私が、私を殺していく

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外食の時に考えること

昨日は、つむつむ君とパパと3人でお出掛けしていました。

ちょうどお昼時だったので、外食をすることに。子どもがいると当たり前なのかもしれないけど、外で食べるときには、だいたい迷います。

まず、大前提は、子どもと一緒に食べられそうなものがあるお店。そして、暴れて困る雰囲気ではないお店。少しガヤガヤしているくらいのお店。

 

そして、そのお店の中から、半分こ出来そうなメニューを注文します。

メニューはどうやって決めるかというと、子どもの食べやすそうなものを考慮した上で、その日の子どもが着ている服を見て、ポロポロ食べこぼしても大胆なシミが出来ないメニューが候補にあがる訳です。(赤い服の日は、トマトソースでもいいけど、白い服の日はやめておこう、とか。ちなみに白い服の日は、ぶどうジュースも避けたいからりんごジュースか水にしよう、とか。脳内会議をしている)

それを、何ヶ月か当たり前のようにしていたから、気付かなかったけれどなんだか違和感があって。この違和感は、なんだろう?と考えているうちに【何が食べたいか、ではなく何を食べるべきか、で決めている自分】にハッとしました。

これは、私が私を殺している、ということではないのか、と。

自分の感性に耳をすますということ

私は、子どもが生まれるまで【選択する】ということを大事にしていた はず だった。

余分な条件を一切無視して、選択することを大切にしていた。

サービス券があるから、こっちにしよう。ポイントカードがあるから、このお店で買おう。身体によさそうだから、こっちにしよう。そういう理論的な条件を最大限に無視して、今自分が何を一番望んでいるか、に耳をすます。

簡単なようだけれど、ついつい人間は、ベストを考えて選択をしてしまう。それこそ【どうするべきか】【どうしたらいいか】で選択をしてしまう。

本当に大切なのは【どうしたいか】であるにもかかわらず。

日々、自分の感覚に耳を澄ましていないと、感覚は鈍る。その結果、大切な【どうしたいのか】がわからなくなってしまう。

今の私は、きっと感覚が鈍りまくっている。きっと多くのママも経験しているかもしれない。子どもの好きなのも、喜ぶもの、好きな場所。自分の感覚よりも、まず最優先に思い浮かぶのは喜んでいる子どもの顔だ。

私を殺している、なんて書いてしまったけれど、それは決して強要されていることでもないし、我慢しているという感覚でもない。むしろ、喜びだ。子どもの笑顔を優先して選択することは、ものすごく幸せなことなのだ。

一緒のメニューが食べられるようになったこと、たくさん食べられるようになったこと。たとえ、思っていたよりもたくさん食べてくれて、自分の分がなくなったとしても、それもまた幸せなのである。「あんなにちょっとしか食べられなかったのに、こんなにたくさん食べられるようになったのね!」という気持ちは、成長を見守る側として至福の時だ。

我慢や、押さえ込みばかりがベースになっていればどこかで爆発する時が来る。たまには自分の都合を優先させたい!とわがままを言う日が来てもおかしくない。

ただ、我慢ばかりでなく、幸せであるからこそ、ちょっとずつ自分で自分を殺していってることに気がつかない。幸せを感じることと、自分の感覚を鈍らせているということは、共存しうる。

気付いたら、自分の好きなものってなんだっけ?やりたいことってなんだっけ?と分からなくなったりする。

子どもが、子どもが、子どもが、問題

先日、ランチをしていたら、隣の席に二人組の女性が座った。聞くつもりはなかったのだけれど、話が耳に入ってきたから、こっそりと聞いていた。(おい!)

50代と思わしきその方々は、ランチ中、終始【他人】の話しをしていた。他人、とはいえ家族のことや子どものことだったから、正確には【自分ではない、何かのこと】だ。

子どもの大学が、子どもの彼女が、子どもの好きな芸能人が、子どもの成人式が。そして、あとは、テレビで見た情報など。

自分ではないものの話をして、何が楽しいのだろう?と、思いながら聞いていた。(⇦失礼)

そこに主体はいないわけで、会話の相手がその人でなくてもいいような気がするし、お互いに有意義な情報を得ているわけでもない。(とはいえ、誰かと喋りたい!という発散願望はかなえているのかも。だとしたら、とっても有意義。)

家族の話と子どもの話しか話題がない主婦には、絶対になりたくない!と思っていたけれど、いざ自分がその立場になってみると、それに近い主婦になっている。

なぜならば、他の何かのこと(夢中になれることや仕事のことなど、子ども以外のこと)を真剣に考えていないからだ。常々考えていないことは、口から出てくることはない。そして、文章になって手が動くこともない。

このままでは、超絶つまらない人間になっていくのではないか。避けたい事態に、自分から飛び込んでいるような気がしてならない。

 

そんな妄想をしながら、今日も私は生きている。今日は、自分が一番大好きなビールを買いに行こう。まだ、私は生きていたい。

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