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断片的なものの社会学
最近は、図書館で本を借りまくっている。月に3回ほど通い、ごっそりと借りてくる。ジャンルはさまざまだが、エッセイが多い。軽くて笑っちゃうようなものや、真面目なもの、本にまつわる本が多い。何かを得てやろう!と思っていたときより、読む時間自体を楽しんでいるような感じだ。
だから、全然記憶に残らないものもあるのだけれど、ときおり思考を立ち止まらせたくなる本に出会うことがある。流れていくような本もいいけれど、何度も読み込みたくなる本もいい。これは、そんな立ち止まってしまうような本だった。
【断片的なものの社会学】
筆者は、路上生活者や同性愛者、風俗嬢や摂食障害、戦争経験者などのマイノリティの人々にインタビューして社会学を研究している岸政彦さん。
インタビューをしていくうちに、どうしようもない出来事にしばしば直面する。「良い」でも「悪い」でもない、なんの意味もない出来事たち。そんな「どうしたらいいかわからない事」で、人生は出来ている。
分かりやすいエピソードは、これだ。
岸さんが大学生の時に飼っていた犬が、岸さんの外出しているうちに、死んだ。全身に癌が広がっていて、自分で動くことも食べることも出来ないような状態だった。ずっと看病していたのだけれど、ある日30分ほど外出してるうちに、静かに息を引き取った。
岸さんが犬の死に際を見てやれなかった事を気にやんでいると、ある人が言った。「あなたに死に際を見せたくなかったから、出かけている間に先に逝ったんだよ。」
そのことに対し、岸さんは怒った。犬は、そういうことを考えない。1人で死んだことに意味なんて無い。ただ、1人で死んだだけだ、と。犬を擬人化したような考え方は、自分が一緒にいてやれなかったことを正当化し、犬の最期の孤独を無にしてしまうのではないか、と。
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このエピソードを読んで、思い当たる事があった。【すべての出来事の意味を考える人と、すべての出来事から意味を見出す人】が、それぞれ世の中には存在している。そういうことを考えていた事があった。
【すべての出来事の意味を考える人】は、なにかが起こったときに「〇〇だったから、△△だったのかもしれない」と考える。この犬の例で言えば、岸さんをなぐさめようとしてくれた、「ある人」の言葉のような考え方だ。
怪我をした時、病気になった時「乗り越えられるからこそ、神様が与えた試練」という言葉はこれに当たる。自分たち人間より、大きな何かの存在があり、その何かの采配でそうなった。必然だった、という考え方だ。起こった出来事に対し、受動的な印象を受ける。
【出来事から意味を見出す人】は、似ているようだけど真逆だ。起こった出来事は偶然だった。でも、それをそのまま受け止めて、だからこそ「こうしていこう」という指針を自分で決める。起こった出来事に対して、能動的に働きかけている感じだ。
たとえば、たまたま歩道を歩いていたら、車が突っ込んできて事故に遭遇し、腕を骨折してしまったとする。
前者は「もし、そのまま事故に合わなかったら、もっと大きな事件に巻き込まれていたかもしれない!それをご先祖様が、止めてくれたのかもしれない!」と言いそうなイメージ。
後者は「たまたま歩いていたら、事故にあって腕を折ってしまった。けれど、そのおかげで腕が不自由な人の気持ちを知ることが出来た。これからは、もっと親切に接しよう!」と。
どちらも、ポジティブといえばポジティブなのかもしれない。前者の考え方は、起こった出来事を受け止められないから、そこに意味を探そうとする。出来事を受け止めるために、意味を探す。愛すべき人間の弱さかもしれない。後者は、淡々と受け止めた後に行動を起こすために、意味付けをする。人間の力強さを垣間見ることが出来る。
少し前に「ポジティブ思考」という言葉が流行ったけれど、こういう些細な違いから「ポジティティブ風な思考」がSNSなどの画面を埋めていることがあった。その言葉を発している人が本当に前向きに出来事をとらえているのかは、言葉の端々をみればすぐに伝わる。ポジティブ思考にならなきゃ!と考えているとすれば、その時点ですでにネガティブ思考だ。
話が大きくズレてしまった。
つまり、前者と後者はどちらが良い、という話ではない。この本の筆者の岸さんは、出来事を淡々と受け止めて、それをむりやり解釈するわけでもなく、意味づけするわけでもなく、ただそのまま「どうしたらいいかわからない出来事」として、そっとしておく。
励ますわけでもなく、同情するわけでもない。それが、一番の優しさだということを知っているのだ。
この本を読んで、私も「どうしたらいいかわからない」気持ちになった。だから、この気持ちはあえてそっとしておくことにした。胸の中の絶妙な感情が広がっていく。初めて出会ったタイプの本だった。
なぜ、本屋さんで働きたいのか
前回は、嬉しさのあまり浮かれた記事を書いてしまった。ので、今回はちゃんと書きます。
本屋さんの記憶
読書家、というわけではないのだけれど、本が好きだ。
いつからだろう?小学生か中学生の時に、家にあった桐野夏生さんの「OUT」という小説を何度も何度も繰り返し読んでいた。「OUT」は、バラバラ殺人を決行する主婦たちの話だ。お風呂場で死体を解体するという、ショッキングな内容の話だったのだけれど、怖いもの見たさで何度も読んでいた。してはいけないような事をしているような、背徳感があったのかもしれない。それが、【本】に対する一番古い記憶だ。
