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疑似、3人姉弟の子育て体験

先日、姉に三女が生まれました

 

ママと赤ちゃんが入院中&退院後1ヶ月の間、長女と次女は実家で預かることになりました。その間の保育園の送り迎えやご飯や身の周りのお世話を父・母・パパ・私で分担することに。

唯一、仕事をしていない私も微力ながら協力させてもらうことにしました。

とはいえ、つむつむくんを連れての参戦。数時間は、3人の相手をひとりでするという体験をする貴重な機会。なかなかエキサイティングでした。

ギャーとか、ワーとか

常に誰かの声がしている。常に賑やか。常に誰か何かを主張している。さすがにひとりの子育てでは、ここまで賑やかにはなりません。

家の中では、あまりにも一瞬で部屋がぐちゃくちゃになるというびっくり体験をしました。

いたるところで、何かがひっくり返っている。姉が妹のお菓子を勝手に食べて、妹がヤイヤイ言っている。そんな妹の髪の毛を全力でつむつむが引っ張り、さらに妹号泣。妹の号泣につられ、なにもされていないつむつむも号泣。その間、姉は紙を小さく切り刻んで雪を降らせている。つむつむ、雪を食べる。お絵かきしていたペンも食べる。物干しラックをなぎ倒す。妹が「ちゅむちゅむダメー!」と言って余計に振り回す。姉、我関せず。

なんだこれは。カオスとはこういうことを言うのではないか。

早く、誰か帰ってきてー!!!と、家族の帰りを心待ちにするほどのゴタゴタ感。

よくドラマで、パパが帰宅したときに「わ~い!パパが帰ってきた!」と子どもが玄関に走っていく光景が描かれているけど、パパを本当に待ちわびているのはママなのでは?と思いました。

たった数時間で、お手揚げ状態。これを毎日毎日経験しているママさんやパパさんてすごいなあ…と改めて気付きました。

なんていうか、耳の休まる時間が一瞬もない。これにも慣れるものなのかなあ。大家族で育つ赤ちゃんって、本当にたくましくなりそうだ。

普段は騒がしいと感じるつむつむ君の抱っこして攻撃も、この賑やかさの中ではまったく気にならない。むしろ、どこにいるのか注意してみていないと、こっそりと隅の方で何かゴソゴソとやっているのに気づかないという状態だから不思議。

いつもの家では、何をしていても目につくから干渉しすぎてしまうような気もする。

そういう意味では、神経を使いすぎなくていいのかもしれないな、と思いました。

兄弟っていいな

そんな破茶滅茶な姉妹も、ママが赤ちゃんにつきっきりになってしまうとやはり寂しいようです。寂しさを我慢しながら、「私も抱っこしてほしい。でも、赤ちゃんのお世話してもいいよ」と、泣きながら言っていたという話を聞いて、成長したなあ~とジーンときてしまいました。

たった3年、生きてきただけ。でも、そんな言葉を言えるところまで成長している。子どもの心って、大人が思う以上にすごいスピードで成長しているのかもしれません。

私が姉弟がいることによって得たものは、数知れず。できればつむつむ君にも兄弟を、と思うけど…どうなることやら。この辺りは計画するでもなく、風の吹くままに任せます。

山の中の家に帰ると、一気に静かな環境に戻ってきた感じでした。穏やかだけど、どこか寂しいような気がしました。

それにしても、寒くなったなあ…。そろそろ、冬の支度が必要ですね。ナカジマノゾミでした。

2018年09月22日 | Posted in ブログ, 暮らしと子育て2 Comments » 

 

コーヒー豆、やるじゃないかという話

コーヒー豆のカスの再利用

「コーヒーの豆のカスってどうしているの?」

移動カフェの時に、よくされた質問である。

どうも、していない。どうも、していなかった。

大量にあると、逆に利用価値を考えなかったりする。当時は毎日1・5キロ~2キロくらい出てくるコーヒーの残りカスに特に気を配ることをしなかった。いろんなことに使えるらしい、ということを教えてもらってはいたものの、それを他のゴミと分けてとっておいて、広げて乾燥させて…という工程をするつもりは無かった。

再利用して出来たものが、買うほど欲しい何かの代用になるのであれば良いと思う。でも、買うほど欲しくない何かのために、時間や多少の資源(それを作るときに必要とする水や紙など)を使うという選択肢はまるでなかった。(たぶん、節約苦手なタイプ)

しかし、ここのところ立て続けに「コーヒーのカスの利用法」というワードを目にすることがあった。ヒマだしちょっとやってみるか、という気持ちでコーヒー豆のカスを利用してみることにした。

今の所、再利用出来るものでほしいと思えるものは【消臭剤】だ。

コーヒー豆の消臭剤の威力

方法は、超簡単。飲み終わったドリップコーヒーの豆をバットに広げて乾燥させ、水分を飛ばしてお茶とかだしを取る紙のパックに入れるだけ。毎日50グラムくらい出来るから、量もちょうどいい。

(消臭剤と言っても気休め程度のものでしょう)正直、ぜんぜん効果は期待していなかった。

しかし、家の中で、この消臭剤を使いたい場所は真っ先に思い浮かんだ。

 

おむつのゴミ箱だ。

我が家では、おむつの密閉できるゴミ箱がある。おむつを捨てる時には、流せるものはトイレに流して、丸めたおむつを一度ビニール袋に入れて縛ってから、そのゴミ箱に入れている。

ゴミの収集は、週に二回。

つまり家の中に留めておくのは3~4日なのだけど、夏場はこのゴミ箱がなかなか強烈。ゴミ箱を洗っても、すぐに次のおむつはやってくる。

というわけで、ゴミ箱の底に【コーヒ豆のカスの消臭剤】を忍ばせてみることにした。

数時間後。

いつもは蓋をあけると、モワッとした何かを感じていたのだけれど、特に感じなくなっていた。微かにコーヒーの匂いもする。何かの匂いでごまかしている感じではなく、吸収している感じ。

