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しばらく、そして、つづく

しばらく投稿を出来ていなくて、サイトを見ることもしていなかった。そしたら、なんとコメントが5000以上も来ていた。

何事だ!?と、ひとつひとつ見ていく。すべて謎の英語と謎のURLのコメントだった。(押してはイケナイ系のやつだと思う)

どうやら、HPのセキュリティがうまく機能していないらしい。

いやあ、良かった、良くないけれど、良かった。5000コメントもどう頑張っても返信できないし、大変長らく無視していたことになってしまう。いやあ、良かった、良かった。

ここ1ヶ月で、さまざまな生活の変化があった。

まず、つむつむを保育園に通わせたこと。山の方の保育園だから、すんなりと入れてもらえた。つむつむは、現在アットホームな保育園ライフを送っている。

甘えん坊くん、大丈夫かな?と思ったけれど、なんとか慣れてきた模様。先生も優しくて、自分からお膝にちょこんと座りにいっている。

この前は、おともだちのおもちゃを奪おうとして、噛みつかれたらしい。普段、ママたちにハムハムされることはあっても、噛みつかれたことはない。いい社会勉強になったと思う。もっと社会に揉まれて強くなるといい。

そして、なにやらゴソゴソと、ここ2,3ヶ月準備していたのだけれど。ふたたび私のコーヒー屋さんがあと10日後あたりにオープンする予定らしい。

移動販売車をまた作ることは無いな〜と思っていて。だからといって店舗を始めようとは思っていなくて。働く時間もかなり限定的なものを求めていて。

そんなゆるい思考で、計画もなにもしていなかったのだけれど、とつぜんいい話をいただいて。こんな転がってきたチャンスをみすみす逃すわけにはいかないよね?ということで、すぐに返事をしたのだった。

そのいい話は、小屋をシェアするような営業のカタチだ。平日の夕方まで、のみ働きたいコーヒー屋と、夕方から深夜と週末をメインに営業したいバーの小屋を駅前に作ろう!と、そんな感じだ。

なにしろ、準備の時間がないし(つむつむが保育園に行き始めてから、だいぶ時間をつくれるようになった)資金もないし(もし、いつかやりたいことが出来たときの為にとCAFEBUSNONの時に貯めて残しておいた二十数万円のみ。頼りない軍資金だ。笑)

あるのは、これまで一緒に乗り越えてきてくれた相棒のマシンたちのみ。それでも、この人達がいればなんとかなるような気もしている。

前回と違うのは、仕事と生活の比率を管理しないといけないということ。結婚前は、自分がしたい仕事は全部引き受けていたけれど、今回はそういう働き方はしないことに決めている。

週4日の営業日と、週1日の事務作業日。そして、家族と過ごす休日が2日。

さあ、あとちょっとの準備期間!がんばるぞー。

よかったら、まだまだ途中ですがのぞいてみてください^^

STREET COFFEE&BOOKS

2019年07月19日 | Posted in ブログ, 働くシアワセ, 暮らしと子育て12 Comments » 

 

定期のおじさん

「なんか、今日はあついねぇ」

ここ最近、言われて嬉しかった言葉である。

もちろん、ただ「暑い」という言葉にときめいたわけでは無い。それは、そのシチュエーションの持つ力が最大限に作用した場合のときめきだ。

「なんか、今日はあついねぇ」

そう言ったのは、私が【定期のおじさん】と心の中で呼んでいる、本屋さんにくる常連さんだ。何冊か定期購読をしてくれていて、週に何回もお店に来てくれる。

バイトに入るたびにお見かけするような気がするから、もっともっと来てくれている、ということだ。本屋さんにとっては、貴重なお客さんである。

この定期のおじさんは、ちょっと強面だ。いや、結構、かもしれない。バイトに入りたてで、レジでしどろもどろしていた時には、ギロッと強い視線を感じていた。(気のせいかもしれないけれど)特に必要以上の言葉を交わすわけでもなく、「いらっしゃいませ」から「ありがとうございました」までをスムーズにして欲しいタイプのお客さんだ、と勝手に決め付けていた。

そもそも、本屋さんとお客さんはレジでは余分な会話をするタイミングがなかなかない。個人の小さなお店ならまだしも、次々に後ろに人が並んでしまうようなレジの場合、お店側もお客さん側も気を遣う。その上、カフェでやっていたような【頼んでくれた商品に対するツッコミ】のようなものも、しづらい。かなり。

例えば、コーヒー屋さんの時は相手の注文の仕方や話し方から、コーヒーが好きそうだと感じればそれに適した一言二言をかければ良かった。また、仕事の休憩中なのか、出張なのか、ということをなんとなく聞いてみたり。