【本屋さん】に対する記憶といえば、小学生の時に駅前にあった本屋さんの記憶だ。学校から帰ってくると自転車に乗って、立ち読みをしに行く。1人のときもあれば、友達と一緒だった日もあった。ほとんどいつも立ち読みだけ。今考えれば、あんな小さい店で数時間も立ち読みして、何も買わずに店を出るなんてことが良く出来たなあと思う。
当時、駅前には2つの本屋さんがあった。どっちも、個人の小さなお店で、交差点を挟んで反対側に位置していた。ひとつはタバコ屋さんがくっついているおばあちゃんの本屋さん。私がいつも行く方は、もうひとつのおじちゃんの本屋さん。なんでそっちのお店に行っていたのかというと、漫画が多かったのと、明るくて立ち読みしやすくて、居心地が良かった。外からの光がよく入る白い店内ということもあったけれど、蛍光灯の色味がかなり白かった記憶がある。
おばあちゃんの方は、立ち読みしているとハタキをかけられそうな空気を感じていたのに対し、おじちゃんはそんな空気を出さずにいつもレジでなにか仕事をしていた。とにかく、居心地が良かった。
上京して、実家を離れて、何年か経ってから駅前を通った時。おばあちゃんの本屋さんはあったのに、おじちゃんの本屋さんは無くなっていた。立ち読みばっかりしている子どもが多かったから‥と思うと、心が痛い。駅前再開発の関係で無くなってしまったのだ、と信じている。
本に、救われる
読まなくては!と思ったこともないし、記録をつけているわけではないのだけれど、人生の節目、節目ではよく本を読んでいる気がする。
なにか選択を迫られているときや、漠然ともやもやしているとき。違和感を感じることがあったときや、強烈に引っかかるワードを得た時。
それから、背中を押して欲しいときに、自ら望んでいるような内容が書かれているような本を選び「やっぱり、そうだよね!」と、自分の都合のいいように解釈したりすることもある。それはもはや、誘導尋問のようなものだ。
自分の考えと似ていると思った著者の本を選んでしまうのも、自分を肯定したいからという理由が根底にあるような気がする。自分が思っていることを、作家さんや先生と呼ばれるような人も考えている、というのは妙に心強い。
【自分が考えていることは、あながち間違っていないのかもしれない】そう思えることは、自己肯定感を格段に高めてくれた。
自分で自分の事を認めた上で、自分とは違うタイプの人の本を読むと、これはまた新鮮で面白かったりする。
コーヒーのことを勉強しながら、茶道の本を読んだりするのも面白い。似ている部分や、それが誕生した国の背景からの違いを知ることで、より深く腑に落ちたりする。
時には、涙をながしながら。時には、苦しいほど心を握りつぶされながら。本の中の言葉に、助けられてきた。
本屋さんで働いてみたい
本屋さんで働くということは、本屋さんの中にいられるということ。遊園地以上にエンターテイメントだと思っていた場所に、身を置けるというワクワク感。これはカフェの時にも感じていたけれど、純粋にその空気が好きなのだから、おそらく楽しい。
そして、新しい本や、知らなかった本を出会える可能性は格段に増える。売れ筋を知って、人が何に興味があるかの傾向もわかるかもしれない。本を手にとってタイトルを眺めるのだって、仕事しながら出来るなんて、ある意味すごい。(あ、でもテキパキやんないといけないんだよね、きっと)
なにより、一番は【本の裏側を知りたい】
年々、厳しい厳しいといわれている業界。現場の作業もなかなか大変そうな気がする。本は重いから、労力もかかる。そして、取次からの委託制度や返品制度というのも、実際にはどんな規模で行われているのか、毎日新刊はどれくらい出ているのか。返品された本は、どこに行くのか。
それから、わくわくする本屋さんの棚と普通の本屋さんの棚は、なぜぜんぜん違うのか。どうやって選んでいるのか、並べているのか。利益率が低い本という商品で利益を出していくアイディアなど、裏側から見てみたい。
衰退している業界かもしれないけれど、絶対に無くなってはいけない。それが本屋さんだ。
私にとって、コーヒーのお供は本なのだ。その本の事を知りたいと思うのは、ごくごく自然なことだ。ここまで書いて、面接落ちたら笑おう。それはもはや、ネタである。ナカジマノゾミでした。
あ、そうだ、バイトしよ
平和な悩みの行く末
「平和な悩みすぎて、ほっこりしちゃったよ。」
先日の記事を書いた翌日に、こんな感想をいただいた。
ほっこり!?ほっこりですか?!
私の頭を占領していた呻き声は、世間でいえば平和すぎる悩みだったようで、なんだか猛烈に恥ずかしくなった。自分とっては、頭の中であーだこーだモヤモヤしていることだけれど、他人からしたら、大したことなさすぎて微笑ましいとすら思われている。そういうことって、結構ある。
淡い恋心なんかが、それに当たるかもしれない。本人にとっては、いたって真剣だ。悶々と日々、頭を悩ませている。でも、他人からしたら(若いっていいわね♡)くらいにしか思われていない。
ほっこりというワード聞いてから、なんだか肩の力が抜けたような気がした。
そして、あることを閃いた。その瞬間、小躍りしたくなるほど、胸が高鳴った。
なんだ!なんだ!そうじゃんか!なんで気が付かなかったんだよう!私ってば、お馬鹿さん!
