私はこの車が壊れたら、きっともう移動販売車は作らない。
なぜなら『きっと、また同じ心持ちで、同じことをしたら、上手くいく』そう知っているから。始めてない時から上手くいくと思っていたんだもん、2回目なら、なおさらだ。(これをまったく根拠のない自信という)
分かりきった事をすることは、ドキドキしない。勝敗を知ってるゲームに、誰が興奮する?どうなるかわからない事だから、楽しい。知らないからこそ、わくわくする。
成長は、そういう時にする。きっと。
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あ、誤解を生まないように断っておくと、だからと言って移動販売をやめたいわけではないです。今は毎日が本気で楽しくって、幸せなので。
ただ、人生でやりたいこと、やってみたい仕事がまだまだあるので、きっと車が壊れたら『今がそのタイミング!車が壊れたからこそ、やれることしよ♪』とか言い出しそう。私の場合。
子どもがいるからこそ、やれること。年を重ねたからこそ、やれること。素人だからこそ、やれること。家族があるからこそ、やれること。
その時、その時で、違うはず。
ただ。自分の培ってきたひとつひとつの経験は、その先で必ず、つながる。
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年末を区切りに、環境を変える人、変わる人、さらに上を目指す人、新しくチャレンジする人、そういうタイミングの人に出会うことが多かった。
そんな大切な時に、相談だったり報告だったり、してもらえるのはやっぱり嬉しい。
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私でよければいつでも全力で、背中押します。いや、突き飛ばします!
だって、自分を信じてる人は、絶対大丈夫って知っているから。
今日から、新しい場所に向かうあなたに向けて、最大のエールを。
今日は、かならずいい日になります。いってらっしゃい♪
5円でご縁を循環させる方法
あけましておめでとうございます。
自宅で、年越しをしようと張り切って、カウントダウンの4分前に寝てしまうという…
相変わらずの私ですが、本年もよろしくお願いいたします。
今まで、地元の伝統行事やお祭りにはあまり参加してこなかったのですが、山の中に引っ越してきて、驚いたことの一つに《自治会》というものがあります。月に一回2時間程度の集会と、ちょこちょこと神社などに関係する行事があり、元旦の日も朝の9時、神社に全戸集合!の行事がありました。
この神社には神主さんがいないので、町民で順番に神社係を回して、保っているそうです。
その元旦の集会で、御札をいただきました。
伊勢神宮と静岡の神社から、全30世帯分をどなたかがまとめて頂いてきてくれるそうです。
集落全員の安全と健康を願って。
朝から、そのことに感動してしまいました。大きな街では、まずありえないこと。町民みんなの幸せを願って、誰かが遠い所まで足を運んで、その役を引き受けてくれていたなんて。
ありがたいです。年始早々、感謝でいっぱいになりました。
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そして、初詣といえば。
今年も恒例、5円でご縁を循環させる日。
どんな日かというと、NONでお代として受け取った5円玉を自分の10円玉と交換して(おつりで5円をお渡しすることは無いので)5円玉ばかりを1年分貯めておき、その年のはじまるときにまとめてお賽銭としてすべて投げ入れる、という日。
意図としては、受け取ったご縁を大事にし、さらにまた循環させるために手放す。
それが5円でご縁を循環させる方法です。
1年貯めていると、だいたい毎年150枚くらいになります。今年は、少し多かったような気もします。
この日が実は、けっこう好きです。なんだか、新たな縁も巡ってきそうな気がするし、今までの縁にもありがとうを伝えられるような気がして。
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題名で、5円でご縁を循環させる方法、と書きました。
ただ。。
1つだけ注意して頂きたいのが。。
この行動自体には、《なんの意味もない》ということです。
だって、私が勝手に3年前に考えた方法なので。もちろん意図だって、後付けです。笑
こういう〇〇の方法とか法則って、それ自体に意味は無いことが多いです。ただ、意識を変えたり行動を変えたり、そこに至るまでの経緯に意味がある。
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この5円を循環させる方法、で言えば…
普段、受け取ってもお釣りで返すことが出来ない5円玉。たいていのお客さんは申し訳ない感じで「5円玉でも大丈夫ですか?」とか「5円玉ですみません」という雰囲気を払う時に醸し出しています。(もちろん同じお金なので、私は5円玉でも全然かまわないのですが)