それに比べ、本屋さんは「その作家さんお好きなんですか?」とか、「いつもこういう系統の本買ってますね」とか、仲良くない段階では言ってはいけないような気がする。というか、お客さんはそんなことはあまり言われたくないと思う。よほど仲良くなってこれば「あの作家さん、新しいの出しましたよ!」とか、そういう情報のやり取りはあり得るかもしれない。でも、基本意的には買う本にあれこれ言われても特にいい気はしないし、どういうモチベーションで買っているかもわからないから、下手なことは言わないべきだ、と思う。

だから、常連さんであってもなかなか必要以上の会話をする機会がない。それがゆえに仲良くなるのが難しい。

定期のおじさんも、まさにそうだった。これだけ何回も接客しているのだから、ちょっとは仲良くなりたいなあと思って、前回の時に思い切って「いつも購読していただいてありがとうございます」的な当たり障りない会話をした。

そんな定期のおじさんが、その日はレジが終わった後、不意に「今日は、あっついねぇ」と、言ったのである。お金をいただいて、商品もお渡しして、いつもならササっと行ってしまうところを、わざわざ当たり障りない一言を付け加えてくれたのだ。

決して、対人関係が得意そうではない、定期のおじさん。いつも、眉間にしわを寄せている(と思っていた)定期のおじさん。

「は、は、話しかけてくれたーーー!!!」というのが、私の中で衝撃的だった。全然大したことは話せなかったのだけれど。それでも、もしかしたらちょっとだけ心を開いてくれたのかもしれない、と思うと嬉しい気持ちでいっぱいになった。

そして、思い出した。コーヒー屋さんの時、こんな気持ちを感じられる日々が嬉しくて仕方なかったのだ。「ちょっと心を開くのに時間が必要なタイプ」のお客さんと打ち解けられた時は、とくに。それは私が「本当は心を開くのに時間が必要なタイプ」だから。その気持ちがなんとなく、わかるのだ。

その時学んだのは、相手がいくら強面でも、笑ってくれなくても、自分のことを苦手かもしれなくても、まずはこちらから「 I Like You」を伝えるべきだ、ということだった。

近頃、そんなことちょっと忘れていたかもしれない。思い出させてくれた定期のおじさん、ありがとう。ナカジマノゾミでした。

2019年06月18日 | Posted in ブログ, 働くシアワセ, 本屋さんのことNo Comments » 

 

街の一角から、世界平和はつくれるか

※先日の記事が消えてしまい、いくつか頂いたコメントも消えてしまいました。バックアップの復元ミスったようです。ガーン。すみません(T_T)

自分の居場所、といえる場所

一時期、サードプレイスという言葉が流行った。自宅ではなく、職場でもなく、その間にあるとびっきり居心地のいい場所。他愛ない会話が出来て、気軽に交流できる場所。

それは、カウンターのあるバーかもしれないし、常連が集うスナックかもしれない。子どもたちにとっては近所の駄菓子屋かもしれないし、公園かもしれない。

「誰かが存在していて、その視線が好意的であること」は、自分の居場所と呼べる場所には欠かせない。日本ではサードプレイスは【ひとりだけでくつろげる場所】という捉えられ方をされがちだけれど、本来は【ゆるやかなコミュニティを生み、そこに集まる人と話すことでリラックスし、ときに新しい何かが生まれる】ような意味合いを持っている。

目的と目的をつなぐだけの動線

ふと、自分の行動を見直してみると、住んでいる地域が車社会ということもあるけれど、家と目的地を結ぶだけの道順を通ろうとしていることが多い。そこには無駄がないのだけれど【思いがけず、何かと出会う】ということも少ない。

目的のある行動をしている時には、想定外のことはなるべく起きないで欲しいと願う。約束の時間に遅れたくないと思うし、これから出かけるのに衣服を汚したくないとも思う。

目的のない行動をしている時には、なにか予想外のおもしろいことを探す。いつ、どこで、何をしたくなっても構わない。ちょっとぐらい汚れたって全然いい。そうなったら、そうなった時に考えればいい。

こう見てみると、1つめは【大人】としての行動。2つめは【子ども】としての行動そのままだ。

例えば、目の前の人がオレンジが大量に入った紙袋を落としたとして。

時間制限のあるなかでは【見て見ぬふり】をするかもしれない。一緒に拾ったとしても「あぁ!もう!時間ないのに!」と思うかもしれない。

何も特にしていないのであれば、気持ちよく拾ってあげられるかもしれない。ついでに世間話して仲良くなっちゃうかもしれない。オレンジを落とした人がめっちゃ美人かもしれないし、その人にとびっきりの笑顔で「ありがとう!」と言われちゃうかもしれない。また別の機会に違う場所で出会ったら「運命だ!」と錯覚できるかもしれない。