私のゆるゆるな日常
私は、家事に対して自分に課しているハードルが低い。たぶん、おそらく、けっこう低い。
2日に1回は【フリーデー】と称して、何にも家事をしなくてもいい日、ということにしている。気がノる家事はするけれど、気がノらない家事はしない、という日だ。
何にもしなくてもいい、とはいえ最低限の【つむつむの食事とお世話】はする。でも、洗濯は気分が乗らなければ翌日でもいいし、完璧に掃除なんてしなくても死にはしない。自分の食事を作るのが面倒くさければ、昨日の残りとか冷蔵庫にあるものを食べればいい。
つむつむと遊んで、お昼寝中には焙煎か読書をして、起きたら、またつむつむと遊ぶ。それだけの日。「やらなきゃ!」というストレスがたまらないし、私にとっては心地よい。
そして、そんなゆるゆるな日を2日に1回も設けているものだから、思ったよりもヒマ、なのだ。
いや、ヒマというのは専業主婦への誤解を招くし、語弊があるかもしれない。
家事を一生懸命していたら、ヒマなんていうことはありえない。ヒマならば、家事を一生懸命しなさいよ!という話である。しかし、私の場合は、家事を最大限に手を抜いてリラックスした結果、ヒマだということになっているのだ。家事を一生懸命完璧にする、という選択肢はない。
だけれど、常になんにも考えなくても生きれる、頭の余白が多すぎて考え事が何一つない、という状態なのである。最高に幸せではあるのだけれど、緊張感が無さすぎるような気がしてしまう。
それに、恐怖を感じることもある。
恐怖、というのは自分自身に対しての、恐怖だ。お金に対する恐怖でもなければ、社会に対する恐怖でもない。このままぼーっと生きていたら、脳みそのシワが無くなるかもしれない、という恐怖だ。
そんなに考え事が欲しければ【家族のことや家事のことを一生懸命考える】という方法だってあるのだけれど、そういうわけでもない。趣味に対して、もっと積極的に向かうというのも一つの手ではあるのだけれど、それもいまいちピンとこない。
そもそも、私がいくら家族のことを一生懸命考えたところで、家族のメンバーそれぞれにしか自分の幸せは判断できないのだから、私はその基礎を作ることしか出来ない。だとしたら、それ以上私が考えても仕方がない気がしてしまう。【あなたの為にこんなにしている】は、押し付けでしかない。
あれこれ家族の心配をして神経をすり減らす、という繊細さも持ち合わせていない。
さらには、趣味を作って没頭することが苦手だということに、仕事を辞めてから気付いてしまった。
【自分を喜ばすことが趣味・相手を喜ばすことが仕事】という言葉を以前見たのだけれど、まさにその通りだと思う。私は自分を喜ばすこと(趣味)に、さほど感動を覚えないタイプらしい。趣味を作って取り組むことに真剣になれない。それよりも、相手が喜んでくれそうなことを考える(仕事)の方が楽しい。その喜びの方が、断然大きい。それをバリスタという仕事を通して知ってしまった。(趣味も極めれば誰かを喜ばすことができるのだけれど、それが前提ではない。)
子どもを預けたいわけじゃないけれど、一緒にいたいけれど、仕事もしたい。欲張りだけれど、どっちもしたい。
そんなこんなで悶々としていたのだけれど、解決の糸口が見つかった。私にとっては、なんで今まで気付かなかったのだろう!という大発見だ。
働ける!という発見
我が家の旦那さんの勤務は、朝行って夜帰ってくるような、いわゆる通常の勤務ではない。一回の勤務時間が長く、その分、次に仕事に行くまでの時間も普通より長い。
仕事がない日の夕方から夜の数時間であれば、無理なくつむつむを見ておいてもらえるのでは…。
そうして仮定してみると、週に2、3回働いたとしても、家族でまるまる過ごせる日が週に1、2日は取れる。そして、いつか働いてみたいと思っていた本屋さんという業種で、ちょうど夕方から夜の時間帯でバイトが募集されているではないか!
なんだよう!なんで気付かなかったんだよう!私ってば!
というわけで、早速来週、バイトの面接を受けることにしました。善は急げ。(この体が勝手に動いちゃう感じで、自分の本心が分かる)
やっほー!バイトなんていつぶりだろう。ものすごい未経験初心者だけど、本屋さんで働きたいなあ。受かるといいなあ~。
*********
ちなみに、旦那さんに「預けなくても働ける!世紀の大発見!」ばりに本屋さんで働きたいということを熱弁プレゼンしたところ「そんなに、働きたいんだね(苦笑)それなら、やってみたら?」と承諾してくれました。最高かよ!♡
ここ数日、ご機嫌が止まらない。ナカジマノゾミでした。
私が、私を殺していく
外食の時に考えること
昨日は、つむつむ君とパパと3人でお出掛けしていました。
ちょうどお昼時だったので、外食をすることに。子どもがいると当たり前なのかもしれないけど、外で食べるときには、だいたい迷います。
まず、大前提は、子どもと一緒に食べられそうなものがあるお店。そして、暴れて困る雰囲気ではないお店。少しガヤガヤしているくらいのお店。
そして、そのお店の中から、半分こ出来そうなメニューを注文します。
メニューはどうやって決めるかというと、子どもの食べやすそうなものを考慮した上で、その日の子どもが着ている服を見て、ポロポロ食べこぼしても大胆なシミが出来ないメニューが候補にあがる訳です。(赤い服の日は、トマトソースでもいいけど、白い服の日はやめておこう、とか。ちなみに白い服の日は、ぶどうジュースも避けたいからりんごジュースか水にしよう、とか。脳内会議をしている)
それを、何ヶ月か当たり前のようにしていたから、気付かなかったけれどなんだか違和感があって。この違和感は、なんだろう?と考えているうちに【何が食べたいか、ではなく何を食べるべきか、で決めている自分】にハッとしました。
これは、私が私を殺している、ということではないのか、と。
自分の感性に耳をすますということ
