空気をデザインするチカラ
服をデザインするように、空間デザインするように、人は空気もデザインしているのだと思う。
空気をデザインする、とはどういうこと
空気をデザインする、とは、言い換えると雰囲気を創るということ。人と人との間に流れている目に見えないもの「空気」。それを、創る。
心地いい空間というのは、誰かの意図で空気がデザインされていることがある。
なんだか、ここにいると落ち着くなあーとか。この人と話していると、なぜか心地いいなあーとか。距離感のとり方がちょうどいいなあーとか。そんなことを思ったことはありませんか。
「なんだか」とか「なんとなく」という曖昧な表現しか出来ないもの。数値で測れないもの、人によって、単位も色も重さも変わるもの。実態はないようで、たしかにある。
とても心地のよい空間だった場所が、見違えるほど殺風景になっていた
以前は、きっと誰かの意図で空気がデザインされていたはずだ。ひさびさに訪れたら、まったく違うものになっていた。
空気を作るには、装飾や外観も大事だけど、なぜそこでそれをしているのかという目的が1番大切だ。その目的は、必ずそこを訪れた人にとって、伝わってしまうのだ。
表情1つ、目線1つ、仕草1つから、空気をデザインしているのは自分だ。
そして、目的がなくなったり変わってしまえば、それまでと同じ場所でも全く違う空気が流れる。
はっきり言ってしまえば、誰にでも空気をデザインするチカラはある。優しい空気、明るい空気、楽しい空気、哀愁のある空気、平穏な空気、ミステリアスな空気。
ただ、意識して使おうとしていないだけだ。
なんだか、心地よい空気のお店や優しい時間の流れるお店は、きっとその空気をデザインしている人がいるはずだ。表にいる人かもしれないし、裏で操作している人かもしれない。そして、そこには、なぜ心地よい空気や優しい時間を提供しているのか、という目的があるはずだ。
公共の場で、空気をデザインしている人は少ない
私有のお店や場所であれば、空気をデザインしている人は多い。なぜなら「自分の大切な場所」だから。そして、なぜここでそれをしているという目的がはっきりしているから。
公共の場では、どうだろう。私有の場所よりは、意識して作っている人は少ない気がする。利益が絡まないからだろうか。本来は、利益が絡まない場所の空気こそ、大切な気がする。そんな空気が、街をつくるのではないだろうか。
自分の大切な場所を「街」という大きな単位で考えることは難しいのだろうか。
なぜこんなことをクドクドと考えているのかというと、とてもいい雰囲気だった場所が死んでしまったのを見てしまったからだ。おそらく、経営サイドが変わってしまったのだろう。目的が「街をつくる」ことから「商品を売る」ことに変わってしまったのかもしれない。
商品を売ることは、もちろん大切だ。
でも、公共の場所を使用する以上、商品を売ることよりも優先するべきことがあるはずだ。
空気をデザインするチカラ。それは誰にでもあるはずだ。意識するか、しないか。それだけ。もう一度、心地のいい場所が生き返りますように。「人の居場所」が豊かな街になりますように。ナカジマノゾミでした。
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