目的と目的だけをつなぐ行動では、予想通りの出会いと予想通りの出来事が圧倒的に多い。そして、そういう生活の中では、サードプレイスの生まれる可能性は低い。

何者にもならなくていい

生活の拠点が家と職場だけ、ということは、常に何かの役割を担わなくてはいけない。家では【夫】、会社では【上司】など。サードプレイスのような場所では、ひとりひとりは何の役割も受け持たなくても良い。その人が、その人であればいい。そういう時間をもつことは、人生おいて必要だ。

もちろん、習い事や趣味に、それを求めても良い。でも、コミュニティがゆるやかであればあるほど、より心地いいような気がする。気分によって、選択できるようなゆるやかさがなければ、またいずれ息苦しくなってくる。

無駄だらけのような行動が、無駄ではないことは結構ある。もしかしたら、日本に足りないものってこういう合理性のないことなのかもしれない。

ちょっと話は飛んでしまったれれど。

もし、自分にとって安心感のある、受け止めてもらえるような場所が、一人ひとりにあったなら。嫌なことがあった時に「聞いてよ~!」と言えるような場所があったなら。「それは大変だったね、大丈夫?」という誰かからのささやかな一言があったなら。嬉しかったことを、聞いてくれる誰かがいたなら。

世界はすこし、平和になるのではないか、と本気で思っている。

いつもの街角から、そんなことが出来たら、いいなあ。ナカジマノゾミでした。

2019年05月30日 | Posted in ブログ, 生きるシアワセNo Comments » 

 

porepore、ゆっくり行こう

天白のコーヒースタンドporepore

昨日は、天白の原駅前に3月末にオープンされたコーヒースタンドポレポレさんに行ってきました。

鶴舞線の原駅のすぐ裏、ライオンズマンションの1階にオープンされた、ちっちゃいちっちゃいコーヒーショップ。少し裏通りなのが、いい感じ。

オーナーのみゆきさんは、もともとcafebusnonで朝にドリップコーヒーを買って行ってくれるお客さんだった。

その時から優しくて素敵な人だな~と思っていたのだけれど、昨日のみゆきさんはその時以上に柔らかく優しい表情をしていた。

もともと、安定した仕事についていたみゆきさんから【仕事を辞めてコーヒーの仕事をする】と連絡をもらった時には、かなりびっくりした。自分の仕事が誰かの人生に影響したのかもしれない、と思うと嬉しかった。

【あなたを見て、好きな仕事をすることにした】【移動販売をすることにした】【仕事を辞めることにした】そんな話をいくつか聞くたびに、嬉しい反面、ドキドキもした。

その人たちは、その後、楽しくやっているだろうか。後悔していないだろうか。

自分が責任を取れるわけではない。「やりたいなら、やったほうがいい」と言うことは、無責任なのではないか。そんなことを考えると、自分の主張をしすぎない方がいいのか、、?と思うこともあった。

そんな時に、みゆきさんが自分のお店をオープンされたということを知った。そして、すぐに行くことにした。

そして、一目見て【来てよかった】と心から思った。みゆきさんの「仕事を辞めて、踏み出してよかった」という言葉が沁みた。何より、表情が物語っていた。

人との関わりで己を知る

そもそも、人見知りで、注目されるのが嫌いで、目立ったこともしたくなくて、中学生の時に「主婦になりたい」と答えていた私が、なぜ一人で移動販売(しかも駅前)をしていたのか?

それを聞かれるたびに「人見知りの克服のためですかね?」とごまかしていたのだけれど、今、自分の本心がわかったような気がする。

それは、多くの人と関わることで【自分という人間】を模索していたのだ。

目の前の人にかける言葉、思ったこと、感じたこと。それらは、自分の気分や状況、今考えていること、不安なこと、嫌いなことや好きなこと、何を大切にしたいのか?を知る手がかりなのだ。

受け答えること、反応すること、伝えることは、鏡のように自分に返ってくる。

「それはイケナイことでしょ!」と誰かに腹が立った時は、【自分は我慢しているのにあの人はズルい!】という潜在意識があるのかもしれない。それに気付けば、我慢していることや自分の本当の望みを知ることができる。

【人に希望を与えられる人でありたい】と思っていた本心は、そんな自分(誰かにとっての希望になれる自分)を認めてあげたい(現状は認めてあげれていない)だったかもしれないし、それはもう、答えのないクイズのようなものなのだ。