私は、子どもが生まれるまで【選択する】ということを大事にしていた はず だった。
余分な条件を一切無視して、選択することを大切にしていた。
サービス券があるから、こっちにしよう。ポイントカードがあるから、このお店で買おう。身体によさそうだから、こっちにしよう。そういう理論的な条件を最大限に無視して、今自分が何を一番望んでいるか、に耳をすます。
簡単なようだけれど、ついつい人間は、ベストを考えて選択をしてしまう。それこそ【どうするべきか】【どうしたらいいか】で選択をしてしまう。
本当に大切なのは【どうしたいか】であるにもかかわらず。
日々、自分の感覚に耳を澄ましていないと、感覚は鈍る。その結果、大切な【どうしたいのか】がわからなくなってしまう。
今の私は、きっと感覚が鈍りまくっている。きっと多くのママも経験しているかもしれない。子どもの好きなのも、喜ぶもの、好きな場所。自分の感覚よりも、まず最優先に思い浮かぶのは喜んでいる子どもの顔だ。
私を殺している、なんて書いてしまったけれど、それは決して強要されていることでもないし、我慢しているという感覚でもない。むしろ、喜びだ。子どもの笑顔を優先して選択することは、ものすごく幸せなことなのだ。
一緒のメニューが食べられるようになったこと、たくさん食べられるようになったこと。たとえ、思っていたよりもたくさん食べてくれて、自分の分がなくなったとしても、それもまた幸せなのである。「あんなにちょっとしか食べられなかったのに、こんなにたくさん食べられるようになったのね!」という気持ちは、成長を見守る側として至福の時だ。
我慢や、押さえ込みばかりがベースになっていればどこかで爆発する時が来る。たまには自分の都合を優先させたい!とわがままを言う日が来てもおかしくない。
ただ、我慢ばかりでなく、幸せであるからこそ、ちょっとずつ自分で自分を殺していってることに気がつかない。幸せを感じることと、自分の感覚を鈍らせているということは、共存しうる。
気付いたら、自分の好きなものってなんだっけ?やりたいことってなんだっけ?と分からなくなったりする。
子どもが、子どもが、子どもが、問題
先日、ランチをしていたら、隣の席に二人組の女性が座った。聞くつもりはなかったのだけれど、話が耳に入ってきたから、こっそりと聞いていた。(おい!)
50代と思わしきその方々は、ランチ中、終始【他人】の話しをしていた。他人、とはいえ家族のことや子どものことだったから、正確には【自分ではない、何かのこと】だ。
子どもの大学が、子どもの彼女が、子どもの好きな芸能人が、子どもの成人式が。そして、あとは、テレビで見た情報など。
自分ではないものの話をして、何が楽しいのだろう?と、思いながら聞いていた。(⇦失礼)
そこに主体はいないわけで、会話の相手がその人でなくてもいいような気がするし、お互いに有意義な情報を得ているわけでもない。(とはいえ、誰かと喋りたい!という発散願望はかなえているのかも。だとしたら、とっても有意義。)
家族の話と子どもの話しか話題がない主婦には、絶対になりたくない!と思っていたけれど、いざ自分がその立場になってみると、それに近い主婦になっている。
なぜならば、他の何かのこと(夢中になれることや仕事のことなど、子ども以外のこと)を真剣に考えていないからだ。常々考えていないことは、口から出てくることはない。そして、文章になって手が動くこともない。
このままでは、超絶つまらない人間になっていくのではないか。避けたい事態に、自分から飛び込んでいるような気がしてならない。
そんな妄想をしながら、今日も私は生きている。今日は、自分が一番大好きなビールを買いに行こう。まだ、私は生きていたい。
「困らない」という困った現象
最近、困っていますか?
昨日、本を読んでいたらこんな言葉に出会った。
昨今、日常生活の中で「困らない」ということが当たり前になっている。しかし、手っ取り早く思える「困らない」という状況は、人生という大きな枠の中では本当は遠回りなのではないか?
困らないというのは、例えば、道に迷わないということ。今はスマホのナビを設定すれば、初めての場所であろうと大抵の場所に行くことができる。誰にも道を聞かなくても、1人で行くことができる。
そして、分からないことは誰かに聞かなくても自分で調べられる。インターネットを開いて打ち込めば、ほとんどの知識を得ることができる。やったことがないことでも、手順や方法は書いてあるし、説明書は検索したら出てくる。
それから、待ち合わせで会えずにすれ違うこともほとんどない。時間と場所を正確に決めなくても、友達と会うことができる。「今からそこ行くね!」で、いいのだ。
今現在、生活していて困ることってほとんどの人が無いような気がする。少なからず、私はほとんど無い。どんなものが必要なのか、欲しいものがどこに売っているのか、すぐにわかるのが今の時代。なんなら、自宅にいながら手に入れることができる。
企業や誰かが、困っていることを解決しようとしてくれて、世界が進歩していった結果のことではあるのだけれど。困らない世界になった結果、その場限りの情報や知識ばかりが増え、たくさんのことを知っているつもりになってしまった。
そして、身になる知恵や失敗するという経験は著しく減ってしまった。
クックパッド様様
料理を考えるのが面倒な時、とりあえず冷蔵庫にあるものをクックパッドに入力する。そうすると、これなら出来そうという料理がいくつか出てくる。それを、レシピを見ながらそのまま調理する。
当然、恐ろしく不味いということは無い。失敗することはほとんど無い。でも、これって「私が料理をできるようになっている」わけでは無い。
今の時代、インターネットさえあれば「料理ができない人」はほとんどいないのかもしれない。ただ、それで出来る気になってしまって「今度の時も、また調べればいいや」と、何も学ばずに何も得ないということは「料理が美味しくできる人になる」という結果には遠回りなはずだ。
