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田舎の暮らし【自治会の楽しみ方】
昨年の10月から、豊田市に引っ越しました。
豊田市の中でも、中心地を大きく外れた小さな山の上。標高およそ380m。人口、約100人。
住んでいる家の周辺は、比較的若い家族が多いゆるっとした団地。あえてこの場所を選択し、県外などから移住してきた人がほとんど。
少し離れると、家の間隔はとたんに広くなり、古くからこの地に生まれ育ってきた人が住んでいる。
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山で暮らす特権として、薪ストーブが設置できることや(密集した団地だと、煙の問題などがあるらしい)静かなこと、空気や星が綺麗なこと、仕事と暮らしの間に物理的距離を置くことでリセット出来ること、などなどたくさんのメリットがある。あ、あと土地代がものすごく安い。売れない可能性が高いけど。笑
田舎ならではの、おもしろいこともけっこうある。
その一つが、自治会。
一応、1ヶ月に1度、町の全戸(30世帯くらい?)に対して、集合がかかる。一応、全戸、参加必須となっている。
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最初は、この月に1度、2時間ほどの集会の意味がぜんぜん分からなかった。
2時間あったら、1つ仕事ができるのに、とか。出店から帰ってきて、疲れてる時にちょっとめんどくさいなあ…とか。その話、回覧板じゃだめなのかな?とか。
今、引っ越してきて5ヶ月経って、だんだんとその意味が分かってきた。
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この集会に来る意味は、おそらく8割は話し合いではない。
必要なのは、顔を合わせることそのものだ。
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時に、その自治会の最中に儀式のような事が始まる。みんなで同じ方向を向いて、2拍手1礼2拍手をし、なぜかみんなで日本酒を飲み、ピーナッツとあられと魚肉ソーセージが振る舞われる。
お正月の元日にも、朝から無人の神社に(一応、全戸)集合し、エンドレスで日本酒を継がれ続ける会が行われた。(おかげさまで、元旦は朝からとてもいい気分でした。)
もちろん建前上は「神様」という存在への、祈りや儀式ということいなっている。
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私は勝手に推測してみた。
マンションや、必ず役を決めなければならない地域は別として…
田舎の自治会やこういったお酒の酌み交わしは、シャイな田舎の人が編み出した、精一杯のコミュニケーションの方法なのではないか。
田舎の、さらに年配の(特に男性)は、ぶっきらぼうな人も多い。
だから、こうして(一応、参加必須というカタチで)顔を合わせていく内に打ち解けて、困りごとが起きた時や、助け合いが必要な時、生存確認したい時のために備える。
きっと、そのための手段なのだ。そう思うと、急に、なんだかその会自体がかわいく思えてくる。
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その自治会の会場までは、だいたいのおじいちゃんは軽トラでやってくる。会場の入口は、軽トラがズラッと並んでいる。軽トラにのって一斉に山を登っていく姿は、なんだかキュンとする。
薪ストーブ用の木を「好きなだけ持ってけ」と分けてくれたりする。「お前さんお米、買っとるのか?そんなん俺が育てた米やるわ」とくれたりする。
ぶっきらぼうなんだけど、話してみるととても可愛かったりする。
その自治会中の様子を観察しているのも、非常におもしろい。
いっつも喧嘩しているおっちゃんとか、もう本当にかわいく思えてくる。そして、だいたいの議題は解決しないままお開きになったりする。
解決すること自体が目的ではなく、困ったことや悩みをひとりで抱え込まないようにすることが目的なのではないかと思うほどだ。
無意味に思えることでも、裏側の意味を見つけ出せば、納得することも多い。
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これからも、ここに住んでいる以上、一生この会は参加していくことになる。
だとしたら、出来る限り、楽しさを見つけ出すことが重要だ。
人間観察が趣味の私にとっては、いい機会。
いつか、こういう会を通してでも、ゆるっとしたつながりの中でもいい。みんなの畑作業や薪割り作業の合間に、一杯ずつ丁寧にコーヒを淹れてあげたいなと思う。
田舎リポート、終わり。
最後までお付き合いありがとうございました。豊田市駅の移動カフェcafebusnonの希でした。
カフェは、まちと人をつなげるツール
ある時から、カフェと街をつなげるような本に興味を持つようになった。
もともと自分がカフェに対して抱いていたイメージは、コーヒーの専門書を読むよりも、こういう本を読んでいる方がしっくりくる。コーヒーの勉強はもちろん大事だが、カフェには物質以上の価値がある。
カフェとは、なんだろう?