そんなときに5円でご縁ルールをやっていると「5円玉、私じつはとっても嬉しいんです♪むしろありがとうございます♪」という言葉が自然に笑顔とともに出てくるようになる。(ご縁をいっぱいあつめて、いっぱい循環させたいから)
その反応をみたお客さんは、ほっと安心する。
その結果、回り回ってまたご縁を感じるようになる。
その他には、
単純に5円玉をみるたびに嬉しくなって、ご縁に感謝することを頻繁に思い出したりする。
そもそも身近な生活の中で《ご縁を意識する》ようになる。
《自分が意識している情報は、なにも意識していない情報より、カウントする意識も芽生えるため、ご縁の数を意識して数えていて、結果的にすごくたくさんのご縁があったかのように思える》
つまり、お賽銭にたくさんの5円を入れたから、たくさんのご縁があった!というわけではないのである。(超ワタシ的な研究結果)
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世の中には、言葉で説明しようとすると、ものすごい時間や労力がかかる《方法や法則》がたくさんある。だから、行動の部分を切り取って、さもそれをしたら成功するように伝えてしまったりする。
有名なのは《流れ星に願いごとをすると叶う》という法則。これは、流れ星が願い事を叶えてくれるわけではない。
一瞬で消えてしまう流れ星に、3回も繰り返せるほど意識している願い事ならば、必ず叶いますよ ということなのだ。
流れ星が願いを叶えてくれるわけではなく、いつも願いを心のなかに意識していることは叶えるための手段である、ということ。
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このことに気付かないで、方法のみを信じ、結果が出ない!と嘆く人が多すぎるのではないかと思う。方法に振り回されても、意味はない。大切なのは、意識。
方法なんて、自分で好きにつくっちゃえばいい。
他人のルールは他人のルール。私のルールは私のルール。
振り回されず、好きに生きましょ♪
相変わらずな私ですが、本年もよろしくお願いいたします。豊田市駅の移動カフェCAFEBUSNONの希でした。
目標は自分にとって1番大切なものだけで十分
いつも年の終わりや始まりに、「今年はどんな年にしようかな~」と考えます。
私の場合、真面目なちゃんとした目標ではなくて、限りなくゆるーい目標です。
一昨年は、たしか「自分に素直になる。いちばん大切なものを、大切に出来る自分でいる」
去年は、「遊ぶように生きる」
これでもかというくらい、ゆるすぎる目標。
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よく「次の目標はなんですか?」とか、「具体的な計画は?」とか。
聞かれることもあるんですが、その時その時で「いい!」と思うことを選択するタイプなので、はっきり言って、細かい目標はありません。
目標は頭で考えるものではない、と思っているからかもしれません。
動きたくて動きたくて、やりたくてやりたくて、我慢できない!と思うことが出てくるまで、自分に問い、素直になり、心の中を見つめる。
「〇〇をやらなくては!」だから動く。ではなく「〇〇がしたくてしたくてたまらない!」ものを見つける。
だから、目標が出来たときには、もう動いてる。
目標を立てなくては!と設定して、達成できた達成できなかったと一喜一憂している時間があるなら、自分を見つめる時間に使う。
私はきっとそういうタイプ。
目標を設定して、それを達成することに喜びを得る登山のようなタイプと、その場の波をうまく乗りこなし、その一瞬一瞬を楽しむサーフィンのようなタイプがいる、とある本に書いてありました。
私は間違いなく、後者です。
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こんな私ですが、最後にたどり着きたい人生の目的地ははっきりと、あります。
それは
《目尻に笑いジワが深く刻まれた、かわいいおばあちゃんになること》
中学校3年生の時、国語の教科担任だったトモコ先生という人がいました。いつもにこにこしていて、優しい先生でした。ある時、授業の合間にこんな話をしてくれました。
「顔っていうのはね、自分で創っていくものなんだよ。私は40代のころは、ピリピリしていていつも怒っていたから、そういう顔をしていたの。いじわるそうな顔をしていたの。でも、50代になって、私の中身が変わったら、顔も変わったの。」
いつも不機嫌でいたら、不機嫌な顔になる。いつも不安がいっぱいだったら、不安そうな顔になる。いつも優しい心でいたら、優しい顔になる。
そんな話をしてくれました。
笑いじわが深く刻まれる、というのは一瞬にして出来ることではありません。おばあちゃんになって、「よし!笑いじわをつくろう!」と思って、出来るものではない。
長年かけて、たくさん笑って、刻んでいくものだから。