考えてみたら、今は料理で失敗するということがほとんどない。(あ、焦がしたりは、今でもあるか)
タイヤ交換で困ったこと
一昨年、まだ山の中の我が家が圏外でWi-Fiつながっていない頃。朝起きたら、移動販売車のタイヤが2本パンクしていたことがあった。
旦那さんもいない。交換の仕方がわからない。でも、交換しなければ約束の場所に行けない。電波がないから電話もネットも繋がらない。「行けない」と言うことも伝えられない。
そういうわけで、何の知識も得ないまま、車のタイヤ交換を試みた。とにかく、やってみよう。もしかしたら出来るかも…
そんな気持ちで始めたタイヤ交換。だが、当然、うまくいかない。車屋さんで整備士さんが楽々やっているのを眺めているだけでは、どれくらいの力が必要なのかと言うことや、ジャッキをどこにどう挟めばいいのか?知っているようで知らなかったのだ。
戻すに戻せなくなってしまい、結局旦那さんの帰宅を待つことにした。約束に行けないという連絡を入れるために、電波のある山の下まで自転車で降りて行った。
あれは、明らかに失敗だった。そしてあの時の私は、間違いなく困っていた。
後日「タイヤ交換をしてみたけど、出来なかった」ということをブログにあげたら「タイヤは、分からないまま触らないほうがいい」という、ものすごく大切で最もなことをたくさんの人が教えてくれた。
この失敗で学んだことは【タイヤ交換は、私が思っていたよりも力が必要だから、近くの人に頼むなり、家族の帰りを待つなりした方がいい場合が多い】ということ。【見たことある・知っている、と、やったことあるは、大きく違う】ということ。そして【災害や万が一のために、インターネットを早急にひいた方がいい】ということ。
そして副産物として【自転車で山道を下るのはものすごく爽快】だということを知ることが出来た。【下るのは最高だけれど、帰り道は地獄のようにキツイ】ということと共に。
もし、困ったことが一瞬で解決出来ていたのなら。JAFにすぐに電話することが出来たなら。これらの体験や実感は、しなかったということになる。困ったことが起こるということは、いろんなことを体感出来る可能性を秘めている。
経営者の人や、日々変化の激しい仕事をしている人が精神的に強いのは「困ったこと」に対処してきた回数が、人よりも多いからではないかと思う。こういう時は、こうすれば大丈夫だったという過去のデータが体に刻まれているから、慌てることが少ない。困難を乗り越えた経験の分だけ、人間としての余裕がある。
困ったことは、ついつい避けたくなってしまうけど、本当は困ったことは、生きていく上で大切なことなのかもしれない。
今後、便利が増え、ますます困ったことが少なくなるかもしれない。そうなった時、一番困るのは、実は私たちなのかもしれない。
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1からはじめる
著者:松浦弥太郎
【日本茶体験】玉の露を嗜む
自分の中の日本茶がひっくり返った日
先日、日本茶を体験する会に参加してきました。日本茶は、なんとなく興味はあったもののこれまで関わって来たことはなく。(千利休にハマっていた時期があり、そのときは関連の本ばかり読んでいた時期があったのだが、主に接客やおもてなしの観点からの興味だった)
たまたま、近くのカフェで開催するんだけど来ない?と声をかけてもらったのがきっかけでした。
お茶、といえば薄緑色の液体で、ごく当たり前のように日本人の中に存在していて【知っている】ものだったはずなのに、その会で出してくれたお茶は【全く知らない】液体でした。
特に衝撃だったのは、旨味の濃い『玉露』を、低温で極々少量のお湯で抽出したもの。
20ccにも満たないような一煎目の、お茶。一口、口に含むとものすごい勢いで広がり続ける旨味。海のような、草原のような風景が頭の中に思い浮かぶ。
それは、到底飲み物と思えない謎の液体。
飲み物というよりは、ものすごく濃い出汁。飲み物というよりは、ものすごく丁寧に作ったスープ。
その上、頭が冴え渡るような、脳細胞に染み渡るような刺激も兼ね備えている。
なにこれ?と、思わず口からこぼれていました。
わずか20ccの液体に、よく知っている日本茶に、ここまで感動するとは予想しておらず。強烈な余韻は、それから夕飯を食べるまでの6時間以上も私の中に存在していました。
玉露、というお茶の分類は、最後の一滴が急須から出るときの形状から由来されているようで、雫が玉のように落ちることから、そう呼ばれるようになったのだとか。
身近にこんな飲み物があったということが、ものすごく衝撃でした。
今回は、豊田市の山の中の蔵のカフェ、ワークベンチコーヒーロースターズの古民家で行われたのですが、それがまた良かったのかもしれないです。耳を澄ますと、水の音と鳥の声と、さわさわという風の声。場所とイベントとの相性が抜群によく、これ以上ないという程のマッチングでした。
知っているつもりになっていること
もしかすると、知っている気になっていた、というのは大きな機会損失なのかもしれない。
世界のすべての事を知ることは出来ないから、目の前に起こった出来事をうっかり見逃してしまうことは仕方がない。でも、何かの瞬間にそんな未知の物事と鉢合う事があって、それに心から感動したりすることもあるようだ。
一応知ってる、という物事を「これくらいだろう」とたかを括ったりするのはもったいないのかもしれない。一度、本物を体験してみると、もっともっと世界が広がるのかもしれない。
それを更に深めるか、そうしないかはその時に決めればいい。
日本茶を通して、そんなことを学んだ1日でした。
また、あの冴え渡るような日本茶を飲みたいなあ。ナカジマノゾミでした。
1歳のHAPPY BIRTHDAY