なんだよ、なんだよ。めっちゃ良いじゃないか。

それに味をしめて、ひとつひとつのおむつを入れた袋にも、塩をまくようにコーヒー豆のカスをひとつかみ入れるようになった。(これに関しては、効果は不明。気休めかもしれない)

もっと暑い時期にやっておいても良かったかもしれない。来年も(特に夏場は)必要性を感じている。

思い込みと自分ルール

私はわりと、自分ルールがある方かもしれない。〇〇は好き、〇〇は嫌い、〇〇はしない、興味ないことはしない、ピン来ないことはしない。

「これ、良いよ!」と言われても、興味外のことはふ~んと流してしまう。逆に興味のある分野のことは、「これ、良くない!」と言われても、体験してみたい。逆にそそられたりする。

つまり、偏っているのだと思う。世の中のあらゆるジャンルの物事の中から、まんべんなく、という事をしない。自分のゾーンに入っていることを中心に生きている。(こう書いてみると、それが至って普通なのかもしれないけど)

 

主婦になってみてからは、これまで排除していたことや必要ないとつっぱねてきたことも、わりと「やってみるか」と思えることがある。

そして、それが意外とおもしろい、興味が出てきた、ということもある。

自分ルールを徹底するのもいいかもしれないけど、それを飛び越えたこともたまにはいいかもしれない。

昨日、録画しておいたセブンルールと仕事の流儀を見ていたら、どっちのプロフェッショナルもこのようなことを言っていた。今回のセブンルールは【LINEのゲーム事業部の開発リーダーの女性】で、仕事の流儀は【人気ブランドディレクターの女性】だった。

「好きなもの、はなくてもいい」「興味のないことでも、一生懸命なんでもやってみる」「NOは言わない」

共通していたのは、どっちの女性も好きを追求した先にプロフェッショナルになった人ではなくて、目の前のことに真摯に向き合っていたら「社会に必要とされる人になり、それが生きがいになっていて、仕事を楽しんでいる人」だった。

私は、どちらかというと「好きなことをする」という典型的なタイプだ。人間は、自分の考えに近い方の情報を取り入れてしまいやすい。(検索にしても、流れてくる情報にしても)

だから、逆の意見というのはすごく貴重な気がした。

 

何はともあれ、効果を見くびっていたコーヒー豆の消臭剤は、なかなか良いということが分かった。おむつが取れるまで、しばらく活用させてもらおうと思っている。

コーヒー豆、やるじゃないか。ますますコーヒーが好きになったよ。ナカジマノゾミでした。

 

ちっちゃい戦友が出来た旅、東京旅行②

①の続き

下北沢の本屋さん

「まだ4時。もうちょい行ける!」そう判断した私は、もう一つ(行けたら行きたい)と思っていた場所に向かうことにした。

下北沢のB&Bという本屋さんだった。

なぜそこに行きたかったのかというと、少し前に買った本「これからの本屋読本」や、お勧めしてもらって読んだ「本の逆襲 」「本の未来をつくる仕事/仕事の未来をつくる本」の著者、内沼晋太郎さんのやっているお店だったからだ。

本屋さんにあまり興味がない人からすると【本屋さんはどこもそんなに変わらない】と思うかもしれないけれど、本屋さんってすごくいろんなタイプがある。

いろんなカフェがあるように、いろんな本屋さんがある。

ベストセラーを扱っている、大型の本屋さんばかりが本屋さんではない。そういうわけで、個性的な本屋さんとして知られているB&Bはどうしても行ってみたい場所の一つだった。

そのため、予定変更。東西線から千代田線に乗り換えることにした。東西線から千代田線に乗り換えるには、大手町という駅で乗り換えだ。1回だけの乗り換えで下北沢まで行ける。そんなに難しいことじゃない。

大手町につき、乗り換えの移動を急いだ。

よくわからなかったので、駅員さんに「エレベーターの場所」を聞き教えてもらった。少し前方には、同じくベビーカーを押した夫婦がいた。

(この後をついていけば、行けそうだな)と判断し、のんきに後ろをついて行った。発車まで、あと3分。間に合いそうだ。息子は抱っこ紐の中でスヤスヤ寝ていた。

その時、目の前に、30段くらいの下り階段が出てきた。どこを見渡してもエレベーターはない。そういえばさっき「千代田線への乗り換えは、段差があります」と、書いてあったような気がする…

いや、でも。それはさっきベビーカーを持ち上げて登った10段くらいのことだと思っていた。あれはダミーだったのか!

 

前の夫婦はどうするんだろう…?と思って見ていたら、ママが赤ちゃんを抱っこし、パパがベビーカーを持ち上げて難なく下り階段を降りて行ってしまった。

まじか。まじか。まじか。その手があったのね。

私は、今1人だ。いや、正確には2人なのだけれど。ベビーカーにてんこもりの荷物をのせて、お腹に抱っこしながらこの階段は、さすがにちょっと無理。しかし、ここで引き返すとなると、さっきふぅふぅ言いながら、ベビーカーを持ち上げて登った10段を降りることになる。結局、どっちにしても降りなくてはいけない。

オワタ\(^o^)/

その時に「ポキッ」と心の中で音がした。ような気がした。

 

このポキっという音がを聞いたのは、10年ぶりだと思う。初めて東京に1人で行った時に、新宿で迷子になった時だ。その時はスマホのマップも全然正確じゃなくて「新宿駅西口バス乗り場」からバスに乗らないといけないのに、まったくたどり着けなかったのだ。

散々迷って歩いた挙句、駅員さんに聞くことにした。「西口のバス乗り場に行きたいのですが…」その時の駅員さんは面倒くさそうに「あっちにいって聞いて」と言った。その時、何かが心の中で「ポキッ」といった。