コーヒーを出すところ?のんびりするところ?一息つくところ?おしゃれなところ?カフェとはいったいなんだろう。カフェの魅力ってどんなところだろう。カフェには、なにか不思議な力があるに違いない。
私は、その秘密を今日も探している。
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もう、8年も前になる。カフェに携わる仕事がしたいと考えた私は、カフェの専門学校に通い始めた。ただし、社会人向けのスクールだったため、週に一回。そして半年。大まかに開業に向けての流れを教えてくれる学校だった。
そこで好きだったのが、実際に店舗オーナーやイタリアンバールの第一線で活躍しているバリスタの先生の話を聞く授業だった。
イタリアで修行してきた先生は、こう言っていた。
「イタリアでは、カフェはお店やさんという認識ではなく、目的もなくコミュニケーションをしに行く所。言わば、そこで暮らす人の生活の一部。決して特別なところではない。なんだか知らないが人が集まって、他愛もない会話をして、新しい出会いや新しいアイディアがポン!と浮かぶような場所。カフェはお店であるのと同時に、その街の日常の一部なんだ。」
そして、「バリスタとはコーヒーを淹れる人」ではなく「その街の日常をつくる人」である、と。
例えば、道を聞かれた時、美味しいお店を聞かれた時、目の前で困っている人がいた時、そういう時こそバリスタの出番なんだ、と。
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この話に、私は大きな影響を受けた。
そして、その話を聞いてから《バリスタ》というものにさらに興味を持つようになった。
お店と人、街と人、道路とお店。そういうところに隔たりがなく、フラットな存在でいたい。《お客さん》と《お客さんじゃない人》という境目すら、いらない。
その気持ちが、現在の移動カフェというスタイルに直結している。
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つまり、カフェは人とまちをつなげる最強のツールなのだ。
特別な日に行きたい、おしゃれなカフェがあってもいい。だけど、いつもそこに存在している、いつものカフェがあってもいい。
コーヒーの前では上下も仲間も敵もなく、みんなおんなじ、人だ。
個人店ではあるし、継続するために利益も出していくべきだが、立ち位置としては《パブリックスペース》公共に近いイメージ。
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無理にコミュニケーションを取る必要もないし、ひとりでゆっくりするのもいい。考え事をしたいときもあるし、本を持ち込んだって良い。
そこに居合わせた人と話が弾めばそれもいい。今日は良いことがあったから誰かに話したい。そう思ったときもカフェの出番。集まってくる知り合いに挨拶がてら、コーヒーを片手に電車を待ったっていい。
カフェは自由だ。ただし、自由であるのと引き換えに、各々のモラルが大切な場所。
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カフェの楽しさは、こういうところにある。
美味しいコーヒーが、そこに向かう目的でもいい。
でも、美味しいコーヒーが、そこに向かう口実でもいいはずだ。
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今日も、曇り空をみながら、カフェの可能性を模索する。
最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。豊田市駅の移動カフェcafebusnonの希でした。
コミュニケーションの苦手を克服する方法
少し前に、コミュニケーションについて書いてある本を読んだ。
その本の一文に、こんな言葉があった。
「コミュニケーションの目的は、コミュニケーションである。コミュニケーションとは、その場にいる全員が気まずくならない為のゲームである。」
分かりやすくて面白い考え方だと思った。
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自分も含め、コミュニケーションを苦手だと思っている人は意外と多いような気がする。
