【親切】がなくなる社会になればいいと思う

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先日、タリーズに行ったときのこと

ランチを過ぎてお茶には早い時間だったということもあり、店内には2,3組のお客さんがいる程度の静かな店内。

座りやすく、ベビーカーも置きやすいソファの角の席でコーヒーを飲みながら、もうすぐ10ヶ月になる息子とのんびりしていた。

そのとき、赤ちゃんを抱っこ紐で抱っこしながら一人のママさんが入ってきた。

 

座るところはたくさんあるのだけれど、見渡すかぎりソファ席はあいておらず、すこし残念そうな顔のママさん。

私は抱っこしていたわけでもなく【広さ】の観点でその席にいただけだったから「よかったら、ここどうぞ!」と言って、すぐ近くの席に移動した。

そのママさんは「え〜!そんな!…ありがとうございます!」といって、気持ちよく受け取ってくれた。

抱っこ紐で抱っこするというのは、どのママさんも当たり前のようにしているけど、長時間(ましてや、毎日、一日中していたり)すると、相当肩と腰に負担がかかる。

そして赤ちゃんを連れていると、おむつやミルクなどの飲み物、おやつにおもちゃ。荷物も一人のときの何倍にもなり、ちょっとしたお買い物でもけっこうハードだ。

荷物を横においたり、手を横についたり出来るソファのほうがゆっくり出来る。

 

もし、子供を生むまでの自分だったら、そのママさんの残念そうな一瞬の表情に気付けなかったかもしれない。そう思うと、息子がいてくれたおかげで少し視野が広がったのかもしれない、とふと思った。有り難い限りだ。

そして、さんざんのんびりして席を立ったとき。さっきのママさんが「こんなにのんびりできたのは、本当に久しぶりです。ありがとうございました。。」と声をかけてくれた。

そこからすこしだけ世間話をして、なんだかすごく温かい気持ちで家まで帰ることが出来た。

その状況においてごく自然に動いただけなのにお礼まで言われてしまって、気持ちの良いい一日を過ごさせてもらって、こちらこそありがとうございます、という感じだった。

お父さんが大きな荷物を持つのは、親切?

 

お父さんが大きな荷物を持って、お母さんが赤ちゃんを抱っこして、お兄ちゃんが軽い荷物を持って、一家でお出かけするとしたら。

お父さんが大きな荷物を持つことは、きっと【親切】ではない。お父さんは力があるから、大きい荷物をもってくれる。それは【親切】ではないけど、みんなはお父さんに対して「いつもありがとう」という気持ちになる。

もしくは、それが当然のようになっているかもしれないけど、お父さんは決してお母さんや子どもに「俺は親切にいつも持ってやっている」とは思わないだろう。

それがごく自然に自分の役割として、認識しているのではないだろうか。そして力の面では頼っていたとしても、繊細な作業の面ではその役割はお母さんになるかもしれないし、子どもの役割だってなにかしらあるはずだ。

そんな風に社会をみてみたらどうだろう、とふと思う時がある。

そうなると【親切】という言葉自体が必要なくなるかもしれない。

体力のある人が、お年寄りや体調の優れない人に席をゆずる。急いでいない人が、急いでいる人にレジの順番をゆずる。手が空いている人が、面倒をみる。元気のあるひとが、声をかける。気分のいい人が、ニコニコして場をなごませる。

そんな風に、それをごく当たり前の役割として担っていけたら。そこに親切という概念はなくなり「してやったのに!」「頼んでいない!」という低レベルな論争もなくなる。

それには、大きな意味で社会をまるごと家族のように思うような気持ちが必要だ。そこにありがとうという気持ちがあるのは、前提で、ということでもある。そして、自分にできる役割はなんだろう?と、各々がいつも考えていないと成立しないだろう。

性別も地域も国境も越えて、大きな社会の【今、その場でできる自分の役割】として状況を見渡すことが出来たら。押し付けでもなく。渋々でもなく。

そんな日常が、いつかくるのかもしれない。そんな日が、いつか来るといい。

 

いつの日か【親切】という言葉がなくなりますように。

ナカジマノゾミでした。

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コメント4件

  • たまごサンド より:

    行為をする側に
    「親切なことをしてあげた」
    「親切にしてあげないと」
    という意識があると
    それは見返りを期待することに
    近づいちゃうんだと思います。

    でも、行為を受けた側や、
    第三者としてその様子を見ている人が
    「親切な人だなぁ」と思うのは、
    「かっこいいなぁ。。」
    「自分もああなりたいっ!」
    と思うきっかけになることもあるので、
    それは満更悪いことではないかも。。
    とも思います。

    タリーズでの第三者にも、
    そう思った人がいるかも (^^)

    • nonnon より:

      たまごサンドさん

      なるほど。
      第三者、から見た親切。
      それが次の親切につながっていく。
      そう思うと、なんだかちょっと素敵です^^

      年齢を重ねるにつれて、周りに気付けることって増えるはず。そう思うと年をとるのは楽しいです^^

  • 闘魂まさゆき より:

    お久です(^^;
    今回の内容も深い話ですね。
    よく分かりますよ。
    少しズレちゃうかもしれないけど、ラグビーというスポーツの場合、一昔前までは自己犠牲のスポーツとされていた。(自分が高校時代の時は私もそう考えていた)

    もちろんその考えも間違えではなくチームの為に身体を張る、タックルする。これを献身的なプレーとされ賞賛された。
    最近はこのチームの為に自分が何が出来るのか?
    と考える。
    15人のスポーツであるラグビーは足の速い人もいれば遅い人もいる。背の高い人もいれば小さな人もいる。
    自分の強みを生かしてこのチームの為にどう貢献するかを考える。

    チームの為に献身的にプレーする。
    チームの為にどう貢献するか考えてプレーする。

    同じに見えて全く違うプレーに対する考え方。

    自分自身もラグビーだけでなく仕事に於いても考えさせられるテーマになってます。

    ちょっとズレましたが伝えたい気持ちは共感しますよ〜(o^^o)

    • nonnon より:

      闘魂まさゆきさん

      なるほど・・・
      チームのために、何が出来るか。自分の特性を知って仲間の特性も知っていないと出来ないスポーツなんですね。
      本当、人と生きる上で大切なことが詰まっているのかもしれないですね^^

      スポーツって、その中だけじゃなくて、その人の生きる上での考え方や行動にも影響するから面白いですね♪

      あ!そうか!それで豊田スタジアムのラグビーの試合の時に観に来てて寄ってくれたんですね〜!納得!!

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