今思えば、あの新宿駅構内を、田舎から出てきた人に口頭で伝えるのは難しすぎる、ということが分かる。だから、せめて近くまで行ってからそこにいる人に聞いた方が分かりやすいよ、という意味なのだと理解出来る。

でも、その時は、何だかすごく悲しかったのだ。「東京って本当に冷たいんだ…」と泣きたい気持ちになった。いや、実際ちょっと泣いたと思う。

その時は結局、何回もいろんな人に聞いてなんとかなった(のだと思うけど、正直あんまり覚えていない。)

 

あぁ…どうしようかな。早足にどんどん人が過ぎていく。きっとみんな急いでいるに違いない。ここで声をかけて止めてしまうのもなんだか申し訳ない。

人の流れが落ち着いたところで、離れた場所にいた駅員さんにお願いすることにした。結局、乗り換えの電車には間に合わなかった。

 

なにはともあれ、下北沢につくことが出来た。B&Bは、予想外にも地下のお店だった。ベビーカーごとお店に入る手段はなかった。仕方がない、と邪魔にならないところにベビーカーを置いていくことにした。(スミマセン…)

必死の形相で乗り継いで来た本屋さんは、それはそれは素敵なところだった。店内の本の、9割くらい見たことないタイトルの本だった。本屋さんに来たら、サーっとタイトルは眺めてそれとなく記憶に残すようにしている。だから、9割が見たことない本というのはすごいことだ。

ベストセラーや誰もが知る名作ではない本ばかりだった。もしくは、他の本屋さんでは目につかないような場所に配置されている本が、棚のメインに並んでいたのかもしれない。

なんだこれは。なんだこれは。なんだこれは。

 

店内を一通りじっくりと見て回りたい衝動に駆られた。何時間でもいられる気がした。

 

しかし、気持ちとは裏腹に、滞在10分でリミットがきた。抱っこ紐でくくりつけられていた息子が暴れ出したのだ。というのも、朝の8時からずーっと抱っこされているのだから、致し方ない。彼にしてみたら、正常な判断と言える。

普段は「ママ抱っこ♡」タイプの彼でも、いい加減に鬱陶しくなってきたに違いない。

「離せー!この野郎ー!」と言わんばかりに暴れている。

 

本屋さんで、これはまずい。相当まずい。

 

泣く泣く店内を後にした。そして、絶対にまた来ることを心に誓った。

 

そうと決まれば、退散!とばかりに家路に急ぐことにした。ギュウギュウの満員電車に揺られ、渋谷駅の乗り換えですこし迷い、スクランブル交差点を上から見てギョッとし、なんとか品川までたどり着いた。

怒り狂っている彼をおにぎりでなだめて、新幹線を待った。

新幹線に乗ると、ようやく解放された彼は「いやっほう!!!!!」とばかりに、今度は稀に見るハイテンションになってしまった。疲れが通り越した時におこる、ナチュラルハイというやつかもしれない。

怒り狂っているのも困るけど、ハイテンションでキャーキャー騒ぐのも車内では耐え難い。このままでは、車両にいられない。落ち着けるために、一度、新幹線の車両の接続部分に出ることにした。

とはいえ、地面に野放しにしておくこともできないし、手で抱っこしているのにも限界がある。再び抱っこ紐で抱っこするしかない。そう思って抱っこ紐に入れたのだけれど、この判断が甘かった。昨日と今日の疲れが爆発したのか、窮屈なストレス空間に逆戻りになるのを察知したのか、これまで見たことないような大惨事(大泣き)になってしまった。

…完全に、オワタ\(^o^)/

結局、眠るまで約2時間立ったまま抱っこで堪えることにした。思わず、だっこしながら何度かしゃがみこんでしまった。もう、肩も足も限界だった。

やっと寝付けた寝顔を見ながら、ようやく席に戻ってひと息ついた。

 

今回、彼にとっては何もかもが初めてだった。初めての電車。初めての新幹線。初めての人混み。初めての強制抱っこ。初めての犬とのふれあい。知らない人にこんなに会うのも初めてだった。朝食のバイキングも、バケットにカポナータをつけて食べるのも初めてだった。

 

彼は、この二日間すごく頑張ってくれた。そして、私も、すっごく頑張った!(私は自分の欲のために、だけれど。)

「う~ん」と伸びをして、再び起きた彼がなんだかたくましく見えた。

その顔を見ていたら、一緒に一つのことを成し遂げたような達成感を感じた。都会で一緒に戦った戦友のような気がした。ちっちゃい、戦友。一緒にがんばった仲間。

【かつて住んでいた場所に行く】なんていうのは、はたから見たら、旅でもなんでもないのかもしれないけど。2人で行った東京は、これまでとはまったく違った景色に見えた。

これは、間違いなく『旅』だった。

だけど、もし、また行くことがあれば、次回はぜひとも家族3人で行きたい。急に階段が出現しても、ヒョイっと持ち上げて何事もなかったような顔で進めるように。大暴れしても、交代で抱っこできるように。ビールを飲みながら、美味しいねーと言えるように。

息子との絆が深まったのと同時に、日頃の旦那さんへのありがたさが身にしみた旅だった。

 

それにしても、東京はすごい所だ。道に迷っても、心が折れても、終電に乗り遅れても【なんとかなる】ということを、いつだって教えてくれる。道に迷わなければ【迷っても大丈夫】ということを知ることはできないのだ。困難がなければ、困難を乗り越える経験は出来ないのだ。

 

そんなことを、これでもか!というほど教えてくれる東京は、やっぱりすごい。

 

終わってみれば、最高にいい旅だった。今度の東京は、戦友の彼がもう少し大きくなったときに。長々とお付き合いただきありがとうございました。ナカジマノゾミでした。

2018年09月08日 | Posted in ブログ, 子連れさんぽ, 暮らしと子育て4 Comments » 

 