そして、そんなことを悶々と考えるのが変態的に好きなのだ。

人の背中を自然に押せる時

そう考えてみると、自分が何かに夢中になっている時には、自然に人の背中を押せるような気がする。「きっとできるよ!」という言葉は、相手のことだけではなく自分のことも奮い立たせているのだ。

逆に「やりたいこと、やったらいいじゃん」と全力で言えない時には、自分が現状に疑問を持っている時であったり、スッキリしていない時なのかもしれない。自分に自信がない時には、相手に自信をもたせてあげる資格がないような気がしてしまうのかもしれない。

誰かに言葉をかける時には、その裏側にある自分の本心を探るチャンスだ。

自分が発する言葉が、自分の人生をつくる。

これから、私はどんな言葉で人生を作っていくのだろう。楽しみである。

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poreporeさんがonimagaさんで紹介されていて、とってもわかりやすいので貼っておきます♪

 

やっと冬眠から目覚めた人たち

しばらくブログを書いていない間に、20日も経ってしまいました。あちゃ~

ここ数日、すごく暖かくなってきました。これこれ、これだよね、春って。何をするにも心地いい。洗濯物をお外に干すときに幸福感。やっぱり、好きだなあ、、春♡

こんなに暖かいと、ついお出掛けしたくなってしまいます。ちょっと前の出不精とは正反対の、毎日どこかしらの公園やお散歩や動物園に、ちっちゃい相棒と出掛けています。

ちっちゃい相棒は、もうすぐ1歳6ヶ月。だんだんと走れるようになってきました。段差のあるところを登ったり、降りたり。坂道を駆け下りてみたり、力を振り絞って登ってみたり。小石を食べて、吐き出したり。近所の猫ちゃんに煮干しをあげてみたり。元気で何より。

お外で作業するのも気持ちがいいから、DIYも捗る捗る。やっと、家のいろいろな所を片付けたり、庭造りの計画もはじめました。ナカジマ家、やっと冬眠から目覚めました。

4月になって変わったことといえば、つむつむの大好きなEテレの「いないいないばぁ」と「おかあさんといっしょ」のお兄さんお姉さんの卒業で歌が変わりました。前の歌が大好きだったから、新しい歌どうかなあ?と思って見ていたけれど、ちゃんと適応して新しい歌でもじーっと見てマネして踊っています。

子どもの適応力って、すごい。無くなってしまったものを嘆くのではなく、いま目の前にあるものに一直線。そして、それを楽しむ、のみ。

そういえば、新年号も発表されましたね。5月から始まる新年号【令和】に慣れれるかなあと思っていたけれど、その時になってしまえば大人だってきっと適応できるんだろうなあ。(何回読んでも、いまいち【令和】の意味の解釈が良くわからない。個人的には【平和に成る】みたいな誰でも分かるどストレートなやつが好き。)

何はともあれ、今年度もイベントやらアウトドアやら、いろいろと楽しみたいと思います。内容うすくてすみません。なぜなら春は毎年、脳内お花畑。ナカジマノゾミでした。

2019年04月11日 | Posted in ブログ, 子連れさんぽ, 暮らしと子育て2 Comments » 

 

大量の本の行方

本屋さんのはなし

12月から本屋さんでアルバイトをしている。かれこれ、もうすぐ4ヶ月になる。

初めはお店の掃除や本の整頓くらいしか出来なかったものの、だいぶできる作業が増えてきた。レジの操作、入荷した商品をチェックすること、コミックの中が読まれないように透明のカバーをかけること、防犯用のタグをいれること、注文してくれた人に入荷の案内電話をすること。

まだまだ分からないことが多いけれど、とりあえず1/3人前くらいにはなれたような気がする。

そんな本屋さんの仕事の中で、疑問が多いのが自動配本と返品の仕組みだ。

自動配本と返品

本屋さんには、書店が注文しなくても自動的に本の卸業者みたいなところから毎日新刊が送られてくる。勝手に大量の本を送ってきて、その分を伝票で請求してくるのだ。(普通のお店だったらありえないような仕組み)

本はどんどん送られてくるのだけれど、本屋さんのスペースにも限界がある。だから「売れる見込みのないもの」「売れなかったもの」「お店のテイストと合わないもの」などは、書店員が判断し、返品する。

すると、返品した分の代金が返金されるという仕組みになっている。

だから、バックルームには【今月の返品目標〇〇箱!】みたいな、不思議な張り紙があったりする。とにかく、たくさん返品しなければ、仕入金額が大変なことになってしまうのだ。

この時点で、いろいろと無駄も発生する。本を送る、戻す、という運賃。そして、検品したり、売れる状態にカバーをかけたりするアルバイトの人件費。

雑誌などの付録は、今では当たり前のように【良いもの】がついていたりするのだけれど、これは返品をする際に破棄することになっている。売れ残れば、大量に制作し大量に破棄することになる。

そして、そもそも返品した本。これがどこに行くのか気になって社員さんに聞いてみた。すると、卸業者さんに戻ったあとに、出版社さんに戻り、在庫などになるのではないか、とのことだった。

でも、そもそもお店で「売れそうにない、げんに売れなかった」と判断して返品しているのだから、全国の書店から同じように返品されてくれば、出版社がそんなにその本の在庫をもつ意味もない。つまり、在庫が多すぎれば裁断されて、処分されるのである。

本の種類が多すぎる

今は、雑誌も書籍も、種類がありすぎる。毎日新刊が200冊くらい出版されているらしい。その冊数が、少し減れば、、、と思うのだけれど、本が売れなくなり、どんどん新刊を出さないと出版社の売上数が減り、存続が危機的な状況だからやむおえずどんどん新刊をつくっている、という事らしい。

1店舗ならまだしも、全国規模ではどれくらいの資源をつかっているのだろう。考えると、ぞっとする。

今は、こういった自動配本や返品といったルートにのせない「リトルプレス」なども増えてきているけれど、まだまだ少数派だ。

本はやっぱり紙が好きなのだけれど、こういった資源の観点からみたり、本が届くまでの速さのことを考えると、電子書籍が活躍するのもわかるような気がしてしまう。

本屋さんの仕事は、もちろん楽しいのだけれど、すこし複雑な気持ちになる。

【本を出版する】というのは、目的ではなく手段だったはずだ。世に伝えたいことを伝えたり、人の生活をちょっと豊かにする手段。いつのまにかそれが生き残るための手段、になっているのかもしれない。

出版社さんが【生き残る為に本を出す】のではなく、【いい本を世に出したい】という本来の理由で本をつくれるような仕組みが出来たらいいなあ、、と思う。

本が売れない時代だからこそ、本来の目的を思い出さないといけないような気がする。本屋さんも、出版社も。ナカジマノゾミでした。

2019年03月22日 | Posted in ブログ, 本屋さんのこと4 Comments » 

 

【Less is more】in Kamakura

鎌倉旅行に行ってきました

毎年、誕生日の周辺で旅行に連れて行ってもらっています。昨年は、富士山の麓でトレーラーキャンプ。その前はモルディブ。その前は、星のや富士のグランピング。

ありがたいことに、毎年計画してくれます。毎回楽しませてもらっています。今回の鎌倉も、子連れながらいろいろと動き回ってきました。

鎌倉は観光地。そんなにエコなイメージはなかったのですが、今回の旅行で【環境に力を入れている街】なのかもしれない、、ということを知りました。

なんとなく、どのお店も必要以上に梱包しない。コンビニの店員さんも積極的に「テープでいいか」と聞いてくれる。泊まったホテルは、高級ホテルではないからかもしれないけれど、不必要なものは置かないシンプルなサービス。

全体的にスッキリとしている。

パタゴニアに惚れる

パタゴニアでは、購入した衣服をショップ袋に入れずに、そのまま渡してくれました。これには私も旦那さんも、店舗を出た瞬間「惚れる~!ますますパタゴニア好きになる!」と絶賛。環境や地球のことを第一に考えた企業理念を徹底した姿勢がかっこいい。

今までも、なんとなく「このままでいいのかな?」と、疑問だった丁寧な梱包。一度、透明のビニールに入れてから、ショップ袋に入れてくれることもあったりして。ちょっと【良いお店】だと、なおさら丁寧に丁寧にしてくれる。

でも、それって【お客さんの為という名のお店のため】だったりする。

丁寧に梱包すれば、お店のイメージを守ることが出来る。買った人がショップバックを持ち歩いてくれれば、宣伝にもなる。クレームは減るし、顧客満足度は上がるかもしれない。商品を丁寧に扱ってくれるのは、自分を丁寧に扱ってくれているようで嬉しいような気もしてしまう。

もちろん、贈答には喜ばれる。それは渡す側にとっても、嬉しいこと。

だけれど、、自分用に購入するときには(そんなに丁寧じゃなくてもいいのに)と思う場合がけっこうある。

分母は大きく

【迷ったら、大きな方に貢献できる方を選べ】という言葉を聞いたことがある。どういう意味かと言うと、例えばA案とB案の二択の選択に迫られたとき、どっちがより大きな分母になるのかを考え、そっちを優先しろという意味だ。

個人にとってベストな選択なのか、家族にとってベストな選択なのか、会社にとってベストな選択なのか、地域にとってベストな選択なのか、国にとってベストな選択なのか、地球にとってベストな選択なのか。これらは、後方に行くほど、大きな分母で物事をみている、ということである。

例えば、【会社】にとっては利益が出る仕事だったとしても、【地球】という分母で見た場合、地球にとっても利益(貢献)しているのだろうか?と考える、ということだ。

家族にとっては【良いこと】でも、地域住民が【迷惑なこと】はするべきではないし、我が国にとって有益なことでも、その他大勢の国にとって害のあることはベストな選択ではない。

その中でも、私達が考えなくてはいけない最も大きな分母が【地球環境】だ。

お店にとっては、会社にとっては、国にとっては利のある選択だとしても、地球環境にとって利のある選択でなければ、選んではいけない。一番大きな分母が破滅するということは、結局、お店も会社も個人も破滅するということなのだ。

なぜ鎌倉にエコが浸透しているのか

どのお店も、なんとなくエコな意識が強いような気がして調べてみると、こんなニュースが出てきた。

昨年の夏、鎌倉の由比ヶ浜で打ち上げられたクジラの赤ちゃんの胃の中から、通常出てこないプラスチックが出てきた、というのだ。それを深刻な問題だと捉え、環境を守る条例を強化したのかもしれないし、実際にクジラを目の当たりにした地域住民が進んで条例を守っているのかもしれない。

正確な真相はわからないけれど、他の地域や、個人個人の生活でも見習わなければいけない、と今回の旅行で意識させてもらいました。

そんなこんなで、すごく、すごく、意義のある旅行でした。楽しんで、学んで、感じて。いっぱい食べて、いっぱい飲む!うむ、最高!ナカジマノゾミでした。

2019年03月15日 | Posted in ブログ, 子連れさんぽ, 暮らしと子育て2 Comments » 

 

20歳のわたしと30歳の私

 どうやら、誕生日というやつが来るらしい

あと数時間で30歳になる。

30歳になるということは、20代が終わるということだ。濃く、激動の、それでいて心地よさに包まれた20代はもう終わりだ。

この10年で一体何が変わったのだろう、と思い返してみる。そうすると、変わってないものなど殆どないということに気付く。【ほぼ全て】が変わった。見た目も、中身も、名前も、環境も。

ここ10年の1番の収穫は【己を知る】ということだろう。

20歳の私は、まだまだ自分のことを知らなさすぎた。

自分のことを知った20代

自分はどんな時に幸せを感じるのか。どんなものが好きなのか。どんな時にストレスを感じるのか。どんな時に体に影響が出るのか。何を1番大切にしたいのか。どんな人が好きで、どんな人が苦手なのか。どんな人生を送りたいのか。

何にも分かっていなかった。(今でもすべてが分かるわけではないけれど)

平々凡々に過ごした10代。傷つき、傷つけ、迷惑も心配もたくさんかけた20代前半。やりたいことをして、プライベートも充実し、順風満帆の20代後半。

「明日が来なければいいのに」と思った日もあった。運転中に橋を渡りながら「このまま、車ごと川に墜落したい」と願った日もあった。いろんな事があったけれど、その時の私に言いたいことは「生きていて良かったと思える日が、必ず来る」ということだ。それと「そんなに嫌ならとっとと逃げろ」と。

死ぬほど嫌だ、と思ったことですら、時間が経てば感謝したい出来事になる。

【過去は、理解するためにある】という言葉を聞いて、なんだか妙に納得してしまった。過去は、ジャッジするためにあるわけではない。後悔するためにあるわけでもない。ただ、今の自分が過去の出来事を観察し【あの時なぜそう思ったのか】【なぜそう動いたのか】【その結果どうなったのか】を理解し、学ぶためにある。

歴史を学んで未来に活かすように、過去から学んで未来の自分の人生に活かす。それだけのこと。

ほぼ全てが変わってしまった、と書いたけれど唯一変わっていないものがあった。家族と昔からの友達だ。それぞれみんな年を重ねたけれど、【大切な人たち】という関係はまるで変わらない。そこに新たな家族という宝物が増えた。これほど幸せなことはないだろう。

20歳のときの私と今の私、どちらかを選ぶとしたら絶対に【今の私】がいい。「若い!」と言われなくなっても、出産で体型が変わっても、お肌の曲がり角をとうに過ぎたとしても。年を重ねるごとに【今の私が一番好き】と言える人生で在りたいなあと思う。

40歳の私は、いったいどんな私なのだろう。ここからの10年、いったいどんな出来事が起こるのだろう。生きている限り、楽しみは続くのだ。

30歳もよろしくお願い致します。ナカジマノゾミでした。

 

コスパの追求はコスパが悪い?

コストパフォーマンス、通称コスパ

コスパという言葉がどうにも苦手だ。

例えば、飲食店であれば「金額の割に、美味しい」とか「金額の割に、いい食材をつかっている」とか、そういうことになるのだと思うのだけれど。そこには【同じ金額を払うなら、出来る限り多くを受け取りたい】という意味が潜んでいる。

もちろん【与えたい】よりも【受け取りたい】と思う感情は、ごく自然なものだ。

【損をしたくない】という感情は、誰しもが持っていて当たり前のものだ。

けれど、それを声を大にして言うのは本人の品格を下げているような気がしてならない。ある意味【コスパが悪い】のではないだろうか。

お店の視点から見た場合【コスパを求めてくるお客さん】が多くなるほど、精神的に疲弊してくるような気がする。なぜならば【もっといいものを!もっと安く!】という要求には、際限がないからだ。もちろん、経営努力や技術でどうにかなるかもしれない。でも、きっと、どこかにそのしわ寄せが来ている。

「もっといいものを与えてくれないのであれば、他のお店へ行こう」というお客さんばかりのお店の店員さんの顔は、輝いているのだろうか。

得をするお客さん

移動カフェをしている時に、なぜだか毎回、得をしてしまうお客さんがいた。その人は【より多くを得たい】とは考えておらず、いつも店のことや私のことを気にかけてくれる人だった。混んでいたら、他のお客さんに順番を譲ってくれた。初めてきたお客さんには積極的に話しかけて場をなごませてくれた。カフェラテを飲んで、とびっきりの笑顔で「美味しい~!幸せ~!」と言ってくれるような人だ。

私は、その人が大好きだったから、ついつい他の人からの差し入れがあると、こっそりと彼女におすそ分けしていた。「今日たまたま貰ったから、よかったら食べます?」と。すると毎回「なんてラッキーな日なんだろう!!!幸せ!!」と目を輝かせて言ってくれるのだ。それが可愛くて、私まで幸せな気持ちになっていた。

その人は、他のお客さんともあっという間に仲良くなり、直々にケーキを買ってきてもらったり、コーヒーを奢ってもらったりしていた。

そして、またとびっきりの笑顔で「私って、本当についてるんですよー!」と言っていた。

それを聞いていた私は【幸運って、自分でつくれるものなんだなあ】ということを、その時の彼女に教えられた。【ツイている人】というのは、ツキを自分で運んでいるのだ。それは「ツイてる、ツイてる…」と唱えることではない。運は、完全に偶然のものと、人為的なものがある。表面的には偶然に見えても、誰かの小さな小さな意思が加わっていることは結構ある。私がつい渡したくなってしまった差し入れがいい例だ。

「いい物件が見つかった」「いい仕事が舞い込んできた」「いい縁に恵まれている」というのは、ただの偶然ではないことが多い。(この人になら…)と、誰かの意図が絡んでいたりするのだ。

誰かの意思の加わった人為的な幸運が世の中の大部分ではないか?というのは、移動カフェという仕事をして学んだことだ。

そのツイている彼女は【自分の持っている能力を与える】を繰り返し、結果的に※人生のコストパフォーマンス※を上げている。そんな気がする。

そんな人を見ていただけに、【受け取りたい】というコスパ追求を繰り返したら、逆に※人生的にはコスパが悪い※ということになりえるのではないか、と思うようになった。

コスパを追求するということは【より、多くを受け取りたい】ということをいつも考えるということだ。【受け取りたい、損したくない】というベースを日々育てているということだ。

結婚はコスパが悪い?

あるコラムで読んだのだけれど、若者の結婚しない理由の一つとして【結婚はコスパが悪い】ということがあるらしい。うわお、ついに日本ここまで来ちゃたか!と、びっくりしてしまった。

確かに、結婚したり子どもを生んだらお金がかかるし、自由も減る。そして義務は増える。それは【できるだけ、損をしたくない】という気持ちからくるものかもしれない。でも、それ以上に受け取るものもいっぱいある、ということも知っておいたほうがいい。

そもそも、家族に対して「君は、コスパが悪い。」なんていう人はいないだろう。なぜなら、人は自分の愛するものに対してはコストパフォーマンスを求めないから。人は、自分の愛するものに対しては【受け取りたい】よりも【与えたい】が先行するからだ。

そしてそれは、お店に対しても当てはまる。本当に大好きなお店であれば、コスパが良かろうと悪かろうと、通いたい。【コスパがいいから好きなお店】と【コスパが悪くても好きなお店】は大きく違う。コスパが悪くても好きなお店であれば、コスパ以外の魅力がきっとあって、実はその部分がけっこう大切だったりするのだ。

そして、本当にお店の存続を願うお客であれば、そのお店に対してコスパは追求しないはずだ。きっと。

お店であれ、家族であれ、友人であれ、恋人であれ【与えたい】と思えるモノたちに囲まれる生活のほうが、※人生のコストパフォーマンス※は良いのかもしれない。愛するものがたくさんある、というのは幸せなことだ。

苦手と言いながら、何回コスパ言うてんねーん。ナカジマノゾミでした。

2019年02月24日 | Posted in ブログ, 生きるシアワセ6 Comments » 

 

彼の重要性について

バレンタインの日に思うこと

昨日はバレンタインでしたね。ここ数年のバレンタインは「プレゼント」というよりは、この時期しか食べられないめちゃくちゃ美味しいお菓子を「プレゼントという名目で一緒に食べようの日」になってきています。

毎年恒例の「ACHON」のザッハトルテに、ショコラサブレ。ザッハトルテは甘すぎずに絶妙で、まわりのチョコレートの食感が、もうなんと言えばいいのか。そして、この時期しか無いショコラのサブレが死ぬほど美味しい。初めて食べた時に「あ、天才」という言葉が浮かびました。

それに今年は、彼の好みの感じにロースターで焙煎させてもらった豆(焙煎体験も兼ねて)でコーヒーを淹れて。コスタリカのナチュラルの中深。焙煎後3日というちょうどいい感じで用意できて良かったです。

こうなってくると、バレンタインって最高だよなーとつくづく思います。なんせ美味しい上に、焙煎体験までしちゃったし。いつも「来年はチョコレート手作りしようかな~」と頭をよぎるものの、自分で作った対して美味しくもないお菓子を食べるなんて、バレンタインじゃなくてもいいか、と正気に戻ってしまうわけです。(なんせおかし作りが下手)

そんな美味しいバレンタインでしたが、ここの所、彼に対する気持ちに変化が出てきたように思います。

旦那さんに対する気持ちの変化

これまでも、大切な人であることに変わりはなかったのですが。ここ数ヶ月は【自分にとって、どういう存在か】ということが、だんだんと変化しています。

私たち夫婦はそもそも、干渉しすぎない関係で。一緒に楽しめることは一緒に、そうでないそれぞれの趣味は、それぞれに。お互いの輪が重なった部分を楽しく過ごそう、という感じでした。

でも、息子のつむつむ君が生まれてからは、その重なった部分に【子ども】というカテゴリが入り、その重なった部分のウェイトがとても大きくなりました。《一緒に楽しめること》が格段に大きくなりました。そして同時に《助け合いが必要なこと》も、とても大きくなりました。

特にここ数ヶ月はやんちゃになってきており、私の体調やTodoなどお構いなしに暴れまくっているのですが、彼がいるからどうにかなっています。

夫婦ふたりの時は「早く仕事から帰ってこないかな~」というよりは「今のうちに1人でしたいことをしておこう」と思っていたのですが、今は早く帰ってきて欲しくて、時計とにらめっこしています。「早く帰ってこないかな♡」というよりは「うおー!早く帰ってきてくれーー!!!!ヘルプミー!!!」という感じではありますが。笑

【夫婦は結婚と同時に成るものではなく、だんだんと成っていくもの】という言葉を聞いたことがありますが、その言葉をまさに実感しています。だんだんと【家族】になっていっているのが、自分でも感じられるほどです。

子どものことを同じ目線で話せる、唯一の存在。

「こんな事ができるようになったよ。」「昨日は、こんな様子だったよ。」寝顔を見ながら「なんて可愛いのだろう…」と。小さなことを心から喜んだり、大切なことを相談できる相手。

彼の存在は、私にとって日々、大きなものになっています。

いつも、本当にありがとう。

何が言いたかったのかというと、チョコレートは手作りじゃなくても愛情は詰まっていますよ、ということです。(来年度への伏線)ナカジマノゾミでした。ちゃんちゃん。

ケーキとお菓子は豊田市の「ACHON」さん

コーヒー焙煎は豊川市の「スペシャリティーコーヒー蒼」さん

どっちも本当におすすめです。おすすめしたくないほどに、おすすめです。

 

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