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自分にとってのご褒美、とは。
この前、ふと話題をふってもらった言葉。
「あなたにとって、自分へのご褒美ってなに?」
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《自分へのご褒美》
きっと、働く時などにモチベーションを上げる時につかうもので、頑張った自分に対する《ちょっとした贅沢》なのかな、と思う。
ご褒美でモチベーションを上げる、というのは《仕事》に対して、外側からのやる気のアプローチ。
例えば、子どもに「勉強しなさい」ということを伝えたい時、「テストでいい点取ったら、◯◯買ってあげるね」とか。「お手伝いしてくれたら、お小遣いあげるね」とか、そういうのに似ている。
短期的な場合や、まったく興味のないことに対しては、使えるかもしれない。
ただ、やり方によってはどんどん欲求が大きくなる可能性がある。働いて、何かを買うことをご褒美にした場合、どんどん金額や頻度が多くなりかねない。結局、いつまでも満たされない可能性がある。
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もうひとつは、内側からのアプローチ。
例えば、仕事の自体に面白さを発見することは、内側からのモチベーションの上げる方法。興味を持って目の前のことを見てみると、大抵のことがおもしろく見えてきたりする。
仕事であれば、それ自体でモチデーションを上げられるので、とくに自分の対してのご褒美は、頻繁にはいらない。働くこと、出来る様になること自体が、モチベーションを向上させることとイコールなのだ。
私が思うには、長期的にやる気を持って働いていくには、内側のモチベーションをあげていくことが必要だと思う。
それが、《好きなこと》であれば内側のモチベーションを上げるのがすごく簡単。ほうっておいても、働きたくて働きたくてたまらなくなるのだから。私が、好きなことを仕事にしたらいいと思う理由は、この部分。
モチベーションをあげようあげようと思わず、「頑張っている!」と思わず、楽しんでいるうちに上手くいくようになる。
というか、うまくいっていても、うまくいくまでの道のりの中にいたとしても、どっちにしても楽しいのである。
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「あなたにとってのご褒美はなんですか?」
そう言われたら、今は迷わずこう答える。
私にとってのご褒美。
今、こうして働けているいつもの毎日が私にとってのご褒美です。
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あなたにとってのご褒美は、なんですか。
それを考えることは、自分を知る、ひとつ手がかりになるのかもしれない。
最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。豊田市駅の移動カフェcafebusnonの希でした。
《距離》時にもどかしく、時に背中を押してくれる
離れる。
やめる。
休む。
一歩置く。
踏み込む。
そっとする。
モノが2つあれば、その間には必ず距離がある。
モノと、モノ。
人と、モノ。
人と、人。
場所と、場所。
出来事と、わたし。
感情と、身体。
仕事と、自分。
あの子と、ぼく。
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距離、というのが適切なこともあれば、空気といったほうがしっくりくることもある。
距離は、近ければ近いほどいい、と言うものでもなく。離れているからいい、と言うものでもなく。いつも絶妙な間合いで存在している。
近くにいたら見えなかったことも、一歩ひくと見える時がある。
距離が離れたからこそ、うまくいくこともある。
近づきたいと願うほど、遠のくこともある。
離れてしまうとわかった時から、気付くこともある。
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自分ではどうしようもないこともある。
自分ではどうにも出来ないことは、もどかしく、切ない。遠距離恋愛はきっとこういう感じ。会いたくて、会いたくて、震えるほどではないけど会いたい。けど、会えない。
そういうときって、すっごく苦しい。でもその感情ほど貴重なものはない。それだけ心が動いていること自体が、しあわせなのだ。そんな何かに出会えた時点で、しあわせなのだ。だからいっそ、その苦しさを楽しんでみる。
自分で、調節出来る距離もある。
違和感のあることから距離を置く。
これは、穏やかに生きる上でとても大事なこと。苦しいことから距離を置くことが出来なければ、心と体が壊れてしまいかねない。