ちっちゃい戦友が出来た旅、東京旅行①

そうだ、東京行こう。

そう決めたのは2週間前。横浜のカフェで働いていた時の友達、何人かと連絡を取っていた時だった。その中の1人の子が年明けには九州に行ってしまうということで、もしかしたら全員で会えるのは最後になるかもしれない、と。急に【行かなきゃ!】という気持ちが突き動かされた。

旦那さんに許可を取る前に「行くわ!」と手が勝手にメッセージを送っていた。

息子は連れて行けばいい。なんとかなる。

その時点ではさほど心配もしていなかった。授乳期間を終えた息子は、わりとなんでも食べられる。東京ならば、どこにいてもすぐに食べ物を手に入れることはできる。ベビーカーもある。困ったら助けを求めればいい。大丈夫。

と、まあ簡単に考えていた。

のちに、「ポキッ」という心が折れる音を聞くことになるとは思いもしなかった。

行きの新幹線での息子は、かなりのご機嫌だった。持ってきたおにぎりとお茶を飲んで、席で絵本をニコニコ眺め、席を通る人に手を振っていた。彼にとっては、新幹線だけではなく電車も初めての体験だ。そして、静岡あたりでストンと眠りの中へ。

(なーんだ、余裕じゃん)

品川で降りて、ホテルにチェックインし、友達と合流した。そこでもみんなにかまってもらってニコニコしていた。6人全員で集まるのは4年ぶり?とかそれくらい。みんな環境は変わっていながらも、変わらない笑顔でなんだかほっとした。

ミッション1、カフェバイトの友達に会いに行く。クリアだ。

みんなと別れて、夜ご飯を食べるために駅のあたりや近くのお店を見に行った。ベビーカーで入れるようなゆったりしたお店はなく、土曜の夜とあってどのお店も賑わっていた。東京は、いつもそうだ。なんだか、ギュギュギュっとしていて落ち着くお店を探すことが困難だ。

本当はあるのかもしれないけれど、下調べしないタイプだから見つけられない。1人の時はなんとかなっていたけど、子連れとなると話は別だ。

なんとなくどのお店も店内には入りにくいなあ〜と感じたので、通りにあったオープンテラスのイタリアンバル・デルソーレに入ることにした。

(本当はホテルの部屋でテイクアウトの食事でもよかったのだけれど、どうしても美味しいビールが1杯飲みたかった。どうしても、どうしても…)

デルソーレは食事が摂れるイメージはなく、エスプレッソを中心とするイタリア系のカフェだと思っていた。しかし、その店舗ではディナーも出していた。すごく、すごく、ほっとした。

そこの店員さんが、きっとすごく出来るバリスタさんなのだと思うのだけれど、息子にもよくしてくれた。居心地の悪さをまったく感じずに食事をすることが出来た。バリスタさんに救われた気がした。この時点で「やっぱりバリスタっていいなあ」と再確認した。

少しだけ飲んで、早めにホテルに退散し、早めに寝かしつけた後に、のんびりと持ってきた本を読んだ。すごく、リラックスできた宿泊だった。

東京旅行、二日目

今日のミッションは、まずは有楽町でお店を開いている友人に誕生日祝いを渡すこと。

朝から、しとしとと雨が降っていたため、つむつむ君は抱っこ紐で抱っこし、傘を差し、その他の荷物をベビーカーに乗せビニールカバーをかけて移動することにした。重い、が仕方がない。荷物を全部もつよりは8キロの息子の方が軽い気がした。

品川から有楽町へは山手線で1本。エレベーターを探すのにもだいぶ慣れた。

有楽町のドイツパンとコーヒーの移動しない移動カフェは、相変わらず元気に営業していた。立地は最高の場所なのだけれど、なんせお店を年中無休で営業しなければならない、という約束らしい。その場所で7年間、毎日彼女は営業していた。すごい。すごすぎる…。すごいを通り越してもはや変態だ。

でも、久しぶりの笑顔を見れて、なんだかほっとした。「来るなら言ってよ〜!」と、毎回突然来る私に苦言を呈していた。

私は、いつも友達のお店に行く時に連絡しない。もし、万が一、本人が居なくってもいいか、と思っている。もちろん会いたいし、そのために行くのだけれど。でも、会えなかったとしても、その人が元気に生きている痕跡が感じられればそれでいい。その人がいつも身を置いている空気を感じられればそれでいいのだ。

なるべく、気を使わせないように、と思ってそうしているのだけれど、自由に計画を変えられるように身軽に行きたいという自分の都合もある。約束に縛られたくない性格は、こんなところにも顔を出しているようだ。

これでミッション2、お誕生日祝いを渡す、もクリア。

 

そこから、メトロを乗り継ぎ、千葉県の行徳に向かった。ここには、1年前にカフェを開いた友達がいる。カフェニルは今回どうしても行きたかった場所の一つだ。

彼女は、カフェの専門学校のクラスメイトだった。20歳だった当時から、28歳でカフェを開く計画を立てていた。

そのために、エスプレッソの勉強をとillyで働き、フードの勉強をと別のお店にステップアップのための転職をし、新規オープンの立ち上げを経験するために幾つかのお店で働いていた。

そして、数年前から珈琲焙煎のネットショップを始め、実店舗を開いた。それも、子どもを産んで1年ほどでお店をオープンさせたのだ。なんともパワフル。

「20歳の時の彼女はカフェを開く夢を見ていて、それが叶った」わけではなかった。
「将来、カフェをしたいんだ〜」という希望を持っていたわけではなかった。

あれは「夢」ではなく「計画」だったのだ。

そのために必要な勉強やスキルを逆算して学び、コツコツと何年も前から計画を温めていた。叶った、という他力を思わせるニュアンスとは少し違う。そこに向かって進んできた。つまり、必然なのだ。