先日、息子のつむつむ君が1歳の誕生日を迎えました
1年前の写真をみると、びっくりするほど皺くちゃでちっちゃくて頼りなくて。人間というより、動物にしか思えないような生命体。
1年で体重は約3倍、背も30センチ近く伸びました。この12ヶ月の凄まじい心身の成長を物語っているようで、感慨深くなりました。
子どもを持って変化したこと
つむつむ君が生まれてきてくれたことで、変わったことはなんだろう?と考えてみたら、1つ大きく変わったことがありました。親になる前と、親になった後でぜんぜん違うこと。
それは、自分の生に対する意識。
というよりは、生に対する執着心と言えるかもしれません。
子どもが生まれる前までの私は、もちろん「いつ死んでもいいや」とは思っていなかったけど、「いつ死んでもいいような日々を過ごそう」と思っていました。
もし、今日倒れたとしても後悔しないような1日を過ごそう。そのためには、やらなくていいことやしたくないことをしているヒマはない。やりたいことだけやろう。そして、死ぬまでにしたいことは早々にやろう!明日死ぬかもしれないと思って、生きよう。
そんな感じでした。
だから、100m落下するバンジージャンプも怖くなかった。だって、それで死んだとしても、やってみたかったんだもん!と。(ちなみに、今だったら、絶対にやりたくない。つむつむが成人して、孫の顔を見届けられたら飛べるかも。笑)
あの時だって、決して死にたいと思っていたわけではないけれど、そこまで死に対する恐怖は無かった。いつか必ずくるものだから。
でも今は、何があろうと絶対に生きたい。24時間一緒にいるつむつむ君の顔を、どうしても明日の朝も見たい。寝たきりになったとしても、目が見えなくなったとしても、彼を感じられる五感が1つでも残されているなら、生きたい。
それは、彼のためではない。「私がいなかったら、、、」という心配からくるものではない。ただただ、私のために、だ。
明日もつむつむ君に会いたい
どうしても、明日もつむつむ君に、会いたい。どうしても、2歳のつむつむ君がどうなっているのか見てみたい。どんな小学生になっているのか、どんな青春時代を過ごすのか。どんなことが好きで、どんなことに興味を持ち、どんな大人になっていくのか。
絶対に絶対に、見たい。
絶対に絶対に、死んでも死にたくない!
この気持は、今までに感じたことのない気持ち。まさに生きることに対する執着心だと言える。
もし、日本の寿命が伸びている要因が、子孫の成長を見届けたいという執着心からくるものだったら、日本ってすごい国かもしれない。(なんせ、平均寿命は伸び続けている)
彼が今日まで大きな怪我もなく、生きてこられたこと。いろんな日を一緒に過ごせたこと。ありがたい、という一言では全然足りない。共に生きる、ということがどれほど奇跡的で尊いことなのか、肌で感じ始めているのかもしれない。
今、すやすや寝ているつむつむ君。朝起きたときに「おはよう」と声をかけることが出来るのが、今は1番の幸せだ。
つむつむ君、1歳のお誕生日おめでとう。
これからも、いろんな毎日を一緒に過ごせますように。
ナカジマノゾミでした。
絵本【ふうしてあそぼ】読み聞かせイベント
作者さんによる絵本の読み聞かせと、それにまつわる絵の具遊び(ブロウアート)のイベントに行ってきました
対象年齢は、1歳半から大人まで。
1歳前のつむつむには、ちょっと早いかな~と思ったものの、どうしても会いたい人がいたので行くことにしました。
はるのまいさんは、移動カフェのときにある方にご縁を設けていただいて出会いました。
私の出産時期が近づいてきたときに連絡を頂き、ベビーラックやマタニティ用のジーパン、育児にまつわる本などを「良かったら、使いませんか?」と譲ってくれました。
その時まで、はるのさんが妊娠していたこと、1ヶ月前に出産していたことを全く知らなかったので、いつの間に出産されたのだろう?と、びっくりしました。
SNSで投稿されている内容は普段と変わらないように思えたし、仕事も忙しそうなイメージだったし、そんな一大ライフイベントを抱えていたとは思いもよらなかったのです。(SNSでは、けっこう後からさらっと報告していました。とってもクール。私は速攻「生まれたよー!」と言いたくなっちゃうタイプ。)
女性にとって妊娠出産は大きなイベント
結婚・妊娠・出産・育児のこと。その真っ只中には、ついついその事に対する投稿が多くなりがちだし、子どもが生まれてからプロフィール画像を我が子にするママさんも少なくありません。(現に、私のインスタはつむつむ99%。)
幸せのおすそ分けかもしれないし、報告を兼ねているかもしれないし、「この子のママです」というのが、自分の存在を確証してくれているものなのかもしれない。
それが悪いわけではないけれど、ママではなく妻でもなく個としての「わたし」が薄れていくことに疑問を感じていた中で、はるのさんは「子どもは子ども、わたしはわたし」を貫いているように思えて格好良いな〜と思っていました。
そして、出産後もそれまでと変わらないペースで仕事をするはるのさんを、ひそかに尊敬していました。イラストや絵本を家で作成しているとは言うものの、赤ちゃんをみながら仕事をすること自体、私にとっては信じられませんでした。
そんなはるのさんの発信の中ですごく印象に残った言葉があります。はるのさんが出産して3ヶ月近く経ったときです。
【赤ちゃんを中心に自分の世界が周り、時間、エネルギー、金銭、すべてを捧げてしまいそうな衝動にかられる。子どもが可愛すぎて、子育てが面白すぎて。自分の全エネルギーを子どもに注ぐ生き方もありだし尊敬するけれど、私はそうじゃない方の人生を選ぶことにした。子どもがいること、を自分の中での言い訳にせず、守りに入らず、チャレンジを続けていく。】
その言葉を読んだときに、自分はどうなのかと問われたような気がして、ドキリとしました。自分は子どもを言い訳にしているのでは、と。