コミュニケーションのことを《なんとかその場の相手と会話をつなぐこと》と思って、必死で話し続ける人もいる。
私も、お店を始めた最初の方は、コーヒーを淹れながらお客さんが退屈にならないように、頑張って喋りかけていた気がする。
でも、ある時、はっ!と気が付いた。
コミュニケーションは、喋りかけるだけではなく、むしろその他の非言語コミュニケーションの方がよっぽど大切なのではないか?と。
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よく、一方的に喋り続けている人がいる。本人はコミュニケーションが得意だと思っているようにも見える。
ただし、よくよく双方の様子を見ていると、相槌を打っているほうはお世辞にも楽しそうとは言えない表情をしていたりする。
聞いてもいないこと、興味のないことを永遠と聞かされるのははっきり言って気が滅入る。だんだんと、相手の話をなるべく早く切り上げてもらおうと思っているのが態度に現れる。
この状態は、決してコミュニケーションが上手くいっているとは言えない。
一方、そんなに会話がずっと続いていなくても、双方の表情が豊かでお互いに質問をしあい、心地いい時間が流れている場合もある。
《楽しくて、時間があっという間にすぎてしまう》という言葉がぴったりな感じ。恋愛の始まりにも似ている。
その2つの違いはなんだろうと考えてみた。
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話している内容も、もちろんある。
でも、もっともっと大切なのは《非言語コミュニケーションの方なのではないか》と思う。
非言語コミュニケーションとは、言葉以外の相手に伝えるための手段である。
例えば、目線。相手の目を見て話しているか、聞いているか。表情は微笑んでいるか、真剣に見つめているか、怒っているのか、悲しんでいるのか。
そして、相槌。「うん、うん」に加え「へえ!」「そうなんですか?」「それで、どうなったの?」相手の話を促すような返し方。思わず、話してしまいたくなるような、聴き方。
それから、身振り手振り。相手に身体を向けているのか、顔だけで向いているのか。腕を組んでいるのか、恐縮した態度なのか。友好的なのか、かしこまっているのか。
相手にものを差し出す時や、受け取るときにも大きくあらわれる。
その他にも、髪型や服装、メイク。歩き方や食べ方。笑い方や、話す速度、声の大きさ。その全て、目の前に相手が存在すれば非言語コミュニケーションとなる。
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もし、自分のことをコミュニケーションが苦手だと感じるなら。喋るのが上手くないなと感じるなら。
徹底的に非言語コミュニケーションに気を配ることをおすすめしたい。
その為に1番大切なのは、目の前の相手に興味を持つことである。
目の前の相手に興味を持つことは「敬意を抱くこと」でもある。
「相手の興味のあることに興味を持つこと」でもある。
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「目が合ったら笑いかける」これも立派なコミュニケーション。
エレベーターで「何階ですか?」と気遣う。これも立派なコミュニケーション。
扉を、後ろの人が通るまで手で支えてあげる。これも立派なコミュニケーションだ。
そして、そういった空気が自然につくれる人。そういう人がスマートな人で粋な人だ。
そういう人は、同性にも異性にも、好感を持たれる。一緒にいて心地よいなと感じてもらいやすく、いうまでもなくモテる。
おしゃべり上手じゃなくてもいい。誰にでもモテる人は、きっとこういう部分に敏感なのだ。
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しゃべるのが苦手だからこそ、相手の心地よい空気づくりは得意。きっと、そんな人もいるはずだ。
私もまだまだ修行中。
コミュニケーションが苦手な人も、無理をせずに人と接する楽しさに気付いたら、世界が変わる…かもしれない。
最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。豊田市駅の移動カフェcafebusnonの希でした。
いつも悩みが尽きない人へ
あーでもない、こうでもない、ん〜〜〜〜どうしよう!