そして、お店のオープンが目的でもないはずだ。もっともっと先を見つめている。

ここに着いた時、彼女の顔を見て泣きそうになったのを、息子の顔を見て必死にごまかした。

日曜の午後、ひっきりなしにやってくるお客さんの顔を見て、愛されているお店であるということがひしひしと伝わってきた。ここに来てよかった。そう思った。

ミッション3、「1周年おめでとう!」と言いに行く。クリア。

これで今回の旅行、すべてのミッションは達成した。

このまま東京駅まで行き、帰りの新幹線に乗ればよかったものの(あれ?もしかしてもう一つ行きたいところ行けるのでは?)という心の声が聞こえてしまったために、下北沢に向かってしまっていた。我ながら、なんとも私らしい判断だった。呆れるほど私らしい判断だった。

…②に続く。

2018年09月05日 | Posted in ブログ, 子連れさんぽ, 暮らしと子育てNo Comments » 

 

【話が噛み合わない原因】具体と抽象

「具体と抽象」 著者:細谷功

久しぶりに、読んで考えさせられる本を読んだ。

人と話していて、(あれ?全然会話が噛み合わないぞ)という経験は誰にでもあるはずだ。その場合に考えられることはいくつかあるが、その中の一つとして、【具体で話す人】と【抽象で話す人】という原因が考えられる。

【抽象】とは、例えば大まかにカテゴリを分けたものの総称だ。

「マグロ」というのは「魚」というカテゴリに所属している。この場合は「魚」が【抽象】で「マグロ」が【具体】だ。【具体】はさらに細分化することが出来る。「マグロ」の中にも「キハダマグロ」や「本マグロ」などがあり、それはさらに具体的に表される。

しかし、【抽象】や【具体】は、比較の相手によって変動する。「生物」というカテゴリの中では「魚」は【具体】になる。ピラミッドのような関係だ。

抽象の世界で話す人の話は、具体の世界で話す人には通じない。逆に、具体で話す人のことは、抽象で話す人にとっては「話の論点がずれている」と感じる。

抽象は、総合的に見たり、全体像を想像しないと捉えることができない。木を見て森を見ず、とは全体を把握できずに具体のみを見ている状態だ。
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以前こんな話をしてくれた人の話を思い出した。

「部下が、指示したことをその通りしか出来ない。応用が利かない。AをA’に直して、と伝えたらそれしか出来ない。もしかしたらBはB’に直すべきなのかもしれないという発想が出来ない。」

この部下は、一つ一つの仕事を「具体」と捉えているのだろう。全体を上から把握して、仕事を総合的に見ているオーナー側からすると、「何でそんなことも想像出来ないの?」となる。

哲学などは、まさに抽象の世界。大きな枠でざっくりと定義した言葉で表す。

「〇〇の場合は当てはまらないんじゃないんですか?」と具体例を出してくる人は、ざっくりとしたイメージが湧かず、具体的なパターンでしか捉えられないということなのだろう。

抽象で捉えることが得意な人は、仕事の方針など、大きな矢印を創ることに向いているという。具体で捉えることが得意な人は、数や数値が決められた作業などが向いているようだ。

マニュアル化、というと【具体派】の人にとっては仕事がしやすいのかもしれない。この場合はこうする、この場合はこうする、というのが逐一決められている状態。

【抽象派】の人にとっては、本質的な方向だけが定められている仕事の方が能力を発揮出来るのではないかと思う。

接客で言えば、マニュアルがなくても、例えば「お客さんの喜びを一番に考えるという理念」などをきちんと理解していれば、その時々でベストの対応をする「おもてなし」ということにつながる。

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【抽象】は、人間のみが把握することが出来る概念なのだそうだ。

抽象で捉える力を持つことは、生きやすさにつながるのかもしれない。そして(話が噛み合わない)と思った相手がいたら、自分とは別の視点で物事を視ている人がいるということを知っておくと、余計な苛立たしさやもどかしさを感じずに済むのではないか、と思う。

なんだか話の噛み合わない人がいる、と思ったら読んでみると面白いかもしれないです。

2018年08月30日 | Posted in おすすめの本, ブログ, 価値観を考える本9 Comments » 

 

セロリの筋が教えてくれること

 

セロリが好きです

 

でも、なんだか料理のレパートリーがあんまりなくて、たまーにしか買いません。炒め物にするか、ディップするか、サラダに入れるか、漬物にするか。あの独特の風味はもっと何かに使えそうなんだけどなあ…

そんなわけで先日久しぶりに足助のスーパーパレットでセロリを買いました。

洗って、筋を取って、、、と思ったのに、どう見ても筋が見当たらない。

よーく見てみると、筋を取ってあるような跡がある。試しに食べてみると、丁寧に全ての筋が取り除かれていました。
 

セロリには筋がある

 

「セロリには、筋があるからね、口に残らないように、根元の方から包丁を入れてすーっと引っ張って筋を取るという下処理が必要なの。」

何にも料理ができなかった私に、昔働いていたカフェのキッチンで、セロリ好きのオーナーが教えてくれたこと。

どのお店でセロリを買っても、当たり前のようにあるセロリの筋。

それが、このセロリには無い。

もし、お店が意図的に筋を取ってくれているとしたら、なんて優しいのだろう。だって、セロリですよ。キャベツでもレタスでもなく、どどーんと食卓の上でアピールするわけでも無いセロリ。そのセロリの筋を取って、売っているとしたら。

お客さんの身になって考えないと、こういう発想にはならないような気がする。

この足助のスーパー。前から大好きなのだけれど、より好きになったような気がした。

たかが、セロリの筋。でも、そいういう細かいところだからこそ、感動する。値段でもなく、お洒落さでもなく、気の利いた一言でもなく。そんな武器がなくても、人をファンにすることが出来るのかもしれない。すごい。
 

丁寧な仕事が愛される

 

この前、イベントでキッチンカーのバインミーを買った。

スピードが勝負でもあるイベントの日のキッチンカー。ある程度作り置きしたり、途中まで仕上げていたりするお店が多い中、一から(パンに切れ目を入れるところから)その場で作ってくれた。

