泣きたい時に泣かなくては、涙が存在する意味がない
この顔、好きです。
生後もうすぐ6か月。夜泣きの始まり
ここの所、夜泣きのような、寝付いてからのぐずぐずが始まっています。生まれて2、3か月の時は1日中ほとんど泣くことがなかったつむつむ君。最近は泣き方に激しさが増して、夫婦共々『ひーΣ( ̄。 ̄ノ)ノ』となっています。
しかも、彼の凄い所は【決して諦めない!】運転中のどうにもしてあげることが出来ないときなんかは、泣き疲れて眠っちゃうものなのかな?と思っていたんですが。
彼は、自分の要望(抱っこして、寝かせて!)が通るまで、諦めない。声がかすれても、泣くことで体がどれだけ暑くなっても、諦めない。
【諦めない心】を、もうすでに、習得していらっしゃる。
泣きたい時に泣かなくては、涙が存在する意味がない
そう、彼は涙の存在を存分に味わっている。涙が存在する意味は、泣きたい時に泣くためだ。彼こそ、そして赤ちゃんこそ、涙のプロフェッショナルと言える。
大人になったら、泣きたい時に泣けない人がたくさんいる。赤ちゃんの方が、泣くことに関しては上手なのではないか。そして、泣きたい時に泣けなかった大人たちの涙は一体どこに行ってしまうのだろう?
一時期流行った『涙活』も結構いいものなのかもしれない。
涙の味
涙は、どうして泣いたかによって味が違うらしい。嬉し泣きや、悲し泣きは水っぽい(甘い)味がして、怒った時や悔しい時は塩辛いらしい。
水分と一緒に溶け出す成分が、何を刺激されて泣いたかによって違うのだとか。
私が今まで流した涙は、一体どんな味だったのだろうか。cafebusの中で流した涙は、確かにいつも甘かった。実は人の優しさとか、温かさとか、憧れの人に会えた嬉しさとか、感動とか、そんなことがある毎にこっそり泣いていた。(時には堂々と泣いていた)
反対に、悔しくて悔しくて仕方なかった日も当然あって。帰り道、運転できないくらい泣いたあの日の涙は、確かに辛かった。鮮明に覚えている。
最近は、実体験での涙はほとんど流していない。ドラマや映画を見て泣くことはあるけど、直接自分の心を揺さぶられたり、不甲斐なさが悔しかったり、ということがそんなにないのかもしれない。
甲子園やオリンピック、駅伝なんかを見ていると、美しい涙がたくさん溢れている。見ている方も泣けてくる。でもどうせ涙を流すなら、当事者の立場で流したい。
涙は、自分で自分のことを知る、いい機会だ。
泣くのは、つむちゃんの勝手
と、まあ、つむつむ君が存分に泣いてくれるのは素晴らしくはあるものの、あやしてもあやしてもあまりにもずっと泣いている時にはこんな歌を歌うようにしている。
「♪カラス、なぜ鳴くの?カラスの勝手でしょ♪」の感じで「つむちゃん、なぜ泣くの?つむちゃんの勝手でしょー♪」
何をしてもダメな時に、頑張って泣きやませようとすると「もう!」とイライラしてしまうので、泣きたいだけ泣きなはれという作戦である。(そうだよね、泣きたいんだよね、うんうん、わかるわかる、そういう日もあるよね〜)なんてブツブツ言いながら。(わたし的にはかなり心が軽くなるので、同じようなママがいたら是非試してみて欲しい)
今日は、どんな泣き顔が見れるだろう。そして、どんな笑顔が見れるだろう。今日も君との1日をたくさん感じよう。中島希でした。
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