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避暑地へ避難ということで軽井沢へ

今年の暑さは殺人的

今年の夏の旅行はどこに行こう。せっかくなら、涼しいところがいいのでは、ということで避暑地のイメージでもある軽井沢に行ってきました。

軽井沢といえば、なんとなく涼しそうで、美味しいものがありそうで、緑が多そう。そんなイメージだったので、子供の小さいうちの旅行先にはピッタリなはず。

そう思っていたのですが、今年の軽井沢は過去にないほど暑かったようで、向こうでも33、4度ありました。通常は25度を上回ることがないそうなので、どのお店の人も「今年は異常だ」と言っていました。

もう、きっと、日本にいる限りどこも暑いですね。避暑地という言葉自体が、無くなってしまうのかもしれません。

旅行の楽しみは諸々を気にせずに食べる美味しいご飯

旅を彩る重要なアイテムといえば、やっぱり食事。暑い中、冷たいものやビールや日本酒を食べ歩くのは、最高に楽しいです。

いつもは気にするカロリーや値段も、こういう時ばかりは一旦脇へよけて、食べたいものを食べよう!と色々と食してきました。

こういう時、テンションの上がる場面が似ている相手、というのは私の中で共に過ごす人として大切な条件です。「楽しい」を共有出来るというのは、なかなかいいです。

老舗のコーヒーソフトから、ドイツ仕込みのソーセージ、ジョンレノンの愛した(らしい)パンを使ったバーガー、蕎麦屋でちびちびとかわす日本酒。うむ、最高。

何気なく入った蕎麦屋の十割そばがおいしくて、さすが長野だなーと信州を感じてきました。

旧軽井沢銀座通りと呼ばれる通りの、少しそれたところにはおしゃれなアンティークショップや日本ではないような異国な空間も垣間見えました。

 

お散歩しているだけでも、すっごく楽しかったです。

中でも、軽井沢っぽいなーと思ったのがモーニングを食べた森の中にあるカフェ。建築家が手がけたという建物も良かったし、緑を全面に感じるテラスのソファーでのコーヒータイムはまさに至福。空調で涼しくするのもいいけど、緑の力を借りるというのはすごくいいですね。体感温度が全然違う。

おかげで庭に木を植えたい願望が芽生えてしまいました。木陰が出来るようになったら、そのままテラスでお昼寝できるようなクッションのソファーも譲れないよなあ。

夏には多くの人で賑わう軽井沢

夏には涼を求めて多くの人で賑わう軽井沢ですが、そこですらこの気温というのは、本当にびっくりです。私が「猛暑」と聞いて思い出すのは、小学生の社会科の教科書に出てきた一文。

「地球温暖化の影響によって、日本はいずれ亜熱帯地域になるでしょう。数十年後には、平均気温は上昇し、スコールが降るようになります。」

日本には四季があり、温暖な気候は過ごしやすく、季節ごとの美しさがある国と教えられてきたのに(とんでもないことになる!本当かな?)と、幼いながらに思ったものです。

そして、この季節になるたびに、あの教科書の言葉は本当だったんだ、と。他の教科書の言葉なんて一切覚えていないのに、小学生の私にはよほどのインパクトだったのかもしれないですね。

インドの熱波や各国の水害、氷山が溶けるというニュースを見るたびに、あの頃の「とんでもない未来」に、今すでに立っているということに気付かされるような気持ちです。

今年の夏は、水遊びが必須になりそうです。ナカジマノゾミでした。

 

目が離せない人の、手離す練習

 

息子のつむつむ君、先日9か月になりました

 

この頃出来るようになったことと言えば、つかまり立ちとティッシュ遊び。それからご飯をモリモリ食べることと、ぐっすりすぎるほど眠ること。

先月はハイハイが、なんとかやっと出来るか出来ないか…というところだったのに、今は隙さえあれば立ち上がって行きたい方向にジリジリと移動するという伝い歩きを覚えました。