もう。それが美味しくて美味しくて。

オーナーさんは「まだ始めたばっかりで要領が悪くて。時間がかかっちゃって申し訳ない」と言っていたけれど、それを待つのって全然苦じゃない。むしろ、ポンポン出てくるより、その時間も愛おしい気がする。

 

他のお客さんの注文を見ていたら、梨ジュースはその場で梨を剥いていた。す、すごい。私だったらビビって、ある程度の個数は剥いておいてしまうと思う。それはお客さんのためという名の、自分のためだ。早く提供することをお客さんのためだと最優先するのか、一つ一つもっとも新鮮な状態で提供することをお客さんのためだと最優先するのかは、オーナーの考え方が求められるところだけど。早く提供したい、には自己保身も含まれるのだと思う。

目の前でコーヒーを淹れてもらうのが、たまらなく嬉しいように。目の前で自分の分を調理してくれるというのは、やっぱり嬉しい。そして美味しさは倍増する。(視覚的効果も関係あるのかもしれない)

丁寧な仕事は、愛される。

丁寧な仕事というのは、礼儀正しくうやうやしく仰々しい、とは別物だ。堅すぎる敬語と、過剰すぎる梱包はちょっと似ている。大きな組織ほど、この辺りの調整が苦手な気がする。画一的に全てを丁寧に丁重に慎重にするのは、その場の空気感の魅力を殺しかねない。

大切なことは丁寧に。力を抜いていいところは、適当に。それくらいがちょうどいい。

セロリから、そんなことを学んだ1日。スーパーから学ぶことも、結構あるのかもしれない。只今、絶賛主婦満喫中。ナカジマノゾミでした。

 

風情といえば、足助の花火大会

 

足助の花火が好きです

 

去年初めて行って感動した足助の花火大会。

今年は3人で行くことにしました。

 

今年は、去年の反省を踏まえて少し早めに家を出ることに。(去年は、近いしそこまで混んでないでしょうと言う理由で直前に家を出たら、渋滞中に花火が始まってしまった!)

花火大会は、どこに行ってもいつも感動するけれど、去年の足助の花火が一番感動したかもしれないです。

当然、花火の数はおいでん祭りにはかなわないし、花火の大きさは熊野の花火にはかなわないのだけれど。

足助の雰囲気のある街並みごしに上がる花火、巴川と一緒に鑑賞できる花火はなんだかすごくいい。通り沿いで行われているお祭りも、古くからのお店の軒先でなんだか風情がある。

今年は張り切って、人のいない花火の真下の川沿いで見ました。

人はいなくて快適だったけど、風情という点ではもう少し離れて、風景と一緒に観た方が綺麗だったかもしれません。

 

つむつむ君の花火デビュー

 

足助の花火は、つむつむ君の花火デビューでした。

それまで眠い眠いだったつむつむ君も、花火が始まると空を見上げて興奮した様子。最後までぐずらずに見ていました。

ただし、刺激が大きすぎたのか夜寝るときは久々にものすごい泣きました。初めての花火にちょっとびっくりしたのかも。

来年は、また違った反応が見れるかもしれないですね。来年の楽しみが、また一つできました。

 

足助の花火大会の混雑状況

 

去年は余裕をかまして開始30分前くらいに着くように家を出たのですが、追分の交差点を超えたあたりはかなり渋滞していました。一番大きく入りやすい駐車場である、香嵐渓の駐車場。その駐車場に入るためには、名古屋・豊田・岡崎方面から行くと信号を右折しないといけないので、右折待ちだったことも混む要因かなと。

そして、駐車場がいっぱいで入れないにもかかわらず、一本道なので引き返すことも回避することもできずに立ち往生している車がたくさんいました。

今年は、5時半くらいに着くように出たら、ほとんど渋滞はしておらず、駐車場にもまだ余裕がある感じでした。

ちょっと早めに行って、街中でお祭り気分を味わって、川沿いで眺めるのがおすすめです。

大きな花火大会は人もすごいし、ちょっと疲れちゃう。静かに楽しみたい、風情のある花火を楽しみたい、という人に足助の花火はおすすめです。

 

それにしても、花火っていいですよね。あの、ぼーっと上を眺めてなんにも考えないような時間が大好きです。

そして、職人さんたちが1年かけて作ってきた集大成なのだと思うと感慨深くなります。職人さんたちは、みんなの喜ぶ顔を見て花火を作っているに違いない。

この花火で恋が始まる人、片思いの相手に思いをはせる人、そして楽しみにしていた子どもたち。そんな一人一人のストーリーを思い浮かべて花火を作っているのかもしない。

花火職人さん、来年の花火も楽しみにしています。

 

【親切】がなくなる社会になればいいと思う

先日、タリーズに行ったときのこと

ランチを過ぎてお茶には早い時間だったということもあり、店内には2,3組のお客さんがいる程度の静かな店内。

座りやすく、ベビーカーも置きやすいソファの角の席でコーヒーを飲みながら、もうすぐ10ヶ月になる息子とのんびりしていた。

そのとき、赤ちゃんを抱っこ紐で抱っこしながら一人のママさんが入ってきた。

 

座るところはたくさんあるのだけれど、見渡すかぎりソファ席はあいておらず、すこし残念そうな顔のママさん。

私は抱っこしていたわけでもなく【広さ】の観点でその席にいただけだったから「よかったら、ここどうぞ!」と言って、すぐ近くの席に移動した。

そのママさんは「え〜!そんな!…ありがとうございます!」といって、気持ちよく受け取ってくれた。

抱っこ紐で抱っこするというのは、どのママさんも当たり前のようにしているけど、長時間(ましてや、毎日、一日中していたり)すると、相当肩と腰に負担がかかる。

そして赤ちゃんを連れていると、おむつやミルクなどの飲み物、おやつにおもちゃ。荷物も一人のときの何倍にもなり、ちょっとしたお買い物でもけっこうハードだ。

荷物を横においたり、手を横についたり出来るソファのほうがゆっくり出来る。

 

