今日もだれかの誕生日

Pocket

ここのところ、ブログを書くペースがすっかり遅くなっています。

 

かわいすぎる生き物に、毎日触りたくてしょうがないので、1日必要最低限の家事以外はつむつむ君と遊ぶことに費やしています。

お昼寝中に何かしようと思っても、一緒に寝るのが心地よすぎて一緒に寝てしまう。夜の寝かしつけもしかり。

めっちゃ平和。ふわ〜っとした気持ちで1日が過ぎていきます。いい意味でも、悪い意味でも。

 

母の誕生日に思うこと

 

そうそう、先日は母の誕生日でした。

特に何もしていないけど、こっそり実家につむつむ君の写真を置いてきました。(嬉しいかどうかは分からないけど。笑)

子供を生む前までは、誕生日って「その人にとっての特別な日」という認識だったけど、いざ自分が子供を生んで見ると家族の誕生日って「自分にとっても、関係の深い日」のような気がしています。

母の生まれた日。それは、私が存在できていることにも深く関わっていて、当然息子が存在できていることにも深く関わっている。

おばあちゃんが母を生んでくれたこと、それは自分を生み出してくれたことでもある。

そのもっともっと遡って、先祖の誰が欠けても自分は存在していなかったのかもしれない、と思うとすごく特別なことのように感じる。

自分に対して何かをしてくれたとか、してくれなかったとか、どういう存在だったとか、そういうのを抜きにして。

「存在」そのものに対して、感謝の気持ちが湧いてくる。生まれてくれて、ありがとう。

生まれてくれて、ありがとう、は、子どもにだけでなく、両親や義理の親、祖母や祖父に対しても同様に思うようになった。

そして親だけでなく、姉弟に対しても。兄や姉が生まれながらに重い病気を抱えていたら、親は私を生もうと思わなかったかもしれない。今の私が私であることと、姉弟が健康であることは無関係ではないはずだ。

 

今日も誰かにとっての誕生日

 

1年という365日、毎日、誰かにとっての誕生日だ。それは他人であるかもしれないし、友達であるかもしれない。

その人が居ても居なくても、自分には関係のないこと、と思えるかもしれない。

 

でも、きっとそうではない。すべてはつながっている。

自分が存在しなくても、ぱっと見は世界は変わらないだろう。でも、自分いなければ、今の自分にとっての半径5メートル(家族や友達)の世界は、きっと変わる。

ということは、その家族や友達それぞれの、そのまた半径5メートルの人の世界も、また変わる。そして、その次の5メートルの人の世界も。

それを繰り返していけば、自分が居てもいなくても世界は変わらない、なんていうことはなくて。

どんな小さな変化だったとしても、自分が存在する世界と自分が存在しない世界は、少しだけ違うはずなのだ。

そう思うと、今自分がこの環境に生きているということ、今この環境に幸せを感じられるということは、家族だけでなく、すべての人の存在のおかげとも言えるのではないだろうか。

そんなことを、目の前の可愛い小動物のような生物を眺めながら思うのである。

つながりを求める時代と言われていたけど、そもそもすべては繋がっていたのだ。それをようやく可視化出来た、ということに過ぎない。

見えるつながりは安心感をもたらす。

けど、見えなくても本当はつながっているし、自分の存在は世界のどこかに作用している。

今日もこうして、意味のないような文章を書きながら。それが世界のどこかの誰かに作用する可能性を想像しながら。ナカジマノゾミでした。

ソーシャル

関連記事

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です