ベビーベートの中では満足できず「出せ出せ〜!」と訴えています。

意思表示もかなりはっきりと分かるようになりました。

・抱っこしてほしい
・喉が渇いた
・お腹が空いた
・早く次の一口ちょうだい
・もっと食べたい

私のスプーンを持つ手を自分の口元に持ってきたり、食べているお皿をつかんで引き寄せようとしていたり、ティッシュを何枚もビリビリと破いて「ニヤリ」としてきたり。

だんだん赤ちゃんではなく子どもになってきたような感じです。こんなに早いとは、驚きです。
 

目が離せない、という言葉を実感

 
「動くようになると、目が離せないから大変だよ〜!」と、よく先輩ママには言われましたが、まさに今そんな感じです。

うっかり手の届くところに何か置いてしまえば大惨事。ご飯もお茶もひっくり返すし、畳んだ洗濯物はぐっちゃぐちゃ。リモコンは大好物でもぐもぐ、と。

土間にもすぐに降りてしまうし、気付くとティッシュ食べてるし、お友達の髪の毛を引っ張ったり、お友達の持っているものを横取りしていることもしばしば…

こりゃあ、、、ママって大変だ。笑
 

手放す、ということを習得中

 
もう一つ興味深いのが、手に持っているものを落とすような動きをすることです。

おもちゃも、リモコンも、つかみ食べように渡したウエハースも、わざと手を離してみる。また拾って、また離す。その繰り返しをして遊んでいます。

「何かを手に入れたいのであれば、今両手に持っているものを手放さなければならない」というのは、ある方が教えてくれた言葉です。

自信を手に入れたければ、劣等感や自虐を手放さなければ手に入れられない。

自由を手に入れたければ、安定安心を手放さなければいけない。

「何もかもすべて」は、手に入らない。

手放して、またつかんで。何度でも手放すことは出来るし、持ち直すこともできる。絶対に手放したくないも、と思っていたものも、手放してみたら案外すっきりするかもしれない。

つむつむ君を見てると、そんなことを感じました。9か月目、ますますやんちゃになりそうな予感です。今月も元気でいてくれますように。ナカジマノゾミでした。

2018年07月15日 | Posted in ブログ, 山暮らしのこと, 暮らしと子育て2 Comments » 

 

【幸田駅前書店】侍のように感性の刀を磨く

昨日は、幸田駅前の【幸田駅前書店】に行ってきました


 

旦那さんが息子の子守をかって出てくれたので(神!)リサーチ済みの行ってみたかった場所に行くことにしました。

前回の本屋さん【ON READING】に行った後、三河にも面白そうな本屋さんがあるのでは?と探して見つけたのが、この【幸田駅前書店】

私の住んでいる山の中からは、約1時間。名古屋に出るのとほぼ一緒。ちょっとだけ遠いけど、またわざわざ訪れたい本屋さんが増えました。

 

幸田駅前書店ってこんなお店

 

やっぱり大型書店とは全然違って、私的にはすごく面白くてワクワクしっぱなしでした。暮らしの手帖でおなじみの松浦弥太郎さんや、本屋さん関連の言葉が詰まった本の棚や、小説や感じのいい雑誌や。

本の棚は、個性的過ぎになるのを避けて、様々な年代のことも考えて…と教えてくれました。

本を見て、面白くて、さあ買って帰ろう~と思ったけど、店主さんが面白くてそのまま2時間くらい居座ってしまいました。

そんな中で【この頃、感性を研ぎ澄ませないまま、ボケっと生きている人が多すぎるのではないか?】という話をしてくれて、それがすごく印象的でした。日本に暮らしていると、なんとなく朝起きて、なんとなく電車に乗って、なんとなく買い物をして、なんとなく運転して、、、それでもなんとなく生きていけてしまいます。

与えられたものを、与えられたまま食べてしまう感じ。

でも、もっと人を見る感覚を研ぎ澄ましたり、直感で判断したり、日々侍のように刀を磨いておいた方がいいのでは?と。自分の命や大切な人の命を守りたいのであれば、なおさら。日々のちょっとした振る舞いや毎日の選択が人生を大きく変えるのでは?と。

なんでこんな話になったのかは分からないですが、とにかく店主さんがめっちゃ面白かったです。

そしてもう一つ印象に残ったのが【出会いの場を作っている】という言葉。まさに、そんな感じのお店でした。

 

人生には遊び心が大切だ

 

面白い人が、面白い場所を作って【面白い】を循環させている。それに乗っかってもいいし、乗っからなくてもいいし、たまに乗っかってみてもいいし、どう接してもいいのだけど。