もし、子供を生むまでの自分だったら、そのママさんの残念そうな一瞬の表情に気付けなかったかもしれない。そう思うと、息子がいてくれたおかげで少し視野が広がったのかもしれない、とふと思った。有り難い限りだ。

そして、さんざんのんびりして席を立ったとき。さっきのママさんが「こんなにのんびりできたのは、本当に久しぶりです。ありがとうございました。。」と声をかけてくれた。

そこからすこしだけ世間話をして、なんだかすごく温かい気持ちで家まで帰ることが出来た。

その状況においてごく自然に動いただけなのにお礼まで言われてしまって、気持ちの良いい一日を過ごさせてもらって、こちらこそありがとうございます、という感じだった。

お父さんが大きな荷物を持つのは、親切?

 

お父さんが大きな荷物を持って、お母さんが赤ちゃんを抱っこして、お兄ちゃんが軽い荷物を持って、一家でお出かけするとしたら。

お父さんが大きな荷物を持つことは、きっと【親切】ではない。お父さんは力があるから、大きい荷物をもってくれる。それは【親切】ではないけど、みんなはお父さんに対して「いつもありがとう」という気持ちになる。

もしくは、それが当然のようになっているかもしれないけど、お父さんは決してお母さんや子どもに「俺は親切にいつも持ってやっている」とは思わないだろう。

それがごく自然に自分の役割として、認識しているのではないだろうか。そして力の面では頼っていたとしても、繊細な作業の面ではその役割はお母さんになるかもしれないし、子どもの役割だってなにかしらあるはずだ。

そんな風に社会をみてみたらどうだろう、とふと思う時がある。

そうなると【親切】という言葉自体が必要なくなるかもしれない。

体力のある人が、お年寄りや体調の優れない人に席をゆずる。急いでいない人が、急いでいる人にレジの順番をゆずる。手が空いている人が、面倒をみる。元気のあるひとが、声をかける。気分のいい人が、ニコニコして場をなごませる。

そんな風に、それをごく当たり前の役割として担っていけたら。そこに親切という概念はなくなり「してやったのに!」「頼んでいない!」という低レベルな論争もなくなる。

それには、大きな意味で社会をまるごと家族のように思うような気持ちが必要だ。そこにありがとうという気持ちがあるのは、前提で、ということでもある。そして、自分にできる役割はなんだろう?と、各々がいつも考えていないと成立しないだろう。

性別も地域も国境も越えて、大きな社会の【今、その場でできる自分の役割】として状況を見渡すことが出来たら。押し付けでもなく。渋々でもなく。

そんな日常が、いつかくるのかもしれない。そんな日が、いつか来るといい。

 

いつの日か【親切】という言葉がなくなりますように。

ナカジマノゾミでした。

 

直感を鈍らせない

少し前に、本屋さんが教えてくれた話を思い返していた。

おもしろい話だったので、自分だけで消化するのはもったいない気がしたので改めてブログにあげておくことにする。

自分が忘れないように記録に留めておく、という意味もある。


 

日々、生と死を意識せざるおえないCAさんの話

 

CAさんは、日々の仕事の中で生死を意識する職業だ。というよりは、人よりも事故に合う可能性が高いような気がする。だって、日々、空の上にいるのだから。

もし、万が一という場合には乗客を出来るだけ安全に誘導したり、冷静な対応が求められる。パニックになっている場を落ち着かせるのも大切だ。

あるCAさんは、フライトに出る前に国籍や性別の記したシート座席の用紙を見たときに【もしも何かが起きたときのイメージを沸かせている】という。

そして、実際に乗客が乗ってきた際には、ひと目見たり挨拶を交わしただけで【何かあったときに協力してくれそうな人】【力が強そうで頼れそうな人】【冷静に誘導を手伝ってくれそうな人】【パニックになりそうだから要注意な人】【全体のことよりも自分を優先しそうな人】などなど、その人の雰囲気や仕草、視線や行動や気配から直感的に察知しているそうだ。

そこに性別や国籍や体格などを組み合わせて、万が一の緊急時の役割分担を頭の中で構成しているという。

何かあってから考える、では遅いのだ。目星をつけておいて、何かあったときには即行動に移す。一瞬の判断が、生死をわけるといっても過言ではない。

 

日常生活に活用できるのではないだろうか

 

そして、この話を教えてくれた本屋さんは、この話を日常生活にももっと活用してもいいのではないか、という話をしてくれた。

たとえば、電車に乗る時。何も考えずに座るのではなく、突然暴れだしそうな人がいそうな車両は避ける、とか。

車を運転している時、後ろに嫌な感じの運転をする人がいたら早めに道を譲っておく、とか。

天気予報に任せっきりにするのではなく、空の様子がいつもと違わないか、雲の動きはどんな感じか察しておく、とか。

体温計で熱がなくても、子どもがなんとなくいつもと違わないか感じる、とか。

情報や文章、注意書きやニュースだけでなく、体感としてあれ?と感じられる自分の状態をつくっておく、ということは結構大切なのではないか、と、

確かに100%事故を防ぐことは出来ないかもしれないけど、事件に巻き込まれる可能性はすこし減らせるような気がする。【ちょっと危険そうな人】に近づかないというのは、動物的だが人間関係のなかでもすごく有意義な気がする。

そのためには、直感を普段から働かせておく必要がある

いきなりひと目見た人を察しろ、といわれても、普段直感を使っていない人にはなかなか難しい。

相手の目線や動きや気配を、肌で感じる必要がある。

接客業は、これを感じるのには最適ともいえる。【この人は、どういうお客さんか】【自分のお店には何を求めてやってきたのか】【いま、どういう状況か】そんなことを会話をせずとも肌で感じ、要求を先回りしたサービスをすることで喜んでもらうことが出来る。