大きなことから、小さなことまで、人と悩みは切っても切れない関係だ。
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いろんな悩みがぐるぐるとループしていると、自分は今、いったい何に悩んでいるのか分からなくなってしまう。悩んでいることが分からなければ、解決することはない。
そんなときおすすめなのは、一回頭の中を整理して書き出してみること。
書き出したものの中で、解決策があるものや、解決策がわかっているものは悩みではない。自分ではどうしようも出来ないことも、悩みではない。
そう割り切ること。
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そして、悩んだ時の判断基準をおおかた決めておく。
例えば『迷ったときは、好き嫌いで判断しよう』とか『悩んだときは、直感でいこう』とか『決められないときは、合理的に考えよう』とか。
(私は、直感と好き嫌いで判断する)
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【悩む】と【考える】は似ているようで全然違う。
「AにしようかBにしようか」
好みと、条件とで考えるから悩む。悩んでいる時点でどっちを選んでもいい。もしくは、悩むくらいならどっちもそんなに必要ではないのかもしれないと気付くかもしれない。
「好きな人が振り向いてくれない」
自分に出来ることをやり尽くしたら、あとははっきり言って悩んでもしょうがない。だって決めるのは相手だから。(この、「自分に出来ること」を考えて実行するのは、けっこうわくわくする楽しい。悩みどころか、それを楽しむのが恋愛だと思う)
「お金が足りない」
お金を生み出す方法を考えるか、転職するか、副業するか、節約するか。解決策はたくさんある。(給料が上がらないかな〜と心のなかで思うのは、悩みとは呼ばないと思う。だってお給料を決めるのは会社だから。そしてそれに納得して働いているのは自分だから。嫌ならやめるしかない。)
「相手が言うことを聞いてくれない」
伝え方を変えるという解決策を考えるか、そもそも相手は自分の言うことを聞く義務はないということに気付くか。
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もちろん、すべてのことがこんなにさっぱりと解決するとは限らない。
でも《悩む意味が無い出来事には、悩む必要がない》ということに気付くはず。
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そして、もうひとつ。
いつも悩んでいる人は、もしかしたら、自ら悩みを作り出しているだけかもしれない。
自ら、未来に不安を作り出しているだけかもしれない。
《不安が募る》の【募】という漢字には、無いものを努力してかき集めるという意味がある。
無いものを、努力してかき集める。
不安という、存在しないモノを、努力して自分でかき集めている。
…その必要、ある?
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悩みがあることは、悪いことではない。
考えるきっかけをくれる貴重な存在なのだから。
ただ、悩んでも意味がない出来事には、悩む必要が無い。
悩むことと、考えることは違う。
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人生という限られた時間。なおかつ、必ず終わりを迎える時間を過ごすのであれば、自分にとって有益に使いたいもの。
悩むことと考える事の違いを知るのは、自分のために必要なことである。
最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。豊田市駅の移動カフェcafebusnonの希でした。
接客者は、葉の上の水滴のように。
少し前から、千利休を勉強しよう!と、ちょこちょこ本を読み進めていました。そこで共感した言葉があったので、今日はその紹介を。
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接客は《相手に合わせるべき》なのか《自分のスタイルを持つべき》なのか。
少し前にも「お客さんによって、接客を変えますか?」と聞かれました。
変えると言われれば変えるし、変えないと言われれば変えない。
そして、じゃあどっちが正解なの?と言われると、どっちも!としか言いようがない。それを言葉で人に説明するのが難しかったのですが、この本にヒントが書いてありました。
この本は実話ではなく、もし今現在に千利休が生きていて、飲食店のコンサルタントをやったらどうなるか?という架空の話です。そこに、こんな言葉が出てきます。
【葉の上に落ちた水滴はそのもの自体は何も変わらない。しかし、下に緑の葉があれば緑の水滴に見える。紅葉の葉があれば、赤い水滴に見える。水滴という本質自体は変わらないけれど、人によって見え方を変える。それがいい接客というものです。】
まさに、こういうことだよなーと妙に納得してしまいました。
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自分自身の本質は、何も変わらないこと。
だけど、相手に合わせて自分を染められること。
主張するわけでもない。ただ、自分が存在することで、より一層相手を輝かせれたらそれが1番いい。
そんなことなのかもしれないなと、この本を読みながら思いました。
千利休さん、まだまだ飽きずに勉強させて頂いています♪
同じ国に生まれたことに、心から御礼を申し上げたい次第でございます。
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日々、いろんなやってみたい仕事が思い浮かびます。そしてふと考えてみると、そのどれもが人と直に接する職業です。
私は、超のつくほど人見知りです。大勢の人がいるところに突撃するのが本当に苦手です。知らない人ばっかりの立食パーティーとか、本気で泣きたいくらいです。親戚とか、従兄弟とか、親族であっても。笑
それでも、人が好き。
本当は人が好きなのに、自分から距離を縮められない。そういう部分があるからこそ、接客業というきっかけを必要としている。自分のために、必要としている。
苦手があるからこそ、それを武器に出来たらいい。
そんな人間でいたい。そう思います。
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今日も、たくさんの人と出会えて、本当に楽しかった♪
いつも寒いなか立ち寄っていただいて、ありがとうございます。
これからも、よろしくお願いいたします。
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最後までお付き合い頂きありがとうございました。豊田市駅の移動カフェcafebusnonの希でした。
常識ではないことを、もっと楽しもう
常識ある人は、自分を世間に合わせようとする。非常識な人は、世間を自分に合わせようとする。ゆえに非常識な人がいなければ、この世に進歩はあり得ない。(ジョージ・バーナード・ショー)
常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう。(アインシュタイン)
いつからか、常識ではないことを考える方が、楽しいと思うようになった。
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「好きなことで食べていくのは大変だ」って誰が決めたんだろう?