自分が【面白い】と思ったことは、大切にした方がいいような気がする。他の誰かの判断じゃなく、自分の基準で。

真面目に生きるのも、一つの生き方。遊んで生きるのも、一つの生き方。最期に死ぬのは一緒だとしたら、めちゃくちゃふざけて、笑って、自分を遊び倒して死にたいなあ…と個人的には、思う。

本と私。本とお店。今日も出会いの日でした。いい時間を作ってくれた旦那さんに本当にありがとう、と言いたい1日。とりあえず、感性の刀を磨くところから始めたいと思います。ナカジマノゾミでした。

 

夜な夜な、我が家の畑を荒らす侵入者

 

ある朝、ちっちゃな自家菜園の畑がめちゃくちゃになっていた

 

自家菜園とはいえ、家の裏にネギとなすとピーマンとオクラを一つずつ、それからほうれん草と小松菜の種を植えただけのちっちゃな畑。
主に旦那さんが仕事が休みの日にお手入れをして、私と息子が水やりを担当している。

ある朝起きて様子を見に行くと、畑の周りの土がめちゃくちゃに荒らされていた。

よくよく見れば、畑だけでなくその付近の草もほじくり返され、ブルーベリーの木の根もむき出しになっている。

こんなことをするのは、あいつしかいない…

 夜中にイノシシが入ってくる家

荒らした犯人は、間違いなくイノシシ。イノシシ氏の仕業だ。

以前も畑が掘り返されている時があったが、その時の犯人はきっと猫。【太郎くん】と呼ばれる、この周辺の家に自由に出入りする気ままな猫の太郎くん。

その時は、ちょっと引っ掻いたけど、やーめた。くらいの掘り返し具合だった。

今回はといえば、芝のあたりもボコボコ。野菜の根は見えているし、ブルーベリーは倒れそう。そんな状況が何日か続いている。

割と本気で自家菜園の収穫を楽しみにしている旦那さんからすれば「イノシシ!F☆☆K‼︎」と言うところらしい。

確かに、自分の育てて手入れした野菜を守りたいという気持ちもわからなくはない。

ここまで、イノシシに対してキツめに書いてしまったが、私は決してイノシシを恨んでいるわけではない。むしろ、このイノシシ侵入事件は今後続行してもらってもいいとすら思っている。

 だって、イノシシが入ってくる家って面白くないですか

もちろん、私も自分の家で育てた野菜を食べるのは楽しみだ。水やりごとに大きくなっているのを見るとワクワクするし、うまく育たなかったら残念だな〜と思う。

でも、イノシシが入ってくる家って、それだけで面白い。自分で育てた野菜を食べるのは面白いけど、イノシシが侵入してくる家も、十分に面白い。

少なくとも、実家や友達の家にはそんな家はなかったし、そもそも野生のイノシシと共存する生活を送っている人は、おそらく少数派。

それに、ほら。こうして話のネタにもなってくれる。

農家で生計を立てている、という人だったら、「害獣め!」と言って怒るかもしれないけど、こちとら9割9分の野菜はスーパーから買わせていただいているという現状。

イノシシの侵入は今の所、私にとって面白ニュースでしかない。

息子が大きくなった時には「イノシシさんまた来るかな〜?」というくらい、自然と近い距離で暮らしていければいいと思っている。(イノシシを目の前にしたら、そんなこと言えませんけどね。迫力あって、結構怖いので、そーっと後ずさる。)

「悪いやつ」と決め付けるのではなく、イノシシの立場や相手の立場も想像してみる機会になりそうな気もする。

 害獣という言葉

害獣、害虫。害のある獣、害のある虫。その言葉を聞くと「人間は人間を、人間様だと思っている」のではないかと思うときがある。

人間様は、人間にとって害のあるもの、益のあるもの、ということを元に相手の存在を判断することが多々ある。

イノシシ様から見た人間は「害獣!F☆☆k!」なのだろうか。それとも食べ物を植えてくれるし、遊び場(畑)も作ってくれるし、わりと嫌ではない存在なのだろうか。イノシシもこちらのことを判断していたら面白いな。

共存、共生ってなんだろうな。山に暮らしていると、いろんなことを感じれて楽しいです。ナカジマノゾミでした。

 

アイスラテ混ぜる派、混ぜない派

先日、小さいコーヒー屋さんを見つけました。

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天白のサーフショップ「PIPPEN STORE」へ雑貨を見に行った時のこと。

 

隣の雑貨屋さんの目の前に小さな可愛いコーヒー屋さんがありました。少し前までオーストラリアでワーホリをしていたという、サーファーの若い男の子が店主さんとのこと。美味しいコーヒーを淹れてくれました。

「EARLY SOCIAL」

小さなコーヒー屋さんを見つけるとついつい買ってしまいます。特に、イベントではなくて、日常でそのお店を展開している場合。なんか、わくわくします。ちょっといい日だな~なんて思ったりします。暑かったので、アイスカフェラテをテイクアウトしました。

 
 

ところで、アイスのカフェラテを飲むとき混ぜる派?混ぜない派?