だから、いつも笑っていられるような生き方を選びたい。いつでも優しくいられるような人生を創りたい。そのために「なんの仕事をしようか」「だれと一緒に過ごそうか」「どういうライフスタイルでいようか」
そうやって逆側から責めていく。
いつも笑っていられること。我慢や不満や不機嫌とできるだけ離れたこと。自分に素直になれること。わくわくした毎日になれること。
それってなんだろう?そう思って仕事を選ぶと、選択肢はたくさんある。なによりそうやって選んでいること自体がワクワクしてくる。
笑いジワの刻まれたかわいいおばあちゃんになりたい。
だから私は、今、この仕事をしている。
もしかしたら、そのうち違う仕事になっているかもしれない。でも、きっとそれも笑いジワの刻まれたかわいいおばあちゃんになる為の動線である。
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というわけで、来年もゆる~い目標。
「とりあえず、やってみる。とりあえず、笑ってみる」
うん、これでいこ。
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31日。いつもより、少しだけ気の引き締まる日。今日もあなたにとって、穏やかな1日になりますように。
2016年、たくさんの時間を使って読んでいただきありがとうございました。来年も、より素敵な言葉を伝えられるよう日々勉強していきます。
これからも、よろしくお願い致します。
豊田市駅の移動カフェ CAFEBUSNONの希でした。
「あなた!2016年、すんごい年になるでしょう」
本日の営業をもちまして、2016年のcafebusnonの営業は最後となります。
今年も1年たくさんの出逢いがあり、「またね」もあり、たくさんの笑顔を目の前で見ることが出来ました。
関わっていただいた方、遠くから応援してくれていた方、いつも来てくれたお客さま、近くのお店の方々、本当にありがとうございました。おかげさまで、幸せな1年になりました。
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去年の《私の今年の漢字一文字》は《穏》にしたので、今年は何にしようかと考えていました。ずっとずっと、考えました。でも、やっぱりこの一言しか出てきませんでした。
今年も私の1年をあらわす言葉は、やっぱり《穏》でした。穏やかに、暖かい1年でした。
まるで、水の上に浮く浮草のように。自分の周囲で起きるたくさんの出来事の波に、左右されるでもなく。左右されなさすぎるでもなく。沈むわけでもなく、飛び上がってしまうわけでもなく。心の水平はいつも保てるように。
喜ばしい出来事は、それを最大限に感じ。切ない出来事は、締め付けられるような心の動きを、また楽しむ。
生きるほどに、生きることが好きになる。日に日に、自分自身を好きになる。
そう思えるようになったのは、ここ2~3年のことかもしれません。
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20歳のころ、なぜか苦手な占いに行くことになりました。その時、手相を見てくれた占い師のお姉さんにこう言われました。
「2016年!あなたにとって、すんごい年になります!」
その時は、2009年。
すんごい年って、なんやねん!そう思いながら、なぜだかその一言だけはずーーーーっと心に残っていて覚えていました。どっかで意識していました。
2016年。
今年、すんごい年になったのか、なってないのか、は私には分かりません。
ただ、そういう意識があったからか、チャンスがありそうな時、迷った時は《すんごい年になりそうな方》を選びました。
その結果《すんごい幸せな1年》になりました。
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占いは、誰かがそれを指し示してくれるもののように感じるけど、これって自分で根拠なく決めてもいいんじゃないかと思うのです。
《私の人生は、きっとすんごい人生になる!》
そう思ったらきっと、迷った時、選択する時、《すんごい人生になりそうな方》を選ぶんじゃないかと思います。無難、とか周りの目とか、そういうのを一切無視した選択を。
その結果、きっとあなたにとって《すんごい幸せな人生》になるのかもしれないです。
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私にも、まだ、何が正解かは分かりません。
ただ、自分がその証明になれたらいいなと思います。
来年も、きっと私にとってすんごい1年になります。
そして、あなたにとっても。
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今年も、あと僅かではありますが、心穏やかに過ごせますように。
いつも長々とした文章を読んで頂き、ありがとうございました。連休中も、ブログは返信、更新していきます。引き続きよろしくお願いいたします♪豊田市駅の移動カフェcafebusnonの希でした。