好きなことで食べていく選択をしなかった人だろうか。
本当に、その人は挑戦してみたんだろうか。
本当に、その人は「好きなこと」だけにフォーカスを当てていたのだろうか。
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「便利な方が、豊かだ」って誰が決めたんだろう?
便利さで利益を出していくことを求められた企業だろうか。
ものを売るためのうたい文句ではないだろうか。
エコのために、どんどん買い換えるのはエコなのだろうか。
本当に、そこまでの機能が自分には必要だろうか。
そもそも、本当に、不便だと豊かではないのだろうか。
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いろんな常識を疑ってかかっている。
ニュースを見てもテレビを見ても、真に受けない。そうなんだと思うだけ。どういう作為があるんだろう、とか「真実の目的」はなんだろう、とか勝手に推測して楽しんでいる。
もしかしたら…という仮説を自分の中に何個も立ててみる。
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疑わないのは、目の前で実際に自分が眼にしている人やモノの空気や表情、感じる何か。そういうのを感じる自分のことを信じている。
常識を疑って、自分の感性を信じる。きっと、この先も。
なにか、新しいアイディアが浮かびそうな予感。でも、まだまだ考えがまとまらない。
頭のなかに、もやもやとした何かがあるときは、それを自分で整理する時間と空間が必要だ。
まーるい家の天井をながめながら、今日はそんなことを考えています。こういうひっそりとした時間が、たまらなく好きです。
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最後までお付き合い頂きありがとうございました。豊田市駅の移動カフェcafebusnonの希でした。
私はいつでも、あなたの味方です。
朝、1通の手紙が届いた。
差出人は、私が大好きな人。お届け人は、その旦那様。
今日は、なんて日だ!なんて幸せな日だ!