日常生活のなかだったら、職場の人や家族、立ち寄ったお店、乗った電車やバス、前後の車の運転手など、勝手に想像することもできる。職人と呼ばれるひとは、これを商品や仕事の中で感じている人もいるかもしれない。

そうして普段から直感をみがいておくことは、侍が刀を研いでいるようなイメージだ。敵が襲ってくてから刀を研いだのでは遅いのである。日々、刀を研ぎ、もしもの時をイメージして背筋を伸ばして目を閉じて気配を感じておく必要がある。

 

動物における直感力

 

そういえば、地震や津波のときに動物の死骸が発見されない、という話を聞いたことがある。津波のくる何日か前から、その場所を離れるような動物の動きや、丘の上に避難するような不思議な動きが観測されている。

地球から、いつもと違う【何か】を察した動物は、その場所を離れたり、仲間に危険を知らせているらしい。

人間は言語など知性の発達によって、直感という分野が減退してしまった。察知したり、異変に気づいたりするのが遅すぎる人がとてつもなく多い。

ぼけーっと受動的に生きていると、目に見えないものに対して鈍感になってしまうのだ。

この話を聞いたときに、今、まさにぼけーっと生きていた私はかなりドキッとした。

仕事をしているときには、日々もっと敏感だったような気がした。目の前の人の様子から、コーヒーの様子から、天気の様子にたいしても、もっともっと察するものがあった。

この話は、今の自分に対してはかなりグサっとくる話だった。

守りたいもがあるのであれば

 

守りたいものがあるのであれば、直感を研ぎ澄ましておくことは大切なことである。

何かの異変に気づいた時、気付いてからでは遅い。

【もしかしたら、こうかもしれない】と、冷静に仮説を立てておくことは、過剰に心配したり不安になることとは少し違う。むやみやたらに情報にふりまわされて心配するのではなく、自分のを基準にして感じられる身体と心をつくっておく。けっこう大切なことなのかもしれない。

そんなことを、いつもと違う空を眺めながら思いだした日。今日は少し、刀を研ぐイメージで包丁を研いでみようかな。ナカジマノゾミでした。

 

【躾】身を美しく、とは

 

子どもに注意すること

8ヶ月になることから、つかまり立ちしだしたつむつむくん。最近では、なんとなく言葉も理解しているようで、私達の掛ける言葉に相応のリアクションをすることも増えました。

たとえば「すごい!出来たね~!」といえば、嬉しそうに「わ~あ~」と言って拍手したり、怒られた時には、顔を歪ませて不服そうに「えぇ~(´;へ;`)」と言ったりします。

成長という名のいたずらが始まったつむつむくん。まだ正確には意味は分からないかもしれないけど、命の危険があることや、お友達に嫌な思いをさせてしまうことに関しては、今のうちから【なぜそれをしてはダメなのか】という理由をつけて注意するようにしています。これは、私自身の「叱る練習」でもあります。

 

なぜ理由をつけて注意するのか

 

子育てを勉強したわけではないし、経験したわけではないのですが、理由をつけて注意するのには【いずれ、自分で良し悪しを考えられるように】という意図があります。

「それは、ダメ」「コラ!」だけでは、子どもにとっては「なぜいけないのか」が分からない。

それに、時と場合によって、良し悪しは変わってきます。もう少し大きくなったときに、自分の頭で考えられる人になって欲しい。それは私の願いの一つでもあります。

 

躾の語源は、しつけ糸から

 

躾とは、身を美しくと書きますが、その語源は着物などを縫うときの工程のひとつ「仕付け」からきているそうです。

しつけ糸は、縫いやすいように仮におおまかに縫っておくものですが、仕上げて着るときには抜いてしまいます。

最終的には、しつけ糸は不要になります。ずっとつけたままにしておくことはしません。

躾も同じで、いつまでも親の決めた【いい悪い、という型】にはめておくのではなく、最終的には誰かが決めた型が必要ではなくなるように、いずれ外しても大丈夫なように。自分で考えて判断できることを目的にしているのではないか、と思います。

 

身を美しく、とは日本人らしい漢字の作り方だなあと感心します。【美しい味】と書いて【美味しい】と読む、いうCMにもハっとしましたが、身が美しいと書くセンスも素敵。

 

 

理由をつけて注意するようにしてから

 

理由をつけて注意するようにしてから、どんな言葉を選べばいいのかを考えるようになりました。

例えば、遊んでいるときにはボールを持っては離す(投げる)というのは、褒められるのに、ご飯中にスプーンを落とすと怒られる。子どもにとって、スプーンを落とすのは悪気があってやっていることではない。

だとしたら。「コラ!」という言葉だけでこれを伝えるのは、混乱するのではないか?と思います。

今はなぜダメなのか、今はなぜいいのか。

目的は【今、その行動を止めさせる】のではなく【どうして今、それをするべきではないのかを理解してもらう】にある。

そして、今のうちから言葉できちんと伝えるということを意識してから、イラッとして「もう!ダメって言ってるのに!」と感情的に言葉を出すのではなく、一呼吸おいて冷静に伝えることが出来るような気がしています。これに関しては、自分にとってイライラが減るという効果がありそうです。

とはいえ、いつ何時も冷静に伝えるというのは、なかなか難しいのかもしれません。ついつい「ムカッ!イラッ!コラーーーッ!」としてしまうことも、今後も多々あると思います。(特にイヤイヤ期は、大変そうなイメージ)

 

それでも、これから何年間かは、親の言葉選びがかなり重要になってくるのではないかと思っているので、自分なりの方法で息子との毎日を過ごしていけたらいいなあと思います。

今日から8月ですね。今日も穏やかな1日になりますように。ナカジマノゾミでした。

2018年08月01日 | Posted in ブログ, 子連れさんぽ, 暮らしと子育てNo Comments » 

 

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