子どもが出来たと分かった時には、出産・育児という人生の大きなイベントごとが体験出来るというワクワク感と、好きな仕事を辞めなくてはいけないという寂しさと、どこまで走り続ければゴールなのだろう?と思っていた仕事から解放されるという安堵感がごちゃまぜになっていたような気がします。
寂しさと、安堵。相反する感情の正体は【自分の人生から少し距離を置くこと】へのまさに言い訳だったように感じました。「やりたい事をしたいけど、子どもが小さいから」といえば、その間は自分と向き合うことをしなくてもいい。守られた状態の中にいることが出来る。
もちろん子どもを第一優先に考える生き方も素敵なのだけれど、私にはなんだか違うような気がしていました。
だからなのか、出産後も好きな仕事をしているはるのさんに会いたいな、と思ったのでした。
そして、久しぶりに会ったはるのさんは、やっぱりキラキラしていました。ぱあーっと周りが明るくなるような笑顔で、沢山の人に囲まれて。
人は好きなことをしている時、最大限に輝いている。
そんな、よく分かっていたのに忘れかけていた事を改めて思い出した一日でした。
ちなみに、はるのまいさんの絵本はこちら
モスバーガーのハロウィン限定の包み紙の絵も描いているそうです。ん~。すごい!今度モス行ってみよう。
ちなみにつむつむは、イベントのブロウアートよりも近くにいる女の子にちょっかいをかけるのに忙しそうでした。相変わらず、他人の領域にズカズカと入り込んでいくところ、ある意味、見習いたい…。ナカジマノゾミでした。
コーヒーを愛するひと
10月1日はコーヒーの日
10月1日になると、なんだかコーヒーが恋しくなる。まあ、いつも恋しいのだけれど。
それでも、より一層コーヒーに向き合いたいという気持ちになる。いつもそこにいてくれる君へ、の想いを馳せたくなるのである。
どういう理由かは忘れてしまったのだけれど、10月1日はコーヒーの日なのだそうだ。他にも日本酒の日であり、眼鏡の日でもあるらしい。
というわけで、いつもは購入しているコーヒー豆を生豆から焙煎することにした。めずらしく、焙煎したい気分になった。
焙煎は、これが初めてではない。出産前に何度か、カセットコンロで手網焙煎に挑戦したことがある。その時は、ことごとく失敗。いや、失敗とは言うものの、飲めるといえば飲める。
少しまばらな焼き具合になってしまったり、味の中盤以降にすこーし青臭さを感じることはあるものの、淹れているときの新鮮で芳ばしい香りはとても良い。
ん~…と思う仕上がりのときは、ドリップするときにその欠点を出しにくく淹れたりすることも出来る。自分で飲む分にはまあいいか、という感じ。
でも、美味しいロースターで買ってきた豆とは、やっぱり全然違う。プロの技ってすごいな~といつも思い知らされることになる。(最近では、岡崎の豆蔵というコーヒー屋さんのコーヒーに感動しました。これはまた後日)
コーヒー仙人さん
焙煎するときには、ハンドピックといわれる不良豆・欠点豆を取り除く作業をする。その作業をしながら、あのお客さんのことを思い出した。
あのお客さん、とは移動カフェにちょくちょく顔を出してくれていた、コーヒーマニアの通称コーヒー仙人さん(私が心の中でそう呼んでいた)だ。
コーヒー仙人さんは、コーヒーを仕事にしているわけではないのだけれど、ものすごくコーヒーに詳しい。怖いぐらい、詳しい。そのへんのコーヒー屋さんより、よっぽどマニアック。実際にカフェをまわるだけでなくコーヒーと名のつく書物や映画、漫画までも網羅している。
カフェインの成分などの理論的なことから、生産地の状況なども含め。
私は、コーヒー仙人さんが来ると、いつもドキドキしていた。
コーヒー仙人さんは、私の移動カフェに、コーヒーではないモノを求めにきてくれていた。最高級に美味しいコーヒーを飲みたいときには、きっとここには来ない。ここに来てくれる時には、コーヒーを飲むという呈で、そこにある空気や、そこに集う人、他愛もない会話、そんなものを求めてくれていた。
きっとそうには違いないのだけれど、それでも美味しくないコーヒーを出すわけにはいかない。鋭い目線でどつかれるかもしれない。「われ、コーヒーなめてんのか!」と言われたら、立ち直れない。
コーヒー仙人さんは、いつも緊張を高めてくれる存在だった。
怖い、怖い、怖い、と思っていたコーヒー仙人さんなのだけれど、本当はすっごく優しい人だった。コーヒーのマニアックな情報を教えてくれたり、自分で焼いた豆を持ってきて飲ませてくれたり(すっごく美味しかった!)、私がへばっている時には喝を入れてくれることもあった。
だんだんと、そんなコーヒー仙人さんのことが大好きになった。
そして、趣味でしているという焙煎の話になったときに、こんなことを言っていた。
「ハンドピックをすると、確かに味は良くなる。でも、少し欠点がある豆だろうと、俺はどのコーヒー豆も捨てたくない。一粒一粒が愛おしい。だから、俺は、ハンドピックはしない。」
その話を聞いた時、この人は、本当にコーヒーを愛しているのだ、と感じた。
【最高のコーヒーを飲みたい】のではなく、【最愛のコーヒーを飲みたい】のかもしれない。顔は怖いコーヒー仙人さん(怒られる!)の心の中の温かいものを垣間見た気がした。
もちろん、お店で商品としてコーヒー豆で商売をする人にとっては、そうはいかない。ハンドピックは味を左右する、大切な作業だ。だけど、もしかしたら…ハンドピックをしながら、一粒一粒の豆への愛おしさを感じて、涙している人もいるのかもしれない。
欠陥があるものを排除する
欠陥があるものを排除すると、手っ取り早くまとめることが出来るのかもしれない。優秀を集めれば、優秀な集団になるのかもしれない。「君は、いらない」「君は、必要」「その欠点は、だめ」…ここから弾き飛ばされた人は、どこにいくのかな?