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「コーヒーが好きなんです。」そう言って、いつもにこにこしながら買いに来てくれるその人が私は大好きだ。
優しくて、素敵な人。もう、かれこれ2年は来てもらっている。
いつも穏やかで、周りの人も和んでしまうくらい、温かい。
一緒に来てくれる、小さなお客さまが、これまた可愛い。
上手でもない、私のアンパンマンのラテアートを「アパマン!アパマン!」と連呼してくれる。
そのかわいい声に、私も周りにいる人も、一気に和やかな気持ちになる。彼の空気を和ませる能力は、きっとママ譲りだ。
何より好きなのは、お母さんが我が子を見る眼差しだ。柔らかく包むような愛情を、はたから見てもひしひしと感じる。
《我が子追う 瞳のおくの 美しきこと》
うん、こんな感じ。
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今朝届いたお手紙は、新しい家族が無事に生まれてきたことのお知らせだった。
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「もうすぐ、生まれる」そう聞いた時から、私までドキドキドキドキしていた。生むのあなたじゃないでしょ!ツッコまれるくらい、ドキドキしていた。
なんにも出来ないかもしれないけど、もしかしたら100分の1くらい力になれることがあるかもしれない。力になれることがなくても、不安がほんの少しでも減ったらいい。力不足で何にも出来ないかもしれないけど、話を聞く事なら出来るかもしれない。
そう思って「もし、なにか力になれることがあったら…」と電話番号を書いた名刺を渡した。
とにかく、味方でいることを伝えたかった。
実家はたしか遠いと言っていた。もしかしたら、心細いかもしれない。
だから、すぐ近くにも味方はいる。そう伝えたかった。
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しばらく、きっと会うことは出来ない。産後は、きっと私が想像している以上に大変だ。
それでも、本当に良かった。あなたにとっての幸せは、私にとっても最高の幸せだ。
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改めて、おめでとうございます。
そして、本当にお疲れ様でした。
いつになるかわかりませんが、またコーヒーが飲める日まで楽しみに待っています。
出産してすぐに、お手紙を書くのは大変だったでしょう。心遣いに、心から感謝いたします。
また、いつか。会える日まで…
私はいつでもここにいます♡
《お知らせ》3月の長期連休 3/7〜3/17
少し先ですが、3月7日から17日までお休みをいただきます。
ちょっと、モルディブに行ってきます(๑´ڡ`๑)
一生で1回は行きたい!と10年前から言っておりました。
まさか本当に行けるとは、自分でもびっくりしています。本当に、感謝と言うかなんと言うか、いい人生だな〜と思います。
『何にもない、という贅沢』ということで、なーんにもしないで贅沢に過ごしてきます。
あぁ、楽しみ♡
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SNSやブログで小声ながら発信するようになって、思ったことがあります。
好きなことや、やりたいことや、願望は、どんどん周りに伝えたほうがいい。
周りの人は、実は、あなたのことを喜ばせようとしているかもしれない。あなたの幸せを見るのが幸せかもしれない。
「これが好き」「こうしたい」と胸の内に秘めていても、周囲に伝えていなければ、周りの人も何をしたら喜んでくれるのか分からない。
「好きなこと」を明確にしておくことは、ある意味で親切なのである。
こんなことを言うと、すごくわがままな感じがするかもしれませんが(笑)
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私だったら…
誰かを喜ばせたいと思った時には、まずその人の好きなものを知りたい。
そして、欲しがっているものや、言ってほしい言葉、行きたい場所を探る。
直接聞くという方法もあるけど、出来ればサプライズしたい。
そう思った時に「私はこういうモノが好きで、こういう場所が好きで、こういうライフスタイルです。」と公言している人だととても助かる。
喜ばせることに、不安になる必要がないからだ。
人は本来、誰かを喜ばせたい生き物なのだ。
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決して、他人に期待して生きろってわけではないですが、どうせ発信するなら好きなことがいい。それによって好きなものが集まってきたら、最高。
それくらいのスタンスでいると、心地よく生きれます。
生きることは、楽しむことだ。
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《集める》のか《集まる》のか
「この人は、人を集めたいのかな?集まって欲しいのかな?」
少し前、会話していた中で気になった事。
その時は「集客の話」をしていたのだけど…
集めると集まるの違いについて理解しないまま、人を集めることは出来ないのではないか、と。
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お客さんにたくさん来てほしい。
そう思った時にお客さんを集める方法を考えるとする。
ただ、集めるといっても《集めた》のと《集まった》のでは、全然違う。
《集める》ためのアプローチと、《集まる》ような仕組みも全然違う。
集める、とは短期的な場合(イベントや期間限定など)に効果的で、主催者側の意図が主体である。