距離を置くことは、悪いことじゃない。逃げることは、悪いことじゃない。自分でそう決めたのなら、それはその人の正解。
離れてみないと見えないものもある。
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何かと何かの間には、《距離》がある。
《距離》自体は、目には見えないことがほとんど。
でも、そういうものこそ、大切な意味が隠れていたりする。
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距離は怖がるものではなく、時には、仲良くなってもいいはず。
《夢と自分の距離》が遠くはなれているのなら、近づいていく過程を楽しめるのは今しかない。
《今を楽しむ》って、そういうこと。
最後までお付き合い頂きありがとうございました。豊田市駅の移動カフェcafebusnonの希でした。
Kindle Unlimited 読み放題を辞めました。
Macに変えてから、Kindleを利用するようになりました。
書籍で買うことが多いけど、この本は電子書籍のキンドルでもいいかも。そう思った本は、キンドルを利用していました。
そして、利用していく中で、キンドルアンリミテッドなるものを見つけました。
月額980円で、読み放題。(指定された本の中から選べる)
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本を読むのが好きな人にとっては、読み放題とか言われると、しかも月額980円とか言われると、もうとても魅力的な気がしてしょうがない。
そこで、試しに登録してみました。
結果。
…2ヶ月経って、解約しました。
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そして、ある大事なことに気が付きました。
それは、本が私にとってどういう存在なのかということ。
本=暇つぶし または活字中毒。そういう人にとっては、キンドルアンリミテッドは、すごくいいのかもしれません。
なんせ、月に980円で読み放題なので、これほどコスパがいいものはない。
《ただ、私にとって、本を読むということは暇つぶしでなはい。》
むしろ、自分の人生の限られた時間で、もっと成長したいし、感性を磨きたい。そう思うから、少しの時間でも本を開けたらいいなと思うし、より自分自身を生きるために吸収したいと思っている。
暇を潰すのではなく、他の何かを削ってでも確保したい。それが、私が本に対する思い。
キンドルアンリミテッドは、たくさんの本が選べるけど、どうしても読みたい本はなかったりもする。(あった場合は、超ラッキー)読みたい本がなかったとしても《せっかく登録しているのだから》という理由で、読み放題の中からそんなに興味がなかったとしても、選ぼうとしてしまう。
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これって、洋服のバーゲンやセールにも似ている。
《本当にそれが欲しいのか》よりも《今、これを買うことがお得かも…》という、自分の価値観以上に、売る側の価値観に踊らされているようなもの。
つまり、正常な判断が出来ないのである。
正規の値段では買わないけど、値引きされているなら買ってもいいかも…無料だったら、もらってもいいかも…
実際に、そう思って買ったものや、もらったものに、愛着を持てるものは少ない。(大切な人に、自分好みのプレゼントをもらった時などは、自分で買うよりもめちゃくちゃ嬉しいものだけど。)
自分がその商品に対して、決められた金額の価値を見出して、それでも欲しい!やりたい!行ってみたい!喜んでほしい!と思ったことにお金は使いたい。
そう思うと、キンドルアンリミテッドは、私にとって超非効率とも言える。
もちろん、本に対して、全然違う感覚の人もいる。
「とにかく活字が好きで好きでしょうがない!内容よりも、字を見ていることが好きなんだ!」そう思う人にとっては、とても効率的なのかもしれないのですが…
ただ、お金と時間を投資したい!という気持ちは、自分の正直な心の声なので、聞き逃さないように大切にしたい。
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書いていて気付いたことは、そもそも元から「〇〇放題」というものが好きではなかったのに、なんで登録しようと思ってしまったのか。
Amazonのサイトを見ていたら…つい…登録ボタンを押していたのだ!Amazonさん、すごいな~。やりますな~♪
というわけで、お金を払っても吸収したいことを、これからもチョイスしていきます♪
最後までお付き合い頂きありがとうございました。豊田市駅の移動カフェcafebusnonの希でした。