 

移動カフェをしているときに、お客さんからよく聞かれました。「これは、混ぜるの?混ぜないの?」

美味しそうなアイスラテは、下のミルクに上から濃いコーヒーがじゅわ~と広がっています。次第に沈んでいくコーヒーを眺めるのは至福のひと時。

お店としては、このフォルムを含めて楽しんでもらいたい。

だから、提供するときは混ぜずにそのまま提供するお店が多いです。でも、そのまま飲むと一口目はミルクの味しかしないじゃん!なんだこれ!と思われてしまう可能性があるから「混ぜてから飲んでね」という一言を添えてくれる親切なお店もあったりします。

個人的には、アイスラテは混ぜない派です。

下の方を飲んでミルクを強く感じたり、時には上の方をそっと飲んで苦味を楽しみたい。そして、徐々に混ざっていく味の変化を楽しむ、という点で混ぜないほうが2倍楽しいと感じる派です。

一方、混ぜる派の人は「均一になっている状態の味が好き」だったり、いちいち一口飲むごとに視覚的にも味覚的にも悦を求めていない、という人もいるかもしれません。

どっちが正解?とかないです。お好きなように、としか言いようがありません。

カレーも混ぜる派と混ぜない派がいるし、シーザーサラダの温泉卵も混ぜる派と混ぜない派がいるし、ヨーグルトのジャムも混ぜる派と混ぜない派がいる。

そういうことです。

 

世の中のほとんどの選択がこんなものなのではないか、と

 

何事もやってみずに正解を求めるのは、無意味なのだと思います。

結婚する?結婚しない?就職する?就職しない?大学行く?大学行かない?いろいろな選択肢があるけど、どの選択も正解も不正解もない。その先の求めているものによって全然違う。

自分の求めているものも分からないのに、正解、不正解を知りたがるのは無意味。

正解不正解を知ることより、自分の求めているものを感じる方が大切だ。そして、万が一間違えてしまった場合には、やり直したり、次回違う選択をしてみればいい。

ある人にとっては正解でも、別のある人にとっては不正解。だから、自分の持論を押し付けようとしている人がいたとしても気にしなくていい。その人は、人のアイスラテを混ぜようと手を伸ばしているだけ。

実際に混ぜられるのは自分の分だけ、ということを知らないのだ。

今日も白に沈みゆくコーヒーを眺めながら、そんなことを。緩やかに混ざっていくグラスを見るのが、私にとっては至福です。ナカジマノゾミでした。

 

ON READINGという本屋さん

先日、武田双雲さんの講演会に行ってきたのですが、

【対処療法ではなく、根本的治療】武田双雲さん講演会

てっきり名古屋=なかなか行かない場所になってしまったので、行ってみたいところに寄り道しよう!と前々から行きたかった本屋さんに行ってきました。

名古屋市東山公園前の、ON READING さん。

何年か前に本好きのお客さんに教えてもらって以来、行ってみたいな〜と思っていました。ここ最近、自分の中の面白い本屋さんに対しての興味が爆発してしまったので、こりゃあ行くしかない、ということでやっと行ってきました。

個性的な本屋さんが大好き

本屋さんのために京都に行くほど、個性的な本屋さんが好きです。

本屋さんに対して、そんなに意識をしていない人からすると「どこの本屋さんもそんなに変わらない」だったり、「大型書店ほど品揃えが豊富で良い」「探している本が見つかるから良い」と思われがちな本屋さん。

でも、本屋さんの面白さは小さな個人の本屋さんにこそあったりします。

それは「欲しい本を探しに行く」のではなく「出会う」という感覚。

有名ではない出版社だったり、リトルプレスなどの自費出版だったり「売らなければいけない、という圧力の中で作ったり編集した」ものではなく、万人に受けなくても伝えたいことを伝えたいままに書いた本があったりします。