こうしなければいけない場面があるのは、事実だ。
でも、きっと。
「すこし欠点があろうと、一人一人が愛おしい。一人も捨てたくない」そんな心を持っている人も、いるはずだ。
そして、切り捨てて人選しなければいけない立場の人も。本当は一人一人を愛するがゆえに、心を締め付けられるような思いをしていることもあるのかもしれない。
コーヒーを焼きながら、そんなことを考えていた。
コーヒーを焼きながら、そんなことを考えていたものだから、案の定すこし焦がしてしまった。美味しいコーヒーを焼くには、まだまだほど遠い。
しばらく息子のお昼寝タイムには、コーヒーを焼こう。そうしよう。最高のコーヒーではないかもしれないけど、最愛のコーヒーを焼くことは出来る、きっとね。ナカジマノゾミでした。
大人の人見知りスイッチ
大人の人見知りは単なる甘え?
「大人の人見知りは、単なる甘えである」
「人見知りということを自分で公言するのは、優しさが欠落しているのでは?」
そんな言葉を幾度となく聞いてきた。
聞いてきたのにもかかわらず、あえて言わせてもらうとすれば、私は人見知りである。わりと、結構、人見知りである。
もちろん、誰にでも人見知る、というわけではない。
初対面の人でも、マンツーマンであれば大丈夫なことが多い。異性の方が、平気だったりする。仕事が絡んでいたり、接客中はむしろ親しみやすいタイプを気取ることも可能だ。雰囲気的に合いそうだと察知した人とは、人見知りを微塵も感じさせないこともあるかもしれない。
でも、トータルで見ればやっぱり、なかなかの人見知りなのだと思う。
人見知りが子どもを育てる上で、生じる不具合
仕事をしている時は、ほとんど毎日「仕事スイッチ」が入っている状態だった。だから、自分が人見知りだということを忘れかけていた。
久しぶりに思い出したのは、産婦人科の行っていた出産前の「マタニティヨガ」の時だった。
知らない輪にポコッと入る時、それは突如発動される。
【無理して喋りかけなくても、1人でいいやスイッチ】がものすごい勢いでONになる。1人でいいや、とは思っていても、ツンツンしているわけではない。喋りかけてもらう分にはもちろん嬉しいのだ。だから、親しみやすい表情を作っておくことは忘れない。
ニコニコというよりは、ニヤニヤだったかもしれない。(だいぶ気持ち悪い)
思えば中学生の時、男の子に「なんか、話しかけづらい」と言われたような気がする。その時には、なんて損な性格なんだ!と思ったのだけれど、確かにと納得する部分もある。
学生の時は【無理して喋りかけなくても、1人でいいやスイッチ】が常にONになっていた。仲良しの子と、一緒にいればいい。社交性皆無。そのうえ、親しみやすい表情を作るという発想は当時持ち合わせていなかった。
しかし、子どもを生むとそうも言ってられない場面も出てくる。
児童センターなどに行くと「この場面で気軽に交流できたらいいのに!」と思うことが多々ある。
すんなりと輪に入れたり、集っているママさんたちに何かしら質問などが出来れば、かなり空気は軽くなるということも分かっている。「なんとなく、気まずい空気」は、自分次第で「和気あいあいとした交流の場」になることも重々承知だ。
その空間に出来たら、どんなにいいか、と思う。
それなのに、例のスイッチは簡単にONになってしまうのだ。
息子を盾にする母
そんな私の葛藤を知ってか知らずか、息子のつむつむくんは、最近まったく人見知りをしなくなってきた。
知らないお友達にズンズン近づいていき、おもちゃを貸せと手を伸ばす。なんだかよくわからない言語で喋りかけている。知らないママ同士が話しているところに、割り込んで、他人の足の間に座る。知らない人によじ登る。誰彼構わず、相手の目をじっと見つめて手を振る。
私には、めちゃくちゃ難易度の高いことを平気でやってのける。密かに、そんなところを尊敬していたりもする。そんなつむつむ君のおかげで、救われることも何度となくあった。
私が誰かと話すきっかけをくれる。笑顔が生じるきっかけをくれる。
つむつむ君から与えてもらっていることは、たくさんあるのだ。
最近では、率先してつむつむ君を盾にしている。(よし、つむつむ!そこにそびえ立っている壁を壊してきてくれ!)と言わんばかりに、GOサインを送りまくっている。
こうして【人との壁を壊したい】と思うあたりから推測すると、私は人見知りではあるものの人嫌いではない、ということなのだろう。むしろ、ほとんどの人見知りの人がそうなのかもしれない。
人が好きだからこそ、近づけない自分と葛藤している。
人嫌いであれば「自分は人見知りだ」と落ち込むことも悩むこともないのだ。
つむつむ君と行動を共にしているうちは、全力でつむつむ君を盾にしよう、と心に決めている。これからも頼んだよ!つむつむ君!ナカジマノゾミでした。