集まる、とは長期的な場合(日々の営業や、日常的なもの)に効果的で、意志はお客さん側にある。
長期的に、毎日人を集めようとすると、大変な労力を要するため、小さなお店をやっている場合は、集めるのではなく集まるような仕組みを作るほうがいいような気がする。
だけど、年に1回のイベントや資金を集めるためのクラウドファンディングの場合は、集めるためのアプローチがとても大切だ。
集まる、よりも集めるの方が瞬間的に大きなエネルギーになるからだ。
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いつも賑わっていて、1年の中のライフイベントでも大盛況なお菓子屋さんがある。
そのお店は、日常的には《お客さんが集まってくる》
しかし、イベントごとになるとお店側からちゃんと集めるためのアプローチを展開して《お客さんを集めている》
そして、お客さんもそれを心から楽しみにしている。
どっちも大切なんだなあと、勉強させてもらえる。
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私個人は、《人を集める》ことはめっぽう苦手で、どちらかというと《集まってもらえるように、日々営業する》ほうが合っている。
昔、とある営業活動をしていた時に《人を集めようと頑張る人》と、《集まってもらえるように、日々のありかたを考える人》がいた。どっちも先輩だったから、私は2人の様子を観察していた。
短期的には、集めようとしたほうがたくさん集客出来た。しかし長期的にみたら、集まってもらえるように考えていたほうがたくさん集客出来ていた。しかも、楽に。(楽に、というのは語弊があるかな。日々のこつこつとした関係づくりを楽しんでいたように見えたから、無理矢理お客さんを引っ張ってくるようなことはしていなかった。)
この2つは、似ているようでぜんぜん違うのだ。
方法も、意図も、効果も、どちらに意志があるのかも。
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とにかく人が来てくれたらいいな…と抽象的になっているときは、本来の目的を思い出すことをおすすめする。
本来の目的のためには、集めたほうがいいのか。集まってもらったほうがいいのか。
なぜ、集めたいのか。なぜ、集まって欲しいのか。
何のために、集めたいのか。何のために、集まって欲しいのか。
作戦を考えるのは、それからだ。
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最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。豊田市駅の移動カフェcafebusnonの希でした。
自分が存在している価値は、自分で創れる
今日は、ちょっと嬉しかったお話。
NONに寄ってくれる、とてもかわいい女の子からこんな言葉を頂きました。
「好きなことで勉強したいことを見つけました。そのきっかけは、ここです。ここに来ていたら、好きなことを仕事にしてみたいって思って…」そう言ってくれた方がいました。
嬉しすぎて、みんなが見ていない時に実は涙ちょちょぎれてました。
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なんでそんなに嬉しかったんだろう、と考えた時に出てきたのは、存在意義のこと。
もしかしたら、人は、自分が存在している価値を感じられた時にとても幸せになるのかもしれない。
例えば、仕事において。
「あなたのおかげで、とてもいい成果が出ました。」
そう言ってもらったらすごく嬉しい。自分が存在している意味を感じられるからだ。
例えば、パートナーにおいて。
「1人では出来ないことも、2人で力を合わせたら出来るね」
そういって笑い合えたとき、お互いに、自分の存在意義を感じるだろう。
例えば、子供に対して。
これは、そもそも、子どもが存在している事自体が自分の存在をあらわしていることになる。自分がいなかったら、この子はいないし、先祖の誰かが欠けても自分が存在しない。子どもの存在=自分が存在した証だ。
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自分が何かをしたことで誰かが喜んでくれたとしたら、自分の存在に自分で価値を与えることが出来る。
自分が、この地球に生まれてきた価値があったな〜と、自分で認められる。
《自分が存在している意義が分からない》そう思ったときは、自分で価値をつくったらいい。今、目の前の相手に何かを出来たら、それを喜んでくれたら、それが自分の存在意義だ。
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「好きなことをしていること」にも、ちゃんと価値はある。「好きじゃないことをしていること」にも、ちゃんと価値がある。
どちらも、大きな価値がある。
ただ、そのアプローチが違うだけ。自分が、どっちがいいかを選ぶだけ。
《生まれたからには、自分が生きた証を残したい。》
これは、人間の本能なのかもしれない。
《自分の存在には価値がある》
そう思うことは、生きる上で大きなチカラになることは間違いない。
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働くことは、それを感じる一つの手段。
家庭を持って子どもを育てることも、一つの手段。
何かを極めることも、一つの手段。
本当は、存在しているだけで、みんな大きな価値がある。でも、それをすぐに忘れてしまうから、実感して感じることも時には必要なことなのかもしれない。
最後までお付き合い頂きありがとうございました。豊田市駅の移動カフェcafebusnonの希でした。