そういう本を扱っている本屋さんは少数派だけれど、確かに存在する。それは本屋さんの個性であり、その本屋さんの意志。

ON READINGという本屋さん

ON READING さんは、マンションの2階。え、ここ本屋さん?というところにあった。もう、登っていくだけでどきどきする感じ。マンションの一室の壁をぶち向いて作った感じ。隣の号室はギャラリーのスペースがあった。

本屋としては、決して広くはない。けれど、そこには本たちががワクワクしながら待っていた。

 

もしかしたら大型書店にある本も、あるのかもしれない。でも、こうして店主さんの趣味を凝縮して棚を作っていると、同じ本でも全く違った表情に見える。

本と目が合う、という感覚を味わうことができる。本や言葉というものが好きな人には、たまらない空間。

何時間でもいられるような空間だった。

愛知、特に三河地方にはそういう個性的な本屋さんが少ないと思う。ほとんどが品揃え重視の大手の本屋さん。それはそれで楽しいのだけれど、その本屋さんから意志は感じない。どれだけベストセラーがいくら並んでいても、なんだか整然としている。

そもそも、それだけ広かったらビビッとくる一冊の本と出会うのも難しい。本がじっとこっちを見ていて、出会いの瞬間を待っているという感覚はあまりない。

やっぱり、本屋さんが好き

本屋さん、という場所が好きだ。本が好き、というよりは本屋さんという場所が好きだ。最近は、働けるようになったら本屋さんでアルバイトをしたいと目論んでいる。基本的な書店員のスキルを身につけたいな〜なんて思っている。

そして、厳しい厳しいと言われている書店の事情、出版社の事情、本屋さんの裏側が知りたい。厳しいということを踏まえた上で、なぜ小さな本屋さんを始める人が存在するのか。本屋さんと何かを掛け算して面白いことができたら…そう考える人は決して少なくないはずだ。

電子書籍が増えて、インターネットでなんでも知れる時代

インターネットは偉大だ。なんでも教えてくれるし、答えや情報を求めている人にとっては便利でしかない。でも、だからこそインターネットの検索結果とは違う「答えのない文章」が好きなのだ。答えや情報というすでに存在している【事実】ではなく、生み出された個人の【言葉】が好きなのだ。

答えを知るための本は衰退していくのかもしれない。でも、そうではない本もあるはずだ。

この日は、「これからの本屋読本」という本と出会った。それは、私にとってとても意味のある出会いになるのではないか、と思っている。

ON READINGさん、いい出会いをありがとうございました。ナカジマノゾミでした。

 

【対処療法ではなく、根本的治療】武田双雲さん講演会

 

友達に、武田双雲マニアな子がいます

 
 
 
 
子育て中の葛藤や苛立ちを抱えている時に武田双雲さんの本に出会い、言葉に出会い、救われた!!!と言って、ほぼ本を読破しています。

そんな彼女が「武田双雲、名古屋来るってよ!」と教えてくれたので、栄の芸術文化劇場での講演会「文化芸術フェスタ」に便乗することにしました。

私も、移動販売を始めた頃に武田双雲さんの本に出会い影響を受け、ものの見方が変わり、その後の心に大きな変化をいただいた人の1人です。

肩の力が抜けるような、無理をしない生き方って、簡単なようでなかなか出来ていなかったりします。双雲さんの言葉は、ふわっと心が軽くなるような、穏やかな気持ちになれる言葉です。
 

対処療法ではなく、根本的治療

 
その中で、感情を病気と薬に例えた話がわかりやすくて面白かったです。

風邪を引いたときに、その対処として薬を与えられる。それは、何かが起きた時の対処療法でしかない。漢方は、それの少し手前。症状が出ていないときにも利用することができる。それより大切なのは、もっともっと手前。そもそも病気にならない、という免疫を高めるようなことが大切。

感情も一緒で「イライラ」を鎮めるのではなく、「ネガティブ」を無理やりポジティブに変換するのではなく、そもそもイライラしない方法を身につける。普段の行動でその状態を作ることができる。ポジティブで対処するのではなく、そもそもポジティブもネガティブもないフラットな状態を作り出すだけでいい。

