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森、道、市場 2018 行ってきます
おはようございます。
今日は、ラグーナビーチで開催される、森道市場の日。
待ちに待った、楽しみにしていた日。今週は、ずっとわくわくしていました。
愛知県で開催されるイベントの中では、最大級じゃないかとも思われるような一大イベント。全国からちょっといいものが集まるイベント。お昼から騒いでも飲んでもふざけてもOKなイベント。出店者さんも楽しくなっちゃうイベント。
今日は天気も良さそうなので、思いっきり楽しめそうな気がします。
音楽は正直そこまで分からないタイプなので、雑貨とおやつとコーヒーとフードメインの一日になりそうです。
大人って最高かよ
大人って、本当に最高!と、私自身は大人になってからの方が生きることの楽しさに気付きました。
だって、自分の好きなように遊んで良い。それに、自分の好きなように真剣に遊んだ結果、仕事にすることも出来る!と知ってしまったから。
それには、真剣に超真面目に遊ばなければいけないけど。
子どものうちは、真剣に遊んでも仕事にはならなかったけど、大人になったら真剣な遊びは仕事になる。
【仕事は、大人だけに許された娯楽】という言葉を見かけたことがあります。そう思えるような働き方を出来る人は一部かもしれないけど、不可能ではないのかなとも思います。
今日は、きっと真剣に遊ぶ大人にたくさん出会えるのではないかと思っています。
マニアックなお店の店主さんとか、コツコツものづくりをひたすらしている店主さんとか、自分の道を突き進んでいる店主さんとか、たまらないです。
思いがあるお店や、ストーリーを感じるお店ばっかりで、ドキドキします。
好きを仕事にした人たち、真剣に人生を遊び倒す人たち、そんな人達を眺めてパワーをもらってこようかと思います。
さ~楽しむぞ~!いってきまーす♪♪
後ろ向きで、前へ進む
後ろにしか進めない人は、前に進めるのか
もうすぐ生後7ヶ月のつむつむ君。寝返りが出来るようになって以降、手の力で床を押して家の中を探検しています。
マットの上に寝かせておいても、全然違うところで唸ってる。この前も、洗濯物を干している間に土間に落ちそうになっていました。
ハイハイで前に進めない分、自分の意図していない後ろ方向に進んでしまうようでいつも「うぎゃー」と怒っています。
怒ってはいるものの、前と違って「動く」という事ができるようになった分、なんだかちょっと楽しそう。行きたい方向に行けないのはもどかしいけど、あとすこしの間はこの後ろ向き走行スタイルを見守りたいと思います。
この、後ろ向きにしか進めないという現象。後ろ向きなら進める、という現象。ゴールに向かって前に進むことが出来ない分、一見、ゴールにたどり着けることがないんじゃないかと思ってしまいます。しかし、自分の向きさえかえれば、行きたい方向に行くことも出来ると言えるのではないでしょうか。
お尻から、ゴールに近づいてもいいのではないか、と思います。
後ろに進んでしまうのが向かい風のせいならば
向かい風がある時、いつものちからで漕いでもなかなか前には進みません。頑張って、頑張って、やっと進んだ!と思っても、一瞬の隙きを突いて押し戻されてしまうこともあります。
風向きは自分の力で変えることは出来ない。
そんな時は、自分の帆の向きを変えればいい。
一直線にゴールへは行けないけれど、帆の向きを変えれば遠回りしてでも進むことが出来る。
他人と風向きは変えられないけれど、自分と帆の向きは変えられる。向かい風を利用する。
追い風ばっかりの人生ではない。でも、向かい風ばっかりの人生でもない。いつでもすいすい進んでいるように見える人は、向かい風を上手く利用している人かもしれないです。
後ろ向きでも、前に進める
そのためには、今どの方向から風が吹いているのかをキャッチするチカラがいります。それには、目をつむって五感を研ぎすませて、感じること。
今は、遠ざかりながら「んンま’’ま’’あ’’〜〜」と私を呼ぶつむつむ君。もがいてもがいて、後ろに進んじゃう愛くるしい姿も、今だけの可愛さとして胸に刻んでおきます。
つむつむくん、今日もお腹で家の中のお掃除お願いします。ナカジマノゾミでした。
【豊田市ピッツア】5月30日はイルファーロへ
豊田市のピッツェリアといえばイルファーロ
豊田市駅には、石釜で焼いた美味しいピザやさんがあります。子連れでも歓迎してくれるアットホームなお店で、大きなピッツアや前菜、メイン料理まで。美味しいひとときをお得な価格で提供してくれます。
豊田市駅からスタジアムに向かう道沿いのイルファーロ。大好きなイタリアンのお店です。
そのお店のシェフの男の子。
いつも休憩中に移動カフェに寄ってくれていた彼は、とっても穏やかな人でした。子どもが大好きで、子どもが来ると一緒になって走り回っていました。移動カフェに来たおじいちゃん達の話を真剣に聞いてくれる人でした。
シャイだけど、しっかりと思いがある人でした。
料理を出したお客さんを、こっそりとキッチンから観察しちゃうような人でした。お客さんがひと口料理を食べて美味しそうな顔をしてくれたら、それだけで幸せになっちゃうような人でした。
この前のお客さんが、また来てくれた!そのことを、嬉しそうに話してくれる人でした。
ドンっと自分が前に出るタイプではないけれど、誰かの喜ぶのを見守りながらサポートしてくれる人でした。
誰かの「美味しい顔」が、1番のモチベーションになっちゃう人でした。
そんなシェフの涼くんが、この度ピッツアを習得してお披露目パーティーをするそうです。
R-K 初夏のPIzzaお披露目イベント
5月30日(水)
場所 イルファーロ
愛知県豊田市喜多町4-28 豊田プレステージホテル 1F
豊田市駅徒歩5分
時間 5時〜9時までに受付
ビュッフェ形式+フリードリンク(アルコール有)
大人 2500円 小人 1500円(未就学児 無料)
5月30日は、ピッツアの日。
涼くんのピッツアデビューを楽しみにしています。5月30日はイルファーロへGO!
【おとなの日】おうちでベルギービールウィークエンド
毎年、名古屋の久屋大通公園で開催されるベルギービールウィークエンド
今年も、絶対行こう!意気込んで、栄の宿までとっていたのですが、行けませんでした。がびーん。
唯一行けそうな日に大雨予報、さすがに大人だけじゃないとなると雨の中行くという選択にはならず、、だったら!ということで、自宅でベルギービールパーティーをしました。
輸入ビールは、イオンスタイル豊田で購入。
以前は豊田のT-FACEにDELIというお店が入っていて、仕事帰りに頻繁に寄っていたのですが、少し前に閉店してしまったので、最近は豊田ジャスコ改装後のイオンスタイル豊田で購入しています。
以外にも種類がそろっていて、テンションはあがります。
「今日はママ何にもしないので!」という宣言通り、家族3人でDVDをみてだらだらしました。
「ママのふざける日っていつ?」
子どもを生んだばっかりの時に、先輩ママの友達に聞いたことがあります。「ママがふざけても良い日っていつなんだ?」と。まあ、みんな困惑してました。(何言ってるんだこいつ?)という空気をバンバン感じました。
ふざけるっていうのは、ギャグを言うとかそういうことではなくて。
今日は何にもしないぞー!とか。昼から飲んだくれてやる!とか。歩きながら酒のんでやる!とか。家事も育児もしないぞー!とか。料理しないぞー!とか。
サラリーマンで言う、金曜の夜から日曜の昼までの気持ちのこと。
産後1ヶ月目、授乳とオムツ替えと沐浴を1日中せっせとしながら、ふと世の中のママはいつふざけているんだろう、と疑問に思いました。
仕事も家事もしてはいけない日
ヨーロッパでは、週に一度は仕事も家事もしてはいけない日なんていうものがあるそうです。スーパーやショッピングセンターが休みなのはもちろん、外食も遊園地もお休み。さらには、ママもパパも洗濯も掃除もしてはいけない日。ご飯は、前日に買ってきておいて、簡単に済ませるのかな。
日本では、なかなかそこまで徹底しては出来ないかもしないけど、すごくいい日だなあと思いました。日本では、休日は仕事以上に疲れてしまうママも多いのでは無いか思います。
子どもも預けられない、遊びに連れて行ってあげなくていけない、溜まった家事をやらなくてはいけない、ご飯も朝昼夜つくらなくてはいけない。
…これって、全然休日じゃないよね。
おとなの日と題したこの日は、ずーっと何にもしなかったので、つむつむ君は終始ご機嫌。やらなきゃいけない事があるとかまってあげられない時間が出来てしまうけど、この日はいつもよりつむつむ君に向き合えたような気がします。
というわけで、この日は母乳もおやすみでした。生まれてから、9割9分母乳育児でしたが、それは【子どもの為を思って】ではなくて、私がその方が楽だったから。特に完全母乳にこだわっているわけではありません。
【子どもの為を思って】ママがストレスを溜めていることがあるとすれば、それは結果的に子どものためにはならないと思う。というのが私の持論なので、今後もゆるゆるとやっていこうと思います。
そんなぐでぐでなおとなの日。今後もちょくちょく開催予定です。夏の暑い日はもっと最高だろうなあ。夏がくるのが楽しみです。ナカジマノゾミでした。
空気をデザインするチカラ
服をデザインするように、空間デザインするように、人は空気もデザインしているのだと思う。
空気をデザインする、とはどういうこと
空気をデザインする、とは、言い換えると雰囲気を創るということ。人と人との間に流れている目に見えないもの「空気」。それを、創る。
心地いい空間というのは、誰かの意図で空気がデザインされていることがある。
なんだか、ここにいると落ち着くなあーとか。この人と話していると、なぜか心地いいなあーとか。距離感のとり方がちょうどいいなあーとか。そんなことを思ったことはありませんか。
「なんだか」とか「なんとなく」という曖昧な表現しか出来ないもの。数値で測れないもの、人によって、単位も色も重さも変わるもの。実態はないようで、たしかにある。
とても心地のよい空間だった場所が、見違えるほど殺風景になっていた
以前は、きっと誰かの意図で空気がデザインされていたはずだ。ひさびさに訪れたら、まったく違うものになっていた。
空気を作るには、装飾や外観も大事だけど、なぜそこでそれをしているのかという目的が1番大切だ。その目的は、必ずそこを訪れた人にとって、伝わってしまうのだ。
表情1つ、目線1つ、仕草1つから、空気をデザインしているのは自分だ。
そして、目的がなくなったり変わってしまえば、それまでと同じ場所でも全く違う空気が流れる。
はっきり言ってしまえば、誰にでも空気をデザインするチカラはある。優しい空気、明るい空気、楽しい空気、哀愁のある空気、平穏な空気、ミステリアスな空気。
ただ、意識して使おうとしていないだけだ。
なんだか、心地よい空気のお店や優しい時間の流れるお店は、きっとその空気をデザインしている人がいるはずだ。表にいる人かもしれないし、裏で操作している人かもしれない。そして、そこには、なぜ心地よい空気や優しい時間を提供しているのか、という目的があるはずだ。
公共の場で、空気をデザインしている人は少ない
私有のお店や場所であれば、空気をデザインしている人は多い。なぜなら「自分の大切な場所」だから。そして、なぜここでそれをしているという目的がはっきりしているから。
公共の場では、どうだろう。私有の場所よりは、意識して作っている人は少ない気がする。利益が絡まないからだろうか。本来は、利益が絡まない場所の空気こそ、大切な気がする。そんな空気が、街をつくるのではないだろうか。
自分の大切な場所を「街」という大きな単位で考えることは難しいのだろうか。
なぜこんなことをクドクドと考えているのかというと、とてもいい雰囲気だった場所が死んでしまったのを見てしまったからだ。おそらく、経営サイドが変わってしまったのだろう。目的が「街をつくる」ことから「商品を売る」ことに変わってしまったのかもしれない。
商品を売ることは、もちろん大切だ。
でも、公共の場所を使用する以上、商品を売ることよりも優先するべきことがあるはずだ。
空気をデザインするチカラ。それは誰にでもあるはずだ。意識するか、しないか。それだけ。もう一度、心地のいい場所が生き返りますように。「人の居場所」が豊かな街になりますように。ナカジマノゾミでした。
【初節句】こどもの日のお祝い
昨日は、5月5日、こどもの日でした
あったかくて、いい日でしたねー。特に飾り付けもしていなかったのですが、彼のお義父さんがつむつむ君のために兜を持ってきてくれたので、急遽飾り付けしました。
パパが昔使っていた、かっこいい兜。
お雛様もそうだけど、一年に一回しか出さないのに、すごい立派。そういうのに疎い(というか、しきたりとか風習にこれまで興味を持ってこなかった)から、なぜこれを飾ることになったのか、どういう意味があるのか、バレンタインがチョコレート会社の陰謀のように、人形屋さんの陰謀(多分違う)なのか、とか、なんだかすごく気になります。
そういうの、そんなにやらなくてもいいかなあ。。。と正直、思っていました。
でも、豊田から足助に行くまでの153を走っていると、たくさんの鯉のぼりが上がっていました。何個も何個も。
このたくさんの鯉のぼりは、息子の成長を願う人の気持ち。
そう思うと、もったいないとか効率的じゃないとか決めちゃうんじゃなくて、そういう風習も悪くないなあと思いました。なくなりつつある、風習。都会では、なかなか出来ない風習。だからこそ、田舎に残っているとホッとするような感覚になりました。来年は、一緒に飾り付けして遊びたいなあ。
赤ちゃん用品のレンタルサービス
こういう五月人形のようなものや、赤ちゃん用品って、あっという間に大きくなって使わなくなってしまうから、結構きれいなままのものが多かったりします。
抱っこ紐とか、ベビーカーとか、毎日使うものはボロボロになるまで使えるけど、ベビーベッドや、ベビー布団、ベビーバス、その辺は結構きれいなまま使わなくなることも。
赤ちゃん用品のレンタルサービスを利用する人って、結構いるのかなあ。
私はなんだかんだ、有り難いことに、いただいたり貸してもらったりしたので、ほとんど買わなかったのですが、必要な人のところに必要なものが流れていくサービスって、もっと日常的にあっても良さそうな気がします。
それも、遠くの遠方にわざわざ送るのではなくて、同じ市内とか、車で取りに行ける距離とか。自分にとって「今は必要ないもの」を貸したり借りたりし合えるような窓口。
例えば、このゆらゆら揺れるバウンサーは友だちのお姉ちゃんが「1年くらい使っていてもいいよ」と言って、貸してくれたもの。
つむつむ君のお気に入りです。
でも、「きっと一年経ったら使わなくなってしまうから、その時は遠慮なく返してくれていいよ」というなんとも有り難い話。
メルカリのリアルな人間関係バージョン
貸す方は「今は使わないから、置き場所スペースを空けれる」というメリットがあって、借りる方は「今は欲しいけど、そのうち使わなくなるから、レンタルが一番助かる」という、winwinな関係。お互いに「ちょうどいい!」となれば、レンタル代なんて必要最小限で済む。
こういうのって、エコにもつながりそうだなあ。
その場合、事業を広げるとある程度はお金をいただかないと成り立たないし、まったく知らない人となると信頼関係で成り立たなくなる可能性があるから、ある程度限られた関係の中でなら出来そうなきがする。
そこから、人間関係が派生したり、先輩ママから色々教えてもらったり、いい関係が始まるきっかけになったりしないかなあ。
譲ったり、譲られたり。メルカリのリアルバージョン、みたいな。
ただ、これの条件は「性善説」が成り立たなければ、こういうサービスは成り立たないよなあ〜。
なんていう妄想を、膨らませてみた1日でした。そろそろゴールデンウィークも終わりますね。最終日、良い1日になりますように。ナカジマノゾミでした。
【ドリップ体験】松本珈琲工房
先日、松本珈琲工房さんのドリップ体験をしてきました
たまたま豊田市駅のT-FACEにお買い物に行ったら、何やら美味しそうな匂いが。なんと改装されておしゃれになった6階のカフェっぽいスペースで、有名な松本珈琲工房さんが珈琲教室を開いていました。
つむつむ君抱っこしてるし、、、どうしようかなあ~。いや、でも、やりたい。っていうか、これ1000円で松本珈琲工房さんのドリップ方法教えてもらえるなんて、やるしかない。
というわけで、ちゃっかり体験してきました。
松本珈琲工房さんを知ったきっかけ
もう2、3年前。大好きなカフェがありました。日進にある、女性が一人でやっているお店。珈琲とマフィンの小さなお店。木金土しか営業しない、隠れ家のようなお店。
そのお店を知ったきっかけは、店主さんがたまたま見つけたnonによってくれたことがきっかけでした。
お店以外にも素敵な本業があって、その帰りにふらりと寄ってくれたその人は、コーヒーを飲んでにっこり笑ってくれました。
その人に会いたくて、私もそのお店に通うようになりました。
松田珈琲工房【Cafe Noccal】
松田さんの淹れてくれる珈琲は、いつもとびっきり美味しかった。元気が出ない時、雨で仕事がなくなった時、今日なにしようかなっていうお休みの日。松田さんの珈琲が恋しくなる。そして、松田さんに会いたくなる。そんなお店だった。
その、松田さんが修行されたお店が、松本珈琲工房。
カフェノカルはある時、ご実家の都合によって、閉店してしまった。でも、今でも松田さんに影響を受けた人が、たくさんいる。私もその一人、かもしれない。
あの大好きだった松田さんのコーヒーの大元だ。体験しないという選択肢はない。
松本珈琲工房のドリップの特徴
体験で使ったドリッパーはコーノ式。コーノ式は、丁寧に入れるイメージがあったが、まさにその通りだった。
豆は、たっぷりとコーヒーカップ1杯に対して16g。挽き目は通常より粗めの中粗挽き。お湯は少し冷ました85度前後。ペーパーフィルターの折り目は深めにおって、しっかりと穴からフィルターを出す。
蒸らし、というよりは、ぽた、ぽた、と一雫ずつ落とし、浸透させるようなイメージ。真ん中に一雫づつ垂らしていると、やがてドーム状に膨らむ。
下に濃いコーヒーが落ち始めたら、ドリップする速度を上げてぐいっと太めのお湯で抽出する。
ポイントは、粗めに挽くことで微粉をなくしすっきりとさせること。そして、最初にしっかりと濃いコーヒーを抽出しておくことでコクを出すこと。途中から速度を速めること。
原理的には、以前教えてもらった松屋式コーヒーとなんとなく似ているイメージでした。
ドリップ方法は、無限大
ドリップに、正解はない。それぞれのお店で、それぞれの理論を持って、独自の美味しいコーヒーを生み出している。そして、自分の好みに合わせて調整し、提供する。
ドリップ方法は一つではないのだ。
だからこそ【自分は、これが好き】というものが見つかると、嬉しくなる。
正解はない。だから、一つの方法に固執せずにいろんな方法を知っておくこと、自分のコーヒーをアップデートすることは、さらなる喜びや楽しさにつながる。
先入観をなくして、いろんな話を聞いてみることが大切。
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この日の松本珈琲工房さんのブログに、体験中の私が写ってました。
つむつむ君を背中に回して、そっちのけで体験するベリーショートの主婦の人です。笑
いやあ〜、いい1日になりました。松田さん、元気かな。またいつか会えるといいなあ。ナカジマノゾミでした。
相手の心を捉える方法
超大型スーパーでのレジでのこと
普段は小さめなスーパーで食品を買うのが好きなのですが、3か月に1回くらい、◯オンなどの食品売り場を利用することがあります。食品以外のベビー用品を見たい時や、授乳室やコーヒーショップを利用したい時、雨の時は何件もお店をハシゴしたくない。
そうなると、一気にすべて揃う大型スーパーはやっぱり便利。
そんなわけで、先日も3.4か月ぶりくらいに◯オンでお買い物してきました。
ぐるっと食品を見て、何気なく空いているレジに並んだのですが、そのレジのお兄さんがつむつむ君を見て、一言。
「あれ、この前も並んでくれましたよね!」
確かに、私もそのお兄さんに見覚えがあって、たしか前回もその方のレジでお会計をしてもらったんですよね。「そうです、よく覚えてましたねー!」なんて言って盛り上がってしまいました。
お客の私の立場からしたら、相手を覚えるのは比較的簡単。でも何百、何千人も相手にしている店員さんに覚えててもらうのって、やっぱり嬉しいですよね。
そして(もしかして、そうかな?)というのを、不安になりながらもを口に出してくれたのも嬉しかったです。
毎週のように行く小さなスーパーのレジの店員さんは、もう50回くらい並んでいるけど、業務以外の会話はしたことありません。まあ、それが普通というか、それ以上でもそれ以下でもない「レジでのやり取り」なのでそれはそれで良しなんです。
どこを視て仕事しているのか、が大切
でも、帰り道に嬉しくなっちゃう温かい気持ちになれるのは、そういうちょっとしたやり取りがあった時だったりします。
「レジ」を仕事時間中こなしているのか、「レジ」を通してお客さんを視ているのかって、こういう何気ない一言に出るような気がします。作業としてこなしていたら、毎日何百人も来るお客さんの顔を覚えていない。そして(見覚えあるな〜)と思っても業務以外の会話をしようとすら思わない。
どっちが相手の心を捉えるかって言ったら、確実にレジを通してお客さんのことを視てくれる方ですよね。お店にファンを作りたいなら、こういう小さな積み重ねがすっごく大切。
お客の心理としては、次に行ったらまたそのお兄さんのレジに並びたいなって思います。そして、そうやってリピーターから常連になっていくのだなと。
大きな店舗や大きな社会、大きなものの中では、こういうのって「不可能に近い」と思っていました。小さなお店でしか出来ないのではないか、と。だから私は移動販売という形を選びました。大きなカフェでは、お客さんの帰り道の足取りに♪が付いちゃうような接客は、なかなか出来ないと思っていたから。
でも、こうして体験してみると、大きなお店だから出来ないというわけではないようです。
どこを視て仕事をしているか。それによって、不可能に近いと思っていたことは、不可能ではなくなるようです。
どこを視て、仕事をしているのか。何を視て仕事をしているのか。その視線の先にあるものを、ただただ大切にすること。それが接客なのだと思います。
何気ない買い物で、すごくいい気持ちにさせてくれたお兄さん。どうもありがとう。ナカジマノゾミでした。
出来ないのは、思い込みだった話
小学校から仲のいい地元の友達が、はるばる山の中へ遊びに来てくれました
元はみんな知立市民。「知立大好き!ずっと住む!」と言いながら、今は誰一人住んでいないという4人組です。
上は小学生から、下は0歳まで。つむつむ君を入れて子どもが7人になったのですが、全員男の子ということで、いつも集まるとワチャワチャ!です。
今回は、うちの庭で虫取り大会が行われていました。
その間、ママ達はコーヒー飲んでのんびり。近況を話したり、子どもの話をしたり。こういう時間、大切。
基準を変えれば「出来ない」から「出来る」へ
そこでつむつむ君の成長の話になって、「寝返りはするけど、おすわりはまだ出来ないんだよね〜」と話していました。
でも、そのあと席を外して戻ってきた時に、保育士さんの友達が「これ、おすわり出来てるよ?これで完成形だよー」と教えてくれました。まだ1、2分でごろんと倒れてしまってもそれでOKなのだそう。
私的には、グラグラするからまだ出来ていないと思っていたおすわり。一人でずっとそのままの状態で倒れないのが完成だと思っていたおすわり。
私が勝手に「まだ出来ない、出来ていない」と思っていただけで、「出来て」いました。
ちょっと基準を変えるだけで、「出来ない」は簡単に「出来る」になる。状態は一緒。だとしたら「出来る」という言葉をかけてあげたい。子どもにも、自分でも。
逆さまにしたら、「出来た」こと
もうひとつ、つむつむ君の練習していることがありました。それはストローで飲み物を飲むこと。
今は便利なグッツが売っていて、すぐに出来る様になるストローマグを買いました。それでも、どうしても飲めない。ストローをくわえるのが怖いのかな?とも思いましたが、ストローを逆さまにしたらすぐに飲めました。どうやらシリコンのストローが嫌だったようです。(反対側はプラスチック)
「出来ない」と「出来る」は紙一重のこともあるようです。
つむつむ君をみていると、本当におもしろいです。
寝返りして、戻れなくて、そのうち泣けてきちゃう。戻しても、戻しても、うつぶせになっちゃって、結局泣けてきちゃう。そんなに泣けてきちゃうなら、うつぶせにならなきゃいいのに、って親からしたら思うのだけど…身体が勝手に動いちゃうようです。
頭で考えるのではなく、身体が勝手に動いちゃう。そうやって体力がついて、いつの間にかいろんなことが出来る様になるのかもしれないですね。成長しよう、成長しよう、なんて思わなくても気付いたら成長している。
大人になって「成長しよう」と思わないと成長できないときには、苦しさが伴う。「成長しよう」と思わなくても成長しちゃうときには、楽しさが伴う。つむつむ君の寝返りも、楽しさが伴っているかもしれないです。だとしたら、いいな。
今日は、どれくらい寝返りするのかな。どれくらいひっくり返せるのかな。楽しみです。ナカジマノゾミでした。
共通の敵を作りたがる心理
反対車線の対向車にパッシング
道を走っていて、反対車線の車にパッシングされたことってありますか?これって「この先で、スピード違反取り締まってるから気をつけて!」と言う親切心だったんですね。
家の近くの道路で、速度超過の取り締まりをしていることがあります。遭遇するのは数ヶ月に一度。何度となく遭遇しているので、自分の中では要注意ポイントと心得ています。(そんなこと心得なくても、日頃から交通ルールには気をつけなければならないのですが)
で、その近くで何度かパッシングされたことがあって、その意味を知らない時は(どうしたのかな〜、私、昼なのにライトつけっぱなしだったかな?)くらいに思っていました。
でも、その意味を知ってから、なんだかこのパッシングの行動がお茶目で可愛く思えてきました。
このパッシング、警察からしたら違反者が少なくなるからがいいのか、せっかく取り締まっているのに捕まえられなくて良くないのか…は、賛否両論なので置いておいて。教えてもらった側は、正直助かります。
これって、小学校の時にいたずらして、先生に怒られないようにみんなで示し合わせる、みたいな感覚に似てません?
教えた側は、特に「いいこと」があるわけではないし、一瞬だからお礼を言われるわけではないけど「取り締まりしてたから、気をつけてね(ウィンク)」みたいな。お茶目さを感じてしまいます。
なんていうか、ちょっと好き。
いいことがあるわけじゃないのに、親切にも教えてくれるのは「共通の敵」を作る時の心理にも似ているのかもしれません。
ここで言う共通の敵とは、警察のこと。個人的には、警察は嫌いではないのですが(移動販売の時に、目の前が交番で親切で好きな警察官のおじちゃんがたくさんいた)さすがに取り締まりはあんまり好きじゃないです。なぜかドキッとしちゃうから、心臓に悪い。
で、ドライバーにとっては取り締まりは「共通の敵」のような存在になってしまうわけです。
先生に見つからないようにいたずらするのが楽しいように、あのパッシングは個人的には他のドライバーとのコミュニケーションに感じます。(むやみにパッシングするのは、交通法違反になるそうなので、本当はしないほうがいいみたいですけどね)
共通の敵を作ると、団結する説
団体をまとめたいと思った時に、団結させる方法は2つ。一つは、明確な志を掲げて、共通の意識をもたせて、まとめる方法。もう一つは、共通の敵を作って、その標的にヤイヤイ言ってまとめる方法。
手っ取り早いのは、共通の敵を作る方法なのかもしれないですね。だから、自らその役をかって出る上司や店長もいる。私も昔いたバイト先では、そんな傾向がありました。確かに、共通の敵がいることによってすごく団結するんですよね。でもそれは、必ずしもいい雰囲気とは限らない。そして、その団結は案外もろい。
いじめっ子の構図だと、自分が「共通の敵」にならないように、みんな必死になってターゲットを作る。そして、それが繰り返される。
大人の場合だと。自分が「共通の敵」にならないように、本来力を入れなくてもいいようなところに意識をむけちゃって、いいパフォーマンスができなくなるなんてこともあるかもしれません。
わかりやすいのは「〇〇反対デモ」
ああいう時の「共通の敵」に対するパワーはすさまじいものがあります。各々が自分を正義だと思っている時には、なおさら。共通の敵を作って、集団を統率するのが上手い人は、歴史上では大きな勢力を持っていたし、国家ですらこの力を利用するときもある。
必要以上の風評や世間のバッシングも、こんなところがあるのかもしれないですね。
これって行き過ぎれば、「共通の敵」にされた人は、とんでもない被害を受けることになります。元は自分に非があったとしても、そこまでコテンパンにするのはどうなのかなって思います。
お茶目なパッシングの話から大きく飛躍してしまいましたが、人間の心理って昔から根本は変わっていないのかもしれないですね。集団の心理や、個人の心理、深層心理、こういうのに実は興味があります。人間って、とことん面白い。
そういうわけで、ちょっと図書館に行ってきます。今日も良い1日を。ナカジマノゾミでした。