余裕は、出来るものではなく作るもの。
少し前に、地元の友達と飲んでいたときのこと。
高卒であれば、社会に出て約10年。話は、当然のように仕事についてのことが多くなる。
「毎朝、仕事前にコーヒーを買いに寄ってくれるお客さんってすごいね。自分には、時間的にも金銭的にも、そんな余裕はないからな〜。」
そんな話をしていた。
ここで、ふと思った。
余裕があるから、何かをする。
余裕が出来たら、あれをしよう。
余裕があったら、こうするのに。
そう思っても、なかなか《余裕》は出来ない。
余裕は出来るものではなく、作るものなんじゃないだろうか。
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朝NONに寄ってくれるお客さんは、決して、時間を持て余しているから来てくれているわけではない。
余裕を作るために、忙しい中、あえて寄っていってくれる。そんな気がする。
それが、コーヒーじゃなくて、例えば本を読むことだったりもするかもしれない。
《余裕があったら、やりたいこと》をあえて先取りして、《余裕を、自分で作っている》
それだけなんじゃないか、と。
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時間、お金、心、スケジュール…etc。
余裕は、物質だけに限らず。
私がもっとも大事だと思うのは、心の余裕、心の余白。精神的に参ってしまうときは、必ず、心の余裕がなくなっているときだ。
心の余裕を確保するためには、やらないことを決めること。
《これは、やらない。》という基準を自分の中で作ること。
行きたくない場所には、行かない。どうしてもやりたくないことは、しない。そのスケジュールを見るだけで嫌な気持ちになる約束は、しない。仕事の依頼であっても、自分の意向とあまりにもかけ離れたことは、断る。
嫌われるかもしれない、という理由で断れない事を、あえて断る。(実際には、ちょっとくらい嫌われたほうがけっこう生きやすいと思う。)
嫌われることよりも、その約束を思い出すときのテンションの下がることの方が、私にとっては大問題なのである。
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その、心の中の、すこしあえて残しておいた余白。これを保ちつづける事が出来るかどうか。私にとっては、これはとっても大事なこと。
この部分こそ、感じることや考えること、他人のこと、社会のこと、目の前のこと、突発的に起こること、イレギュラーに対応することに必要なスペースだから。
自分のことで、いっぱいいっぱいの時に、周りの人のことは考えられない。
自分が体調不良の時に、目の前の人の元気の無さには気が付けない。
だから、理想の自分でいるためには、いつもこのスペースを確保しておく必要がある。
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余裕があるからする、のではなく。
余裕を作るために、何かを手放したり、あえて何かをする。
自分の心に素直になることが、余裕をつくり理想の自分に近づく一歩なんじゃないかな、と。
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今日も、穏やかな一日に、なりますように。
最後までお付き合い頂きありがとうございました。豊田市駅の移動カフェcafebusnonの希でした。
だって、寒さは、私の味方。
平日の朝。起きて1番にすること。外に出て、今日の空気を感じること。
冬の4時過ぎ。外はまだ暗い。
晴れた日は星が出ている。雲がうっすら出ているときは、その隙間から、月の光が漏れている。
真っ暗な中の、きれいな星空も好きだけど…実はこのすこし雲がかかった空も好き。
今日の雲はどんなかな。気温はどれくらいかな。空気は湿っているかな。
そんなことを思いながら、開店後にエスプレッソマシンを早く起ち上げるために、自宅で一度、予熱する。
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6時過ぎ。豊田市駅のいつもの場所に到着する。
(あ、今年も冬が来た。)
そう思うときは、火にかけたヤカンから、いつもよりたくさん湯気が見えた時。
温度が目に見える季節。その湯気からは、美味しさすらも見えるような気がする。
お湯の沸くのにも、すこし時間がかかるようになる。ドリップするコーヒーの温度も、下がりやすくなる。
朝のお客さんは少しだけ多くなる。吐く息は白くなる。手をこすり合わせながら「今日も寒いね。」「冬が来たね。」
そんな当たり前の会話をする。
そんな時間が好き。
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少し落ち着いたタイミングを見計らって、自分の為のコーヒーを淹れる。
だいたい、ストンと落としたドリップ。たまに飲むアメリカーノも、朝のコーヒーにはもってこい。
今日は、どうしよもなく寒い。そんな日には熱々のホットチョコレートを。
身体の中から温まるのがわかる。とろりとした、この液体。チョコレートと言いつつも甘すぎない。これは私にとって、冬の楽しみの1つ。
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冬の女の子は、かわいい。
ぐるぐるのマフラーに顔をうずめて、鼻とほっぺを赤くして。
ちょっとおしゃれをしている日は、デートかな?スカート寒くないかな?そんなことを思いながら、送り出す。毎日、冬の女の子にきゅんとしている。(変態ではない)
冬のスーツも、好き。
夏にはなかったネクタイを見ているのは楽しい。(きれいな色。)(かわいい柄。)
カラフルなセーターがちらっと見えた時には、寒さの中にも彩りを感じて、なお楽しい。
今日も、1日、頑張ろう。
そんな姿を送り出すのが、たまらなく好き。
「今日もあなたにとって、いい日になりますように。」けっこう本気で、思っている。伝わるか、伝わらないかは分からないけど…。それでも勝手に願う。
(今日も、あなたにとって、いい日でありますように。)
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寒い時、あたためてくれるのは、飲み物だけじゃない。
その証拠に、私がお客さんにあたためてもらうことが、たくさんある。
「寒いけど、頑張ってね。」「カイロ、あげる。」「今日も、よい一日を。」
そんな一言の優しさに、私は毎日、あたためられている。
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寒い時にこそ、出来ることがあるのなら。今のうちに。
「寒いね。」が、口実になるのであれば。それは、今のうちに。
冬が、好きだな。
冬も、好きだな。
出来ない自分を肯定するチカラ
日曜日、朝起きたら車のタイヤが2本パンクしていました。
ちょうど、仕事が休みで《今日こそスタッドレスに交換してもらいに行ける!むしろ今日しか行けない!》と計画していた日曜日。
左の前後2本とも、けっこうペシャンコになっていてびっくりしました。
左側で、何か踏んだのかな〜と思いながら、どうしたものかと悩んでいました。
明日になれば、救世主が助けてくれそうだ。でも、今日、どうしても行きたいところがある。お姉ちゃんに誕生日プレゼントを渡しに行けるのが、近いうちだと今日しか無さそうなのだ。
そこで、こんなことを考え始めた。
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スタッドレスに交換してもらいに行こうと思っていたのは(私にはタイヤの交換が出来ない)と思い込んでいたから。
でも、本当は、タイヤの交換は出来ないのではなく、したことがない だけ。
《もしかしたら、出来るかもしれない!》
そう思ったので、とりあえず。やってみた。
一度目の前で交換してもらって、見たことがある。なんだかんだ、やれそうな気がする。
お気に入りの音楽とかかけちゃったりして、だんだん楽しくなってくる。この前買ったお気に入りのスピーカーくん、いい仕事してる♪おまけに今日の空は快晴!なんかいい感じに車体持ち上げれたし、あとちょっとじゃない?ワクワク♪
とりあえず、やってみよ♪
結果。
……出来ませんでした。あちゃー
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タイヤのナットって、固いんですね。もう、びくともしない。だめだこりゃ。笑
おとなしく明日まで待とーっと。
こうして、また、自分の出来ないことを一つ知れた日。
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この、出来ないことを知れるっていうのは、案外悪いもんじゃない。
出来ないことを知れるっていうのは、やったこと無い何かをやってみるってことなのだ。
言い換えれば、新しいことに挑戦してみるってことなのだ。
出来ることだけしかしなかったら、出来ないことを知ることもない。
出来ないことを知るってことは、未知のものに挑んだからこそ知ることが出来る。
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その後、約束していたけど行けない謝罪を伝るために、電波がある所まで自転車で降りること45分。(家の周辺はここ数日、まったくの圏外)
思えば、自転車で出掛けることも、最初は出来るか分からなかった。
あんな坂を登ることが出来るだろうか?
でも、やってみたら、なんとか自転車をひいて歩けば帰ってくることが出来た。
一度やってみたから分かったこと。
その後、スカッとしたかったから、薪割りをした。
思えば、薪割りだって最初は出来なかった。
でも、教えてもらって、何度かやってみたら出来るようになった。もう爽快感がたまらない。
一度やってみたから分かったこと。
そして、その薪を使って薪ストーブに火をつけた。
思えば、火をつけるのだって最初はぜんぜんうまく出来なかった。
でも、今日はマッチ一本で火をつけられた。
出来ないことを出来ないと認めたら、かならず誰かがアドバイスをくれる。得意な人が教えてくれる。
でも、出来ないことを知らなければ、アドバイスをもらえることもない。
出来るようになることもない。
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とにかく、やってみなければ出来るか出来ないかなんて分からない。
そして、出来ないことを把握した時点で、出来るようになる可能性がひらける。
今日は、ジャッキで持ち上げることは出来たけど、ナットを回すことが出来なかった。だったら、今度挑戦するときは、固いナットを回しやすくする方法を調べたり、潤滑油を用意しておいたり、その部分だけ誰かにお願いしたらいい。
出来ないことがわかった時点で、対処方法がはじめて分かる。
漠然とした『私には出来ないと思う』ではなく『〇〇の部分が苦手』と具体的に把握できれば、出来ないことは怖くなくなる。
あ、それにね。
女の子はなんでも1人で出来るより、ちょっと出来ないことがあるくらいのほうが丁度いい。…たぶん。笑
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今日もたくさんドキドキした一日でした。
明日もいい日になりますように♪
最後までお付き合い頂きありがとうございました。豊田市駅の移動カフェcafebusnonの希でした。
年末年始の連休のお知らせ
《2016年もあと僅か。》
12月に必ず言葉にしてしまうフレーズです。
同じことを言うようで芸がないかな?と思いながらも、やっぱり1年はあっという間だなあと感じます。
2016年もあと僅か。
先日、いつも来てくれる定年を迎えられた男性がこんなことを話してくれました。
「もう、きっと自分はどう頑張ってもあと20年以上生きることはない。必ず死ぬ時は、来る。だったら、あと20年どう楽しもうか。」
人は、終りがみえて、はじめて《あと僅か》ということに気付く。
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私は、どっちかというと、毎日死を意識します。
それが怖いとか、恐れているというわけではなくて。
誰もが、いつかは必ず息絶える。そのことは頭の片隅に冷静に存在しています。
それが、50年後かもしれないし、30年後かもしれないし、もしかしたら明日かもしれない。今日の帰り道かもしれない。
どこで何が起こるかなんて分からない。
だから、明日死んでも後悔しないように今日を生きる。
それだけ。
そう思うと、生きている時間に無駄な時間なんて一秒も無いことに気付く。
あるかないか分からない未来のために生きるんじゃない。今の、この瞬間を最大に味わう。
そういう感じ。
それがいいのか悪いのかは分からないけど。
見えない何かに怯えたり、意味もなく不安にかられたり、将来に焦ったり。
そういう感情が一切ないっていうのは、けっこう心地よい。
将来の不安を煽るようなニュースや、購買意欲を高めるために焦らせる情報、そういうのを必要以上に見ないようにするというのも、穏やかに生きるための選択肢。
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《お知らせ》
年末年始はお休み致します。
12月29・30.31
1月1・2・3・4・5はお休みです。
6日(金)から営業いたします。
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2016年最後、穏やかに過ごせますように。
最後までお付き合い頂きありがとうございました。豊田市駅の移動カフェcafebusnonの希でした。
私がタバコを吸う人を嫌いになれない理由
NONの横は、喫煙所になっています。
タバコを吸わない人からしたら、タバコの煙は心地良いものではないかもしれません。副流煙も、もしかしたら体に良いものではないかもしれません。
ただ、私はタバコを吸う人を嫌いになれません。
タバコは、吸わない人からしたら《百害あって一利なし》と思ってしまう要素が満載の嗜好品です。
高いし、煙いし、健康にも決してプラスだとは思えない。(イメージです)
それでも、吸う人は吸う。
それはなぜかと言われたら、きっと、好きだから。
好きだから、吸う。それ以上でもそれ以下でもない。
タバコ自体は別に好きではないけれど、その感覚は好き。
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《健康に良いから、食べる》とか《お得だから、買う》とか《◯◯したら、〇〇します》とか。何か条件付きで行動を選ばされるのが、多分わたしは好きじゃない。ひねくれている自覚はあるけど、こればっかりはしょうがない。
儲かるからはじめる。とか、成功すると言われたからやる。とか。
選んでいるんじゃなくて、選ばされている感じ。飲み込まれていく感じ。
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「コーヒーは体にいいと聞いたので、買います」と言われたら、正直「ん?」ってなる。
コーヒーは体にいいから飲むものじゃない。飲みたいから飲むものなのだ。
おそらく、多少害があったとしても、飲みたい人はきっと飲む。セーブはするかもしれないけど、きっと無くならない。そいういうものなのだ。
なんでこんな寒い日に、バイクに乗るんだろう?
なんでいつも二日酔いを後悔するのに、お酒を飲むんだろう?
なんで苦しいのに、マラソンを走るんだろう?
好きじゃない人からしたら、なんでそんなことするんだろう?という存在。
でも、その理由は、たったひとつで十分だ。
ただ、好きだから。きっと、それだけでいい。
私にとって、その最骨頂がタバコという存在なのかもしれない。
もちろん、タバコを吸うからいい。とか、吸わないから、嫌だ。とか、そういう問題じゃない。
好きなものを、理由もなく好きでいられるというのは、けっこういい。
好きなものを、好きだと言える人が好きだ。
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移動販売を始めたばっかりのころ、おばあちゃんには「早くそんな男みたいな仕事やめなさい」と言われていた。通りすがりのおばちゃんには「あなた、もっといい仕事あると思うけどなんでこんなことやってるの?」と真剣に問われた。
「こんなことで、生活が出来るのか」と、心配してもらうこともある。
でも、何を言われようと…
好きだからやっている。やりたいからやっている。楽しいから続けてる。
お外が好き。空の下でコーヒを淹れるのが好き。この仕事が好き。
それだけ。
そして、ここににくるお客さんも。
寒いし、暑いし、雨も降るし、最高級でも格安でもない、くつろげるようなソファーもない、色んな人が行き交うこの雑多な空間にいつも足を運んでくれる。
その理由が《ただ、好きだから》それだけだとしたら。
私はこの上なく、幸せだなあと思う。
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もしも。
いいと悪い、便利と不便、世界が構成されたら、それはそれはつまらないものになる。
世間の通念を生き方のベースにしたら、大多数が同じ行動をとる。
もしも。
好きと嫌いで、世界が構成されたら、それはそれは楽しいものになる。
100人いたら、100通りの感覚がある。どれも正解。それでいいじゃん。
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今日も、一日とっても楽しかった♪
明日も、楽しい日になりますように。
最後までお付き合い頂きありがとうございました。豊田市駅の移動カフェcafebusnonの希でした。
どうしたらいい?は探しても見つからない
悩んでいる時、ついつい考える。
「こんなとき、どうしたらいいのだろう?なにが正解だろう?」
答えを外に求めて、探して探して。それでもやっぱり見つからない。
誰かに決めてもらうことは、その誰かにとっては《正解》なのかもしれないけど、それがイコール自分にとっても正解なのかは限らない。
世間の評判や、満足度を調査することも一緒。それが自分の満足度と重なるとは限らない。
つまり、どこにも答えなんてない。
もっともっと確実な方法は「本当は、私はどうしたいんだろう?」に気付くこと。
《どうしたらいい》と《どうしたい》は似ているようで全然違う。
どうしたらいい、には成功と失敗がある。どうしたい、は成功と失敗がない。
どうしたらいい、は判断。どうしたい、は意思。
きっと、仕事上は《どうしたらいいか》を考える必要がある。
でも、生き方には、《どうしたらいいか》は無い。
だって、どうしたっていいんだから。
正解を求めることよりも、正解だと決めていくことの方が、簡単だったりする。
単純に、シンプルに。正解は自分の中にある。
人間の根底は、善ですか。悪ですか。
「人間の根底は善だと思いますか。悪だと思いますか。」
少し前に、いつも来てくれる年配のお客さんからこんな質問をされました。
「あなたは、人間(人類)の根底にあるのは善だと思いますか?悪だと思いますか?」
このお客さんは、いつもいろんなお話をしてくれるのですが、この質問は特に心に残りました。
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人間の根底は、善なのか。悪なのか。
特定の人を指しているのではなく《人間》というものの本質は、という意味です。
性善説とか、性悪説という言葉もあるみたいです。
この議論に答えはないけど、私は善だと思っています。
誰かに「ありがとう」と言われて、少し心が満たされるのであれば、きっとそれは善ということ。
もし、あるとすれば《悪という名の善》なのではないか、と。
本人は良かれと思ってやっているけど、他の人にとっては迷惑だった、とか。自分の大切な人を守るために、とか。
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アメリカの、とある連続殺人鬼の話を聞きました。
その人は、たくさんの人を銃殺して死刑になってしまうのですが、その死刑になる直前に言った最期の言葉が「自分の身を守っただけのことで、こんな目にあわされるんだ。」
つまり、その人にとって自分のしたことは悪ではないという認識だった、ということ。
社会的にみたら、殺人は絶対にしてはいけないこと。
ただ、「自分は悪くない」と思うことは、《悪だという意識がない》ということ。反省する、ということもある意味で言ったら善の心がある、ということ。
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犯罪を、認めるわけではない。
絶対に、してはいけない。
ただ、その加害者の方向から見てみると、もしかしたらそれは《悪という名の善》なのかもしれない。
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「ありがとう」といわれて嬉しい。
誰かの役に立てたことが、嬉しい。
そういう心がほんの少しでもあるとするなら、それはきっと《善》
社会的に良いと言われようと、そうでなかろうと。
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昔、とあるクレーマーさんがいました。
いろんなお店で問題を起こしてしまうので、周辺のお店では出入り禁止になってしまいました。
たしかに、お店からしたら問題が起きるのは困るので、なるべく問題が起きないようにしたい。
ただ、その人が悪か、というとそれはまた別の話で。
ある時、その方が私の必要としている情報を持ってきてくれたので「ありがとうございます。助かります。」と伝えたら、とても嬉しそうな顔をしてくれました。
きっと、どんな人でも誰かの役に立てた、誰かが喜んでくれた、という気持ちは生きている以上、絶対にあるんじゃないかと思います。その時にとっさに出た表情が、その人の本質なのではないかと思います。
どこかでそれが、捻れて、素直になれなくて、かまってほしくて、本当の心の中とは別の行動をしてしまうこともあるかもしれないけど…
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人間の本質は、きっと善だ。
そう思って、人を見ると、けっこう楽しいです。
あなたが苦手なあの人。もしかしたら、その人の方向から見たら、それが善なのかもしれないです。良かれ、の基準が、自分と相手はズレているだけかもしれないです。
本質の、本質は、きっと善。
人生の最期の最期にも、そう思える生き方をしたいな。そう思いながら、死ねたら最高だ。
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最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。豊田市駅の移動カフェcafebusnonの希でした。