ポジティブに!前向きに!と頭で考えているということは、自分のことをネガティブだと刷り込んでいる状態でもある。
 

人間の脳の意味づけについて印象深かった話

 

すべての出来事には意味自体はなくて、人間が勝手に意味を作り出しているだけ。さっきまで食べていた煮魚の骨は、お皿にのっている時には、美味しい「食べ物」。でも、それを三角コーナーに捨てる瞬間に「生ゴミ」になり、汚い、になる。その境目は?魚の骨自体は何も変わっていない。変わったのは、人間が定義しただけに過ぎない。

最近では「あいにくの雨」という言葉もあまり使われなくなった。雨自体に意味はない。それに人間が意味をつけただけ。転んだり、失敗したり、成功したり、勝ったり、負けたり、そんな出来事があっても、それ自体に意味はない。

 

転んだから悲しい、と思うのか。
転んだから強くなれた、と思うのか。
転んだら、道に咲く花を見つけられるかもしれない。

負けたからもうダメだ、と思うのか。
負けたから自分の弱点を知ることができたのか。
負けたら、負けた人の気持ちを汲み取れる人になるかもしれない。

人間は、うまく脳を使えれば強い。けれど、脳の使い方が適切でないと脆い。

すべての出来事は自分が意味づけしているだけ。良いも悪いもない。

どう生きていくのも自由。

感情のジェットコースターのような人生も間違っていないし、上を目指し続ける上昇志向も間違っていない。緩やかに、穏やかに、ただただ幸せを感じで生きていったっていい。どう生きたいかによって、自分でそのチャンネルを選べばいいんだよ、という意味の言葉で締めくくられました。

_____________

ちなみに、つむつむ君は託児室に預けることができて、前半はお兄ちゃんたちに遊んでもらってニコニコしていたそう。眠くなってからはグズグズして、迎えに行った頃には、泣きながらたまごボーロを食べさせてもらっていました。うえ〜ん、と言いながらモグモグ。ママを見つけて「うえ〜ん、どこ行ってたの〜!」って感じの顔が、たまらなく可愛かったです。つむつむ、頑張ったねー♪

やっぱり自分には双雲さんの言葉は合っているようで、すーっと入ってくる講演会でした。行ってよかった!双雲マニアの友達、ありがとう♪ナカジマノゾミでした。

 

【W杯ポーランド戦】大切なのは、目的が何であるか

 

日本対ポーランドで試合を観て思うこと

 

昨日は早々に家事を済ませ、息子を寝かしつけ、W杯ポーランド戦を観るためにノンアルビールとつまみを用意してテレビの前でワクワクしながら今回初のサッカー観戦をしていました。

川島さんのナイスセーブにときめきながら、宇佐美さんのシュートに歓声をあげながら、ドキドキしながら。

後半の失点してからは、より観るほうにも力が入っていました。

しかしそこから、状況は一変。

セネガル対コロンビアの速報が入ってきて、日本はこのまま「何も起きなければ決勝進出が出来そうだ」という状況になると、パスを回して負けているのに試合を放棄するという不思議な時間になりました。当然、ポーランドも現状は勝っているのだから無理に取りに来ない。日本は、この試合に負けてもイエローカードやレッドカードをもらわなければ決勝に行けそうなのだから、無理はしない。

W杯とは思えないような数分間でした。
 

目的は、決勝に行くこと

 
日本にとって、この試合の目的は決勝に行くことであって勝つことではなかった。だから、この作戦は目的に沿っているとも言える。

どれが一番高い確率で決勝へ行くことができるか、と問えば一番いい手段だったかもしれない。(でも、最後の最後でセネガルが得点して状況が変わっていたら、悔いても悔やみきれなかったかもしれない。ある意味、ものすごく賭けである。)

目的は決勝に行くことなのだから、全然間違っていない。

でも、もし、「観客を熱狂させる最高のプレーをする」という目的だったのであれば、こういうプレーはしなかったはず。

しかし現実には「観客を熱狂させる最高のプレーをする」という目的だけでは、勝利を掴めない時もあるのかもしれない。選手にとっても監督にとっても、もどかしい時間だったかもしれない。
 

だから、目的の設定が大切

 
一番芯にしている「目的」というのは、本当に大切なのだと思う。それによって、そこに向かう人の行動は大きく変わる。仕事だって一緒だ。何を目的にしているのか、という理念で、行動の一つ一つは大きく変わる。

素敵だなと思うお店や企業の手段を真似する、という人はよく見かける。でも本当に大切なのは目的だ。なぜ、その手段を選んだのか、どういう目的だったのかというところを知ろうとしなければ、手段だけ真似をすることに意味はない。

そして「自分にとって明確な目的の設定」があれば、複雑に見える選択が極めてシンプルな選択だということに気付くこともある。

なんで、そうするの?なんで、それをするの?という目的が自分の中でしっかりと腑に落ちていれば、選択はシンプルになる。そして、外野からのブーイングにも耐えられる。しっかりと目的に沿ってさえいれば、手段は想定外のものだったとしても周りの批判にも負けない精神力を築ける。

何はともあれ、日本、決勝進出おめでとう。

決勝で「観客を熱狂させる最高のプレー」が観れることを楽しみにしています。ナカジマノゾミでした。

2018年06月29日 | Posted in ブログ, 働くシアワセNo Comments » 

 

【優しい気持ちになる映画】しあわせのパン

 

ここ最近、私の中でパン屋さんという存在が気になっている

 

パンが気になる、というよりは【パン屋さんという存在】が気になるのである。それも、大きなお店ではなく、山の中にあるような、こじんまりとした、夫婦だけで営んでいるような、パン屋さん。なんでこんなところで?と言いたくなってしまうようなパン屋さん。

パン屋さんは、自然体の人が多いような気がする。季節や環境で変わってしまうものを生業にするのは、なかなか根気のいること。発酵や生地の状態を見て、自分や生活をそれに合わせるというのは、本当に好きでないと難しいような気がする。

だから、なのかはわからないけど、パン屋さんはなんだかちょっと私の中では特別な存在。優しいようなあったかいような、よくわからないけれど好きな感じだ。
 

気になっていた映画【しあわせのパン】

 
そんな背景もあって、気になっていた映画を見てみた。この映画を見た感想を一言で言えば、原田知世さんがめっちゃ可愛い。(え?)

北海道の田舎、ほとんど人も通らないような場所で夫婦でやっているカフェマーニ。大泉洋さんと原田知世さんの夫妻。この夫婦の不思議なところは旦那さんを呼ぶときに「ミズシマくん」と苗字で呼ぶところ。ちょっと訳ありなのである。

そんなマーニには個性豊かな日々の常連さんがいて、時々やってくる訳ありのお客さんがいる。

泣けるような映画ではないと思っていたのに、結構泣いてしまった。特に「離婚してしまった父とその娘」の場面。お母さんのかぼちゃのポタージュが食べたい…そう言った女の子の切ない気持ちと、それでも親子で力を合わせて頑張っていこうという気持ちが伝わってくる表情。

見終わった後に「観てよかったなあ」とほのぼのするような気持ちになる映画だった。

ストーリーもほのぼのしていたけれど、その合間に映し出される焼きたてのパンやコーヒー、スーブなどの映像や音が観ている人にとって心地よさを演出してくれているような気がする。
 

というわけで、パンを作りたくなったので早速

 
観終わったら、なんだかパンが作りたくなったので作ってみた。

そもそも、パン作りは大の苦手である。おいしくできた試しがない。でも「今なら出来そうな気がする!」という謎の自信が沸き起こってきたので、やってみた。

結果は、惨敗。

二次発酵を待つ間に、つむつむ君を寝かしつけていたらそのまま寝落ち。4時に起きた時には発酵しすぎてえらいことになっていた。

どう考えてもおいしく焼けそうになかったので、ピザに変更してごまかすことに。ピザとしては、それなりにおいしく出来たので、良しとしよう。

大体いつもこんな感じ。パンを作る人が丁寧な気がするのは、時間や温度や季節をいつも意識しているからなのかもしれない。急がない、焦らない、でも、いい時を見逃さない。様子を見る、育つのを待つ。じっくり、じっくり。

いつになったら、美味しいパンが焼けるのかはわからないけど、懲りずに作ってみようと思います。

【しあわせのパン】は、優しい気持ちになりたい時にオススメです。

 

親切心の過剰包装による無駄遣い

 

長久手のIKEAに行ってきました

 
 
 そろそろIKEA渋滞もおさまっているであろう、ということで初めて長久手のIKEAに行ってきました。

横浜に住んでいた時には、頻繁に行っていたIKEA。久しぶりに行くと、少し商品のラインナップが変わっていて楽しかったです。ここに来たら、なぜか食べちゃうソフトクリームも、やっぱり食べてしまいました。(ソフトクリーム係りのお姉さん、ものすごい勢いでソフトクリーム作ってたなあ。腱鞘炎にならないか心配)
 

1個30円のバターを前に思うこと

 
なんかお腹すいたね〜ってことで、IKEAレストランで食事をすることに。ジャンクな食事も、たまになら…と、フィッシュアンドチップスと、プレッツェルとスープを食べることに。パンのコーナーの横を見ると【バター、ジャム、30円】の表示。一応プレッツェルにバターが欲しくなるかもしれない、ということでバターをひとつ購入しました。

(プレッツェル、好きなんですよね。あの硬くてもそもそした感じ。ふんわりしない感じ。独特の表面の風味。あると買っちゃうパンです。)

で、食べていくと、IKEAのプレッツェルには真ん中にバターが入っていたんですよね。「わ!バターいらなかったねー!」と言って、バターは持ち帰ることにしました。

これが無料のバターだったら、絶対、捨てていたような気がします。価値を決めるのは、そのもの自体ではなく、自分のとった行動とそれに至った経緯なのかもしれないと感じました。
 

無料が価値を殺している場合がある

 
「無料」というのは、親切でもあり、日本人が得意としているサービスでもあるような気がします。もはや、親切の過剰包装。

スーパーで薄いビニール袋に二重に入れてくれたり、通販をすれば異常なまでの梱包がされている。飲食店では水が無料なのは当たり前。

かくいう私も、移動販売の時にはコーヒーにロータスというクッキーを付けて渡していました。常連さんの4割くらいは「クッキーいらない派」の人もいて、暗黙の了解で渡さないようにしていましたが、今思えば実際にはもっと多くの人が「クッキーいらないのにな」と思っていたような気がします。

仲良くなれば「私はいらないよ」と言えることも、初めてだったりすると(親切で付けてくれたのに、断ったら申し訳ないかな?)という「互いの優しさによる無駄」が発生していたかもしれません。今思えば、ちょっと反省しています。

そもそもこのクッキーを付けるのは「お客さんに喜んでもらうため」であってクッキーを渡すこと自体が目的ではありません。「相手が喜んでくれること」をしたいだけ。相手が嬉しくない場合の過剰なサービスは誰も幸せにしないのです。お客さんが「いらないのにな、もったいないな」という罪悪感を抱いてしまうのであれば、逆に迷惑にもなりうるものでした。

実際には、喜んでくれる人もいたと思います。でも、そうでもない人もいたはずです。

「無料」というのは、価値を殺してしまうこともある。もし、あの時の自分にアドバイスするのであれば【欲しい人は、欲しい、いらない人には、いらないという意思表示をしてもらうために、価格をつけるべき】だと教えてあげたいです。(その場合は、ロータスでない方が好ましいかもしれない)
 

「互いの優しさによる無駄」をなくすために

 
この「互いの優しさによる無駄」というのは、モノだけでなくて労働にも大きく影響しているような気がします。以前読んだ記事では「日本人の労働時間が伸びてしまうのは、過剰に親切にしすぎているからでは」という内容でした。

頼んだ側が【①ー10】までお願いしたことをついつい【①ー12】までやってあげたくなってしまうのが日本人。その➕2に対して、頼んだ側が喜んでくれた場合は価値がある。でも「ここまでしてくれなくてもいいのに(または【②ー2】までやってくれれば良かったのに)」と思っている場合、その➕2は無駄な作業になる。

引き受けた側は「ここまでしてあげた」と思っていても、頼んだ側はありがたみもなければむしろ別のところにその力を使ってくれ、と優しさによる無駄が発生してしまう。

これを避けるには、互いに明確な意志を伝えていかなければいけない。

上司と部下、お店とお客、夫と妻、親と子、自分の本心を伝えていくことで、親切心による資源の無駄遣いは抑えられるような気がする。

一つのバターから、そんなことを学んだ日曜日でした。6月も最終週。今週も楽しい一週間になりますように。ナカジマノゾミでした。

2018年06月25日 | Posted in ブログ, 子連れさんぽ, 暮らしと子育てNo